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第006話 戦禍の跡

【オーストリア ウィーン】

アキコことマリア・テレジアは側近たちを下がらせて、一人となった。

考えるべきことはいくらでもあった。

一体何が起こったというのだ。

しばらく考えあぐねた後、大きくため息をつく。

(今、それを考えてどうなる……)

それが結論であった。

今は18世紀なのだろうが、正確な日付はどうなっているのか、まずそこを知りたかった。

側近を呼んで聞けば簡単なことだったが、それは止めておく。

なぜなら、どうやらこの世界のマリア・テレジアは初老期に入っていたらしいのだが、熱から醒めたときに見た目の年齢が若返っていたからだ。

前世の自分の年齢とほぼ同じになったようである。

たしかあの奇妙な声は【53歳から35歳に】と言っていたので、35歳であることに違いなかった。

侍女や女官の戸惑いはひしひしと感じていた。

ここで曖昧な態度を見せて悟られるのは、いかにもまずい。

「わからない……」

ぼそりと呟くと、見慣れたコンソールパネルが空間に立ち上がった。

「これは……」

驚いて思わず声が漏れる。

サワダやエツコと組んでしのぎを削った、あのシミュレーションゲームのコンソールパネルだった。

【サポートが必要ですか?】

「えっ……」

目が点になる。

(なんだ、こいつは?)

【はい。私はあなたを補助するために作られた一種の知性です。深く考えるのは止めましょう。考えても無駄ですからね】

(な、なるほど……では、私の置かれた状況をできるだけ詳しく教えてくれる?)

【了解です!】

妙にテンションが高いのが気になったが、説明はアキコの知っている史実のままであった。

コンソールパネルに明滅する「1770年4月」という文字を目にし、アキコは深く息を呑んだ。

今月まさに末娘のマリー・アントワネットがフランス王太子のもとへ嫁ぎ、長年の宿敵ブルボン家との同盟に成功した。これは最も大きい外交的な果実であった。

だが……ハプスブルク帝国が直面している冷酷な現実は、アキコの肩に容赦なく重くのしかかってくる。

事の発端は30年前、1740年に始まったマリア・テレジアのオーストリア継承戦争であった。

女帝がハプスブルク家を継承することを不法とする諸外国との間で、欧州全体を巻き込んだ大規模な戦争が勃発したのだ。

その機に乗じてフリードリヒ二世率いるプロイセン王国軍は、オーストリアで最も経済的に豊かな地域シュレージエンを併呑した。

これに対し、オーストリアの女帝となったマリア・テレジアは、宿敵であったフランスおよびロシアとの外交関係を改善し、同盟を結ぶことに成功する。

そして1756年、シュレージエンの失地回復を目指して七年戦争が起こった。

包囲されたプロイセンは滅亡寸前まで追い込まれる。

だが、そこでプロイセンにとっての「神風」が吹いたのだ。

ロシア女帝エリザヴェータが急死。

その後を継いだのは、プロイセン生まれで大のロシア嫌い、さらにはフリードリヒ二世の狂信的な信奉者であるピョートル三世だった。

ロシアは土壇場でプロイセン側へ寝返ったのである。

脳内の知性が提示するデータと、前世で培ったシミュレーションゲームの知識が瞬時に交差し、帝国を囲む巨大な外交問題が脳裏に鮮明に浮かび上がった。

北ではフリードリヒ二世率いるプロイセンが虎視眈々と機会を狙っている。

だが……東のロシア帝国滅亡。

その文字に目を擦る。

それは明らかに史実と異なっていた。

「な、なんでよ……」

あのエカチェリーナ二世が治めるロシアが滅亡するなど、到底信じられなかった。

それだけではなかった。

オスマン帝国がバルカン半島から撤退。

「嘘でしょ?」

【事実です。半年前に突然現れたワラキア王を名乗る男に率いられた軍団が、オスマン帝国軍と激突し勝利しました。オスマン帝国軍がイスタンブールにまで撤退した結果、バルカン半島は支配者を失い、混乱状態にあります】

(待って……ワラキア王の支配下になったのではないの?)

【いいえ。ワラキア軍はそのままポーランドを素通りしてサンクトペテルブルクに進軍。本日未明、女帝エカチェリーナおよび皇太子パーヴェルの死亡を確認しました。現在、モスクワに立てこもったポチョムキン公爵の軍勢と交戦中です】

(バルカン半島を放棄して、全軍でロシアに向かったというの? 信じられない……)

それでは長続きするはずがない。

戦争は補給線が寸断された瞬間に負けだからだ。

まるで野盗の集団に等しい軍団に、あのロシア軍が敗れ去ったことなどとても信じられなかった。

歴史の中には存在しない謎の軍団によって、ロシアが滅亡に向かっていた。

さらに、財政状況はアキコの想像を遥かに超えて悪化していた。

国庫を蝕む酷烈な財政難は極めて深刻だ。

七年戦争が残した莫大な戦費と公債の利払いは年々の予算を激しく圧迫しており、シュレージエンを奪還できぬまま重い債務だけが積み残されている。

特権階級である貴族や聖職者への課税改革は遅々として進まず、国家の屋台骨を支えるためには、直轄地での官営事業や新たな収益基盤の確立が文字通り焦眉の急であった。

財政難に追い打ちをかけるように、異常気象による冷害がボヘミアを中心に農村を苛み、重い強制労働に喘ぐ農民たちの不満は今にも暴動となって噴出しかねない。

加えて夫の死後に始まった息子ヨゼフ二世との共同統治は、功を焦る彼の急進的な啓蒙改革と、伝統を重んじる母との間に深刻な亀裂を生ませていた。

独自の特権にしがみつくハンガリーをはじめとする各地の貴族勢力もまた、ウィーンからの改革の決定をことごとく阻もうとしていたのである。

(……う〜〜ん、ちょっと待て、私、アキコ考えろ! 七年戦争の借金は山積みで、ボヘミアでは飢饉の予兆が漂っている。おまけに息子は先走り勝ちで、プロイセンはギラギラとこちらの隙を窺っている。その上、ワラキアの謎の軍団とそれを率いる王は一体何者なのよ?)

アキコは、ボヘミアの飢饉が二年後に大惨事となって帝国に襲いかかることを知っていた。

彼女にはマリア・テレジアの記憶があった。

あったと言っても自分自身の体験記憶ではなく、思い出そうとすると情報が表示されて脳内に情景が再生されるのだ。

他人の記憶を動画で見ているような感覚に近い。

したがって、中身は完全に「アキコ」のままであった。

ベッドに身を起こし、ゆっくりと深呼吸をする。

事態を頭の中で整理してから、女帝を演じてみようと試みる。

己の手に一度視線を落としてから、アキコはぎこちなく重厚な鈴を鳴らした。

すぐに女官の一人が現れた。

(なるほど……プライバシーはほぼゼロというわけね)

「陛下、お呼びでございますか」

「ヨゼフと、カウニッツを呼びなさい。大至急です」

間もなく、謁見の間に二人の男が現れた。

一人は皇帝であり共同統治者でもある息子、ヨゼフ二世。

その鋭い瞳には、常に国家の遅れに対する焦燥と、溢れんばかりの改革への野心がギラついている。

もう一人は帝国の外交と内政を文字通り陰で操ってきた宰相、カウニッツ伯爵であった。

巧みな外交手腕でフランスとの同盟をまとめ上げた老練な政治家は、深く頭を下げた。

「お呼びでございますか、母上」

「陛下、急ぎのお呼び出し、何事でございましょう」

マリア・テレジアはコンソールパネルから視線を外し、二人をじっと見つめた。

まずは、彼らが現在の帝国をどう認識しているか、その「底」を確かめなければならない。

「カウニッツ、そなたの働きによりフランスとの同盟はなった。長いこと苦労をかけたな」

「これは……誠にありがたきお言葉。恐悦至極にございます」

「さて、今後のシュレージエンのことであるが……」

マリア・テレジアはここで言葉を切る。

その間も件のサポート知性が、猛烈な勢いで推奨情報を流し続けていた。

【シュレージエンは戦略的に放棄することを推奨します。プロイセンとのこれ以上の交戦は極めて非合理的、かつ非効率的です。現在の予算をボヘミアに集中投資することが、プロイセン対策と同時に、来たるべき飢饉対策になります】

シュレージエンに近接するオーストリア側の領土がボヘミアであった。

(なんで? 理由は?)

女帝がかすかに首をかしげるのを、カウニッツ伯爵が瞬きもせず注視している。

パネルには次々と具体的なデータが示された。

自国で3万丁のマスケット銃を生産する体制を構築し、プロイセン式の横陣斉射をさらに発展させた「三段撃ち」を導入すること。

そこに鉄製の大盾を配置して防御特化陣形を組めば、敵は攻めれば攻めるほど一方的に兵力を削られるという軍事プランだった。

さらに食料面では、小麦畑の排水溝を整備し、飢饉に強いジャガイモやサツマイモを速やかに導入する。

ボルドー液(農薬)の製造工場を建設し、鶏糞堆肥の大規模生産から養鶏・ウサギ飼育の補助までを国家規模で行う。完璧な防衛・救荒策が示されていた。

「……シュレージエンは、戦略的に放棄することとします」

「なんですって! 母上様、一体どういうおつもりですか!?」

ヨゼフが驚き気色ばむ。

「まあ、話を聞きなさい。シュレージエンは三年ほどで無価値な領地になります」

実際にそれが可能かと問われれば、可能なのだ。

ハプスブルク家とホーエンツォレルン家では、根本的に経済規模の差が3倍近くもある。

その国家予算をボヘミアに集中投資し、繊維、鉄鋼、武器、農薬、肥料産業を起こす。

さらにデンマーク、ルクセンブルク、スウェーデン、フランス、イタリアなどの職人を国家保障のもとで誘致すれば、ボヘミアは一大工業地帯に生まれ変わる。

結果として、シュレージエンは相対的に衰退していくのだ。

同時に、ワラキアに現れた謎の軍団がロシアからオーストリアへ向かってきた際にも、この3万丁のマスケット銃と防衛陣地が最大の対策となる。

もちろん大きな賭けではあったが、ボヘミアの工業化によって数年後に投資額を回収できる計算なので、決して無謀な計画ではないのだ。

これは謎の知性がシミュレーションを重ねた結果であった。

「カウニッツ伯爵、あなたはどう思いますか?」

「シュレージエンを失った痛みは忘れがたく、プロイセン王はいとも高貴なるご宗家の最も危険な不倶戴天の敵とみなさざるを得ません。フランスとの同盟は確実なものとなりましたが、それだけでは失われたものを取り戻すことは出来ませぬ。……しかし、陛下はシュレージエンをあえて放棄した上で、それを実質的に取り戻そうとなされている。私は賛成でございます。ですが……予算のほうが」

「ユダヤの資本家を頼るしかありません。ハプスブルク家は今なお強大です。国家的大事業であれば、その利幅の大きさに彼らは敏感なはず。あなたに根回しをお願いできませんか?」

国家予算とユダヤ資本が投下されれば、それに追従してイギリスやフランスからの投資も十分に期待できる。

「御意のままに」

「さて、ヨゼフ。あなたには身分を問わず若手の官僚を必要なだけ登用し、その長として働いてもらいます。『ボヘミア特別開発庁』の設置を急いでください」

「……あっ……あ」

「何を呆けているのですか?」

「母上……私にお任せいただけるのですか?」

「あなたは皇帝です。先陣に立って指揮を執りなさい」

「神明にかけて御意に従います!」

ヨゼフは勇み立って部屋を飛び出していった。

「カウニッツ、苦労をかけますね。申し訳ないのですが、フランスのマリーにも気配りをお願いできますか?」

「もちろんでございます」

「感謝いたします」

「そのようなお言葉……ですが陛下、なにやらこの老骨、進むべき道を示していただいて、いささか胸が躍っております」

「まあ、嬉しいことを……」

二人の反応が上々であったことにホッと胸を撫で下ろしながら、アキコはこれだ……と思った。

IT企業で一丸となって開発していた、あのロボット産業の中核となる技術。

立場は変わっても、あの時の高揚感と同じものを感じていた。

笑われそうであるが、ネバネバ蕎麦屋の企画でもアキコなりに楽しめていたのだ。

(まったく、凝りない女だわ。私……)

そう思って薄っすらと笑うと、前の世界……おそらくは自分の前世なのであろう。

最後の瞬間に真剣な表情で何か言いかけたサワダと、その横で期待に満ちた目を向けていたエツコの顔が思い出された。

(あれは、何だったのだろう……)

そう思うと、突然切なさで胸が熱くなった……。

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