↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/13

第003話 アンチテーゼ

【ポーランド 寒村】

18世紀において世界を支配したものが何であったかを問えば、それは「力」であったとしか言いようがない。

力ある者は栄華を極め、その他の大多数はその支配を受ける者として生きるしかなかった。

当時のヨーロッパにおいて、支配を受ける者の最たるものが農奴であった。

ポーランドにおいては人口の八割が農奴であった。


ヤンが生まれたポーランドの中央部は、小領主とその一族によって支配されていた。

平原と森が点在する美しい景色の中、千人から二千人ほどが身を寄せる貧しい村々が点在している。

村にはみすぼらしい教会が一つ、それに警察署、査定官、その他の下級官吏が数人配置されているだけだ。

住民に自由はない。

生まれた村から出ることも叶わない。

そもそも、農奴であるヤンに「自由」という発想があるかすら怪しかった。

だが、そんなヤンにも家族を愛する心はあった。


「やめて〜!」

姉のゾフィアが絶叫を上げているのを、ヤンは物陰から見つめていた。

新任の若い官吏は領主一族の末端に属する男で、農奴たちにとっては神にも等しい身分だった。

「おい! 今なんと言った。もう一回言ってみろ」

「や……止めてください」

「お前はそんなに偉いのか? ええ……言ってみろ。お前のような奴隷が主人に歯向かったらどうなるか?」

その言葉にゾフィアは動きを止める。

「さあ、こっちへ来い。可愛がってやるからよ。お前はこの村に置いとくにはもったいないほどの美人だ」


やさしい姉のゾフィア……。

ヤンは姉を助けるために飛び出していきたかった。

だが、恐怖にすくんだ体が動かない。

ボロボロと涙がこぼれ落ちた。

ふと振り返った姉と、目が合ってしまう。

ガラス玉のような無機質な目をしていた。

……ヤンは思わず目を背けた。

あの眼球は、まるで地獄の底へとつながっているかのようだった。


村人が倉庫に使っている小さな小屋から、男は欲望を満たしたのか、しばらくして出てきた。

跡をつけると、男はその足で酒場に向かい、派手な衣装のけばけばしい女と陽気に乾杯している。

ヤンの心は、何か黒いもので塗りつぶされていくのを感じていた。

だが、少しでも美しい農奴の娘が、領主やその一族の欲望のはけ口となる……そんなことは、この地では当たり前のように行われている日常だった。

例え、神の教えがそのような行為を許していないといしてもだ。


いくら当たり前の日常であろうと、抑圧された怒りと恐怖は、強い悪意となって心の中に沈殿していく。

ヤンの心は黒い何かで塗りつぶされていくのを感じていた。


だが、地獄はそこが始まりに過ぎなかった。


ほどなくして、プロイセンとの国境で小規模な戦乱が勃発する。

「領主様の命令じゃ、仕様がねえ。すぐに戻ってくるから、かちゃんを頼むぞ」

そう言って父親は、手製の竹槍を担いで出かけていった。


だが、父親が戻ることはなかった。

それどころか、村から駆り出された男たちのうち、生きて戻れたのはほんの数人だった。

領主は己の私兵を守るため、農奴たちに農具や竹槍を持たせ、弾除けの肉の壁として前線へ駆り出したのだ。

ヤンの父親もその一人だった。

横一列に並び、整然と進軍してくる熟練のプロイセン兵の前では、竹槍を手にした農奴などただの的に過ぎない。

最初から捨て石にされることが決まっていたのだ。

姉を冒涜したあの領主一族の男が、何のつもりか戦況を自慢気に語っているのを、ヤンは酒場の入口で無表情に聞いていた。


家長を失ったヤンの家には、領主が課した理不尽な「戦時特別税」と、過去の重税による巨額の借金だけが残された。

払えるはずがなかった。

「返せないなら、代わりのモノで払ってもらうまでのことだ」

査定官が連れてきた人身売買ブローカーの手によって、姉のゾフィアは買われていった。

馬車の荷台へ乱暴に押し込められ、姉は連れ去られていく。

「わたしはもう終わりだよ。……次はお前の番だ。こんな世界、ぶっ壊れちまえばいい」

最後にそう言い残して。


残されたのは、ヤンと母親の二人だけだった。

父と姉の手が抜けた分の過酷な労働が、容赦なく二人にのしかかる。

絶望と重労働の中、母親の体は急速に蝕まれていった。

肺を病み、苦しそうに激しく咳き込みながらも、母親は自分の小さな畑を耕し続けた。

手を休めれば監督官の鞭が飛んでくるだけだからだ。


ある寒い冬の朝、雪の上に赤い血を吐き出しながら、母親が呟いた。

「わたしゃ……もう、どうでもいいよ。生きてたって、いいことなんか何一つないんだからさ」

ヤンの生きる気力をすべて削ぎ落とすような言葉を残し、母親は冷たくなった。

底知れぬ恐怖に全身が包まれ、ヤンはしばらくの間、何も考えることができなかった。


そしてヤンに残されたのは、到底返せるはずのない借金という名の鎖だけだった。

「親が死んだからといって、借金が消えると思うなよ。お前自身の肉体で払ってもらう」

査定官はヤンの首に鉄の首輪をはめ、鎖で縛り上げると、そのまま待ち構えていた奴隷商人に引き渡そうとした。


だがこの日、ヤンの絶望的な運命は一変する。

「査定官殿! 新しい領主様が着任されました!」

前領主がプロイセンとの敗戦の責任を問われ、更迭されたのだという。

新しく着任したのは、まだ若く、パリで先進的な啓蒙思想を学んだ青年貴族だった。

名を、バルトシュといった。

新領主のもとで、農奴たちの生活は激変した。

ヤンもまた、生まれて初めて「人間らしい生活」というものを経験することになる。

いや、今までは領主にとって農奴は私有財産であり、人ではなかったのだ。

新しい領主は農奴を人として扱った。

バルトシュの指導のもとで農業生産性は飛躍的に向上し、農民の手元にも食料が残るようになった。

そればかりか、領地の経営収支までもが黒字化したという。

ヤンは文字が読めた。

かつて父親が与えてくれた数少ない本を読み込み、独学で覚えていたのだ。

その才を知ったバルトシュは、ヤンを下級官吏として抜擢した。

複雑な数字を扱う仕事だったが、ヤンは驚くべき速さで経理の業務を吸い込んでいった。


夕暮れ時、書類から目を上げたヤンは、生まれて初めて「村の夕陽が美しい」と思った。

胸の中に、温かな希望の光が灯っていた。

だが……そんなヤンの姿を、暗い陰鬱な目で見つめる男がいた。

ポーランドの平原は、重く暗い雲に覆われていた。

まるで、逃れられぬ、呪いのように。

すぐに、不吉な予感は現実となる。

そして、ヤンはこの世界に普遍的に存在する一つの真理を悟る。

心が死んだものには恐怖はない。

そのものには一つの大きな課題が与えられる。

神とは違うなにか大いなるものからの…….

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。