第010話 事業開発
【オーストリア ウィーン】
ルードヴィヒ・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵を、マリア・テレジアは親しみを込めて「ルッツ」と呼ぶ。
彼はハプスブルク家に忠実な臣下であり、マリア・テレジアが幼い頃からよく知る有能な経済官僚である。
もちろん、アキコがそれを知っていたわけではない。
だが、マリア・テレジアの記憶の中に、強い親近感とともにこの男の存在があった。
「陛下、公債を発行されたいとのことですが、私には農業フランチャイズという事業形態が今ひとつよく理解できかねるのですが」
そりゃあそうだろうな……とアキコは心の中でため息をつく。
「フランチャイズとは、事業の枠組みと効率的なノウハウだけを決めて参加者を募集する事業のことです。事業のための初期投資は、参加者本人が行わなければなりません」
「はい。ですが、枠組みを決めたからと言って、本当に自己資金を投じてまでその事業に参加するものでしょうか?」
「投資家という生き物は、有能であればあるほど事業の予測可能性の高さを重視します。つまり、確実に儲かる事業にしか投資をしたがりません。投資はバクチとは違うのですから」
「はあ、ですが、確実に儲かる事業などというものがありますか?」
困惑気味に首をかしげるルッツを見て、マリア・テレジアはフフンと艶っぽい笑みを浮かべる。
これはアキコが会議の席で自説を展開する際の、無意識の癖であった。
なぜか、この癖には強力な説得力が伴う。
特に男性に対しては……。
「この場合、『ある』と言えるでしょうね。そのための公債なのですから」
「つまり、事業利益を公債で補償するということでしょうか?」
「事業そのものを補償する必要はありません。行うのは『最低価格保証』です」
「最低価格保証、ですか?」
「ええ。参加者は投資に対するリターンが最低でも元本割れしなければ良いわけですよね。もちろん、元本そのものを保証するのではなく、生産物の市場価格が暴落した時にだけ、あらかじめ設定した最低価格との差額を補償するために公債を使います」
「相場が暴落した時にだけ、価格の補償を国家が行うと?」
「まさしく、その通りです」
「ですが、それがハプスブルク家にとってどのような利益になるのでしょうか?」
「税収の拡大が望めます」
「はあ……ですが、それは事業が成功した上で、価格が暴落しないことが条件ですよね?」
「全くその通りです。ですが、ライ麦の価格推移を見てみなさい。暴落する傾向がありますか? ライ麦はわが国の主食ですよ」
「暴落どころか、高騰していますね」
「そうです。つまりライ麦の生産は、需要に対して常に不足しているということを示しています。国内に安定した需要がある……つまり今の状況では、ライ麦は作れば作るほど売れるのです。であれば最低価格保証のための財政出動は必要とならず、公債の利率も安定して低い状態に維持できます。貴方なら、こんな公債に投資したいと思いませんか?」
食料不足が起こるのは、何も飢饉や天災だけが原因ではない。
飢饉が起こると穀物価格が高騰する。
すると穀物を扱う商人は当然のごとく、価格が上がり切るのを待つ。
つまり、売り惜しみをするのだ。
だが、食品の直売方式が一般化したら仲買の売り惜しみは意味を失う。
「なるほど、確かに話を聞けば驚くほど斬新な発想ですな。農民が仲買を通さずに直接農産物を売りさばく。国が直売店を作って販売手数料を取るという発想も実に新しい。ですが、問題はあります」
「安定供給を提供できるほどの生産力が存在しない、と言いたいのですね?」
「その通りです」
十八世紀の世界には、二十一世紀とは大きく異なる需要と供給の関係が存在する。
慢性的な供給過剰である二十一世紀に対して、十八世紀は慢性的な供給不足なのだ。
特に鉄と食料は、作れば作るほど市場に吸収されていく。
だがそれは、単に生産技術の低さに起因しているに過ぎなかった。
そして、それには驚くほど簡単にできる解決方法が存在するのである。
「そこで、このマニュアルを読んでみてください」
「このノーフォーク農法とは、既にイギリスで高い実績のあるものなのでしょうか?」
当時のオーストリアでは「三圃制農法」が採用されていた。
この農法は冷害や飢饉に対する耐性が極めて弱い。
それに対して、既にイギリスで導入されていた「ノーフォーク農法」は、穀物・ジャガイモ・カブ・クローバーを四年周期で順に同じ土地で栽培する方法である。
これと「養鶏」を組み合わせると魔法が起こる。
簡単に見積もっても、二倍から三倍に収穫量を増やせるのだ。
しかも、もし穀物が飢饉によって全滅したとしても、ジャガイモを主食として農家はしのぐことができる。
さらにクローバーとカブの生産によって鶏の飼料も維持できるため、飢饉の影響は最低限に留まる。
そして、鶏糞は無限大の肥料を提供してくれる。
その説明に、ルッツは大きく頷いた。
「これは……今、抱えている財政難を大きく改善する可能性がありますね」
「私もそう思います。まずはボヘミアの直轄領でこの方式を取り入れます」
「ボヘミアが豊かになりますな」
「そうです。私はボヘミアの民に豊かになってもらいたいのです。いずれは全オーストリアを、飢饉のない豊かな民で溢れさせようではありませんか」
「全くもって、その通りですな」
「ルッツ、あなたは公債の発行と、それに伴う人材の登用を急いでもらえますか?」
「分かりました。ぜひともこの私にお任せください」
「現在、カウニッツがユダヤ商人ほか、大資本を持つ貴族や商人への説明を行っています。ボヘミア開発庁の設置はヨゼフに任せました。この二人とは密に連携をお願いしますよ」
「ハハッ」と平伏していたルッツは顔を上げると、いたずらっぽく笑った。
「陛下、なにやらお若くなられて、色っぽくなられた。このルッツ、惚れてしまいそうですぞ」
「まあ! ルッツ、蹴飛ばされたくなかったら早く仕事をしなさい!」
「全身全霊を込めて」
再び深く頭を下げ、そして楽しげに笑いながら出て行った。
皇帝ヨゼフの人材登用は、意外と順調のようであった。
貴族の次男・三男を中心に説得を進めているらしい。
実に良いところに目を着けている。
ある程度の資金を持ち、しかも文字が読める階層でありながら、領地を持つ望みがない者たち。
ヨゼフの働きに、アキコは満足感を覚えた。
次は、製鉄所をどうするかが難題であった。
これは農業フランチャイズのような少額投資でどうにかなるものではない。
国家規模の事業となる。
だが、武器の大量生産には絶対に必要となるのだ。
それよりも大きな懸念がある。
ロシアの次は、オーストリアが狙われるのか?
『魔王』とは一体何者なのか?
それ以前に、自分がなぜこんな所で女帝をやっているのか?
それすら理解できていなかったが、迷いはない。
人は与えられた運命を楽しめばいい。ただ、それだけのことだ。
アキコは次のミッションに向けて、したたかな笑みを浮かべていた。




