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第011話 事始め

あれは夢だったのであろうか?

いや、そんなはずはない。

ヤンは自らの首筋をさする。

そこに確かに鋭い牙が差し込まれたはずであった。

今でも思い出す度に身が震える。

すっかり衰弱したはずの体には、力が漲っていた。

ヤンはゆっくりと立ち上がった。

周囲を見回すと、そこが鉱山の使われなくなった坑道の中であることが分かった。

光は全くない。

にもかかわらず、目がよく見えた。

「どういうことだ?」

独り呟くと奇妙な声と共に、透明のガラスのようなパネルが目の前に立ち上がった。

【ミミックFGR09867型のウィルス感染を確認。認識構造が変容しました。知的レベルの異常値を示しています。地球上に存在しないタイプと断定します。ステータスを確認しますか?】

「誰だ!」

ヤンは鋭く叫び、周囲を見渡した。

だが、そこには誰も見つけることはできなかった。

【現在の知性を有効利用するために必要な知識が欠如しています。教育プログラムを実行しますか?】

「教育……なんだって?」

【教育プログラムです。あなたは今の状況を理解していますか?】

そんなことはヤンに理解する術などあるわけがなかった。

そもそも、この怪しい声は何なのだ?

【教育プログラムは数分で終了します。終了後、ご懸念の私の正体も概念的には理解できます。教育プログラムを実行しますか?】

ヤンは急に、警戒をしている自分がおかしくなった。

自分はもはや死んだも同然ではないか。

もう何でもいいや……。

「よく分からないけど、何でもいいや。やってくれ」

次の瞬間——。

様々な知識や概念が本流のように流れ込んできた。

ヤンの驚異的に高い知性は、それを的確に吸収していった。

プログラムが終了すると、いろんなことが分かってきた。

自分の得た能力も……。

そして、この世界が如何に未熟で歪んだ構造をしているかを知る。

ヤンにとって重要なのは『農奴制度』という社会システムであった。

それはヤン自身が農奴であり、今は奴隷となり、人身売買の対象であったからだ。

「いい気なもんだ……」

ヤンは毒々しい顔で笑っていた。

新たに得た知識の中には、人間が生まれた時にはその能力はほとんどの場合、大差がないということであった。

だが、この世には貴族と平民……ヤンから見れば特別な人種が存在し、残りは全て農奴なのだ。

なぜ、そんなことが起こる?

ヤンの生まれたポーランドでは10%程度の貴族が人口の70%の農奴を所有している。

ロシアでは更に酷い。

実に0.6%の貴族が50%の農奴を所有している。

そして、物のように売買される。

【社会制度の改革方法の説明が必要でしょうか?】

「社会改革? 興味ないね。それよりお前は誰なんだ?」

【私は宇宙意識、その巨大なデータベースです】

「なんで、俺に構う?」

【私があなたに干渉しているわけではありません。あなたがミミックFGR09867型のウィルスに感染したことで、認識チャンネルが開いたのです】

「つまり、今まで聞こえなかったものが聞こえるようになったってことか?」

【その解釈でほぼ合っています】

「まあ、それはいい。社会改革にもお前に対しても興味はない」

【了解しました。認識チャンネルを閉じます】

「ちょっと待てよ」

【はい、どうぞ】

「貴族や皇帝、そんなもんは滅んだほうが良いとは思わないか?」

【それは善悪、また良い・悪いのカテゴリー分けは不可能です】

「だがよ。俺はそいつらを滅ぼしたい。お前はそれに協力してくれるんだろ?」

【私には協力という行動は出来ません】

「じゃあ、なんで俺に色々教えてんだよ。それを協力っていうんじゃないのか?」

【私はデータベースの情報を音声化しているに過ぎません。それは協力を意味しません。あなたがデータを閲覧しているというのが最も近い意味です】

「よく分からないけど、要するに知りたいことはお前から引き出せるってことだな」

【はい、全てのデータはここにあります】

確かに「データ」なるものが、そこにあった。

ヤンは自分の必要な知識を、いつでもそこから引き出せた。

まず分かったことは、自分の異常な身体能力の高さである。

巨大なヒグマを素手で殴り殺せるくらいの力が、既に備わっていた。

だが、それは始まりに過ぎない。

この力は『剛腕』というスキルであった。

そして、それはまだレベル1に過ぎなかった。鍛えればレベルは上がる。最大レベルは10であるようだった。

そして、もう一つ。

『自己再生』というスキルも備わっていた。

これもまだレベル1に過ぎなかったが、既に欠損した体を再生できる領域に達していた。

失ったはずの右腕が元に戻っていたのは、このスキルの恩恵のようであった。


知性:200 / 400

直感:100 / 100

感覚:50 / 150

感情:150 / 100

健康:100 / 2000

精神:1800 / 10000


データから引き出したヤンのステータスであった。

スキルとステータスには密接な関係がある。

重要なのは「健康」と「精神」であった。

例えば『自己再生』はレベル以外に「健康」と「感覚」「感情」の現在値に依存する。

この値が高ければ、それだけ自然回復量が増えるからだ。

そして「健康」の現在値の回復速度は、「感覚」と「感情」の値に依存する。

「健康」と「精神」は、栄養を十分摂ってよく寝れば自然に回復する。

仮にヤンの「健康」と「精神」が最大値まで回復した状態で、どれくらいのことができるのか?

その答えは簡単に分かった。

普通の人間のステータスは、

知性:xx / 50+-

直感:xx / 50+-

感覚:xx / 50+-

感情:xx / 50+-

健康:xxx / 300+-

精神:xxx / 300+-

程度であった。

このワラキアの鉱山の警備兵の人数はどれくらいだったか?

その忌々しい奴らの顔を、一人ひとり思い浮かべてみる。

そして、何よりもあの監督官……。

兵士たちの顔ぶれは様々であったが、いずれも粗暴で残忍な者共であった。

アルバニアから来た流れ者やバルカンの傭兵……こいつらが大多数を占めていた。

派手な民族衣装に身を包み、ナイフや火縄銃の扱いに長けているが、規律は最悪で搾取と暴力の常習犯であるのが当たり前。

次に多いのは、地元ワラキアの落ちこぼれ兵で、オスマン帝国の走狗と成り下がった連中だ。

同胞である鉱山奴隷たちに威張り散らし、憂さ晴らしに暴力を振るう卑劣な奴ら。

あとは、ロシアやオスマン帝国からの脱走兵で、いずれもスネに傷を持つ犯罪者にほかならない。

一つ確かなことは、奴らは奴隷を虫よりも簡単に殺すということだ。

以前のヤンにとってみれば、ただの恐怖の対象であった。


だが、最も残忍なのは監督官を務めるギリシャ人の没落貴族だ。

既にオスマン帝国に支配されて久しいギリシャやワラキアの元貴族など、今ではヤクザ同然であった。

奴隷を人間と思っておらず、生き死になど気にも留めない。

残忍で計算高いことだけが取り柄の男。

自分の懐を肥やすことしか頭になく、動けなくなったヤンをゴミのように放置した張本人であった。

(大いなる義務)

その言葉がヤンの中で何度もこだまする。

自分でも意識しないままに悪魔的な引きつった笑みを浮かべ、ヤンは地上へと向かった。

途中で大きな石を背負った奴隷たちとすれ違ったが、誰もヤンに目を向ける者はいなかった。

無論、そんな余裕などあるはずもない。

出口には、銃剣を持った男たちが卑猥な冗談を交わしながらタバコをふかしていた。

ヤンはその横を、そのまま通り抜けて外へ出ようとする。

「おい! お前、どこへ行くつもりだ?」

男たちの一人が怒声を上げた。

ヤンはそれを一瞬、チラリと見たが、すぐに興味を失ったように歩き続けた。

男の顔が憤怒に染まる。

銃床でヤンの顔をいきなり強打した。

ヤンはゆっくりと倒れた。

そして倒れながら、笑っていた。

(これも、大いなる義務……)

うつ伏せに倒れたヤンに対し、男はペッと唾を吐き、その頭をブーツで激しく踏みつけた。


では……それを始めよう。

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