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第002話 始まり

18世紀......

【オーストリア、ウィーンの宮廷】

気がつけば、甲高く興奮に上ずった声が、頭に響いた。

「イーレ・マイェステート・エルヴァハト——! ライプアルツトをお呼びせよ、早く!」

声は遠く、近く、波のように揺れていた。

熱を出していたのだろうか。

私は一体……

重い瞼を、ゆっくりと開けた。

最初に見えたのは、天井だった。

……なんだ、この天井は。

深紅のビロードが、頭上いっぱいに広がっている。金糸で縫い取られた唐草模様が、どこか遠くで揺れる蜜蝋燭の光を受けて、息をするようにゆらめいていた。巨大な天蓋の四隅から垂れ下がる金色の房飾りが、かすかな空気の動きにつれて、さらさらと揺れている。

(うちの店の、あの染みだらけの天井とは、ずいぶん違うな。……あれ?なんだったけ?)

記憶が混濁している。

【ロールが設定されました。女帝 マリア・テレジア 年齢調整を行います。53歳から35歳】

(なに……今の声は?)


身を起こそうとすると、全身が軋んだ。身体が、ひどく重かった。

それでも何とか視線を巡らせると……寝室の全貌が、少しずつ目に入ってきた。

壁は深紅のダマスク織で張り詰められ、金彩の額縁の中には見知らぬ貴人たちの肖像が並んでいた。窓は高く、重厚なビロードのカーテンが引かれているが、その隙間からわずかに、鈍い陽光が差し込んでいた。

……どこかの、お城か。

甘い匂いがした。蜜蝋と、何か薬草のような、鼻の奥を刺す青い香り。

そして……人がいた。

寝台の周囲に、何人もの人間が立っていた。

白粉を厚く塗った顔。

高く結い上げた髪。

黒いドレスの裾を床に引きずった年配の女性が、両手を口元に当てて、目に涙を浮かべている。

その隣には、金糸の刺繍を施した上着を着た白髪の男性が、深く頭を垂れていた。さらにその後ろ、部屋の隅の方には、若い侍女たちが身を寄せ合うようにして、こちらをじっと見つめていた。

誰もが、固唾を呑んでいた。

「マイェステート(陛下)……そのお姿は」

年配の女性が、震える声は驚きに満ちていた。

周囲からはヒソヒソと「……お若くなられたように見えるが……」と驚きの声が聞こえていた。

(若くなった?私のこと……)

「7日間でございます。7日間、ずっと、陛下は、だが、神の恩寵を賜われた。」

それ以上は言葉にならなかったようで、彼女は深くお辞儀をしたまま、肩を震わせ.....泣いていた。

(7日?)

私は、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。

一週間も、眠っていた? 私が?

記憶を手繰り寄せようとした。

今朝のこと。

昨日のこと。

……でも出てくるのは、出汁の香り、暖簾をくぐるお客の顔、年季の入った木のカウンター、そういうものばかりだった。

この部屋とは、何一つ繋がらなかった。

私は、ゆっくりと口を開いた。

喉が、ひどく渇いていた。

「……ヴァッサー、ビッテ(水を、お願いします)」

声に出してみてギョッとなる。

それは威厳に満ちた、そして澄んだ声で発せられた。

日本語ではないどこかの国の言葉で……


【オーストリアーフランス国境付近にて】

馬車の揺れが止まらない。

金糸の刺繍が施されたクッションの上で、わたしはゆっくりと目を開けた。

【ロールが設定されました。王太子妃 マリー・アントワネット】

(え?)

......なにかこれが聞こえたような気がした。

恐る恐る周囲を見回す。

最初に飛び込んできたのは、見たことのない天井だった。

白と金の装飾。

小さな窓には赤いビロードのカーテン。

外から差し込む午後の光が、埃のような金粉をきらめかせていた。

(は、え……なに、ここ)

本能的に腰にあるはずのポシェットを探る。

だが、そこにあるはずのものは見つけることは出来なかった。

「ヴォー・ビン・イッヒ?(ここはどこ?)」

声に出してみてギョッとなる。

自然と知っているはずのない言葉でつぶやいていたからだ。

しかも、自分の声が違うとすぐに気づいた。

高くて、澄んでいて、でも確かにわたしの声じゃない。

慌てて手を見る。細い白い指。爪には薄いピンクがさしてある。

袖口からは、信じられないくらい分量のレースが波打っていた。

コスプレ?……じゃないよね、これ。

馬車がまた揺れる。ガタン、という重い振動とともに、外がにわかに騒がしくなった。窓のカーテンを細く開けると……

「うそ、なにこれ……」

思わず声が漏れた。

道路の両側に、人が、人が、人が。

波のように折り重なって、帽子を振り、ハンカチを振り、泣いている人まで見えた。

その向こうには騎馬の兵士たちがずらりと並び、きらびやかな軍服が夕日を弾いている。

そしてわたしの馬車の前後には、どこまでも続く行列……馬車、馬車、馬車。幌のついた大きなもの、小ぶりな護衛の馬車、荷物を積んだ荷馬車。


窓のカーテンを細く開けると、景色が、徐々に変わりつつあるのがわかった。

深い森が後退して、視界がふいに、広く、明るく、開けていた。

なだらかな丘の稜線。麦畑の名残。

遠くの空が、オレンジと薄紫に溶けながら、地平線まで続いている。

……さっきまでと、空気が変わる。

「マダム・ラ・ドフィーヌ」

向かいの女性が、おだやかな声で言った。

「アルザスでございます。オーストリアの森を抜け、今や殿下はフランスの大地の上におわします」

彼女は窓の外へ視線を向け、目を細めた。

「パリまでは……もうしばしのご辛抱でございます」

「セ ラ フランス(ここはフランス)?」

「ウィ、マダム、セ グザクト (はい、その通りでございます。)」

少女は場違いなほど、詩的で美しいフランスの青い空と丘陵をぼんやりと眺めていた。

そのことが示す意味もわからないままに……


【ロシア……ウラルにて】

「残ったのはお前だけか!」

軽々と戦斧を両手に持った大男の咆哮が耳に響いた。

(ここは、どこだ......?)

おれは見知らぬ極寒の大地に傷だらけの状態で立っていた。

周囲はファンタジーRPGでおなじみのゴブリンやオークのような化け物に囲まれている。

そして……人と魔物たちの死体……死体……そして死体。

恐怖で心臓が飛び出しそうになる。

必死に平静を取り戻そうと、深く呼吸を繰り返すと状況が見えてきた。

その絶望的なほどの状況が……

既に味方はこの大男と自分、そして苦しそうに蹲る少女一人であることが自然と情報として脳内に伝達されてくる。

「チェルニ! カク・トヴォヨ・イーミャ?(雑兵!名はなんと言う)」

その大男は傲岸不遜に、俺を上から見下ろすような声で叫んだ。

(ロ、ロシア語なのか?)

だが、それよりも驚いたのは次に発した自分自身の言葉である。

「ニコライ……ノヴィコフ」

【ロールが設定されました。魔道戦士 ニコライ・ ノヴィコフ】

(誰だよ!それ....?それに……なんだ、いまの声は?)

必死に平静を保って考える。

ゴブリンが3体見事な連携で俺に迫ってきた。

体が自然と動き、1匹目に手に握りしめた砂で目潰し、2匹目を槍で串刺し、3匹目の足を払い転んだところを踵で踏み潰す。

自分自身の体の躍動感に驚かされる。

それよりも、自分が学んできた天真正自伝神道流のなんでもありの剣道の技が初めて実践で生きたことに淡い感動を覚えていた。

「やるな!雑兵、ここは俺が防ぐ。お前はこの御方を連れて逃げろ!」

「将軍!私は逃げません!」

傷ついた少女が絶叫を上げた。

剣を杖にしてよろよろと立ち上がろうとしていた。

「黙れ! エカチェリーナ女帝陛下の血を引くお前を死なせるわけにはいかん! 帝国の未来はお前が繋ぐのだ!」

(エカチェリーナ? あの女帝の……?1世……それとも2世か?)

俺の世界史の知識は半端なものではない。

リアルな歴史シミュレーションで鍛え上げた知識であった。

東欧に君臨するロシアの女帝

「私は——」

「これを持っていけ!」

投げよこされた短剣をその少女に変わって俺が受ける。

その時、エルダー・リッチから氷の刃のようなものが発せられ、大男の胸を貫いた。

(あれはやばい!)

男のなかで医師としての知識が蘇る。

大量の血が吹き出したが、大男は倒れない。

「行け!」

そう叫ぶと同時に大男が片方の戦斧をエルダー・リッチに投げた。

それは見事にリッチの首を跳ね飛ばしていた。

だが、その後ろからは既に次のエルダー・リッチが湧いて出てきていた。

その時……

【緊急事態を認知しました。緊急モードに切り替えますか?】

(な、なんだ、そりゃ?)

【5分間に限り、通常の数倍の肉体能力を出せる能力です。通常モードで生存率、0%、緊急モードで30%となります。】

何がなんだかがわからない。

やっと記憶が鮮明になってきた。

おれはさっきまで蕎麦屋で飯を食っていたはずであった。

「なにをしておる早くいけ!」

もはや、躊躇している場合ではなかった。

だが、少女を抱き上げようとすると激しく抵抗をしてきた。

「私は逃げない!」

恐ろしいほどに憎悪に満ちた目で睨まれた。

「殿下御免!」

当て身で意識を刈り取り、その少女を担ぎ上げた。

「将軍!私に何を望む!」

この誇り高く死にゆく男に礼を尽くしたい気持ちが自然と湧き上がる。

「サンクトペテルブルクの……帝国の……復興を……」

(ロシア帝国のことを言っているのか?)

「承知!」

俺は訳も分からぬままに返事を返し、少女を担いだまま走り始めた。

だが、本心では帝国の復興など、本気で出来るなどとは思わなかった。

それどころか、何の帝国なんだと、脳内には特大の疑問符で占められていた。

それにここはどこだ?

仮に大男の言った『エカチェリーナ女帝陛下』がエカチェリーナ2世であるなら、ここは18世紀後半のロシアということとなる。

だが、あり得ない。

襲いかかってくるのはプロイセン王国やオスマン帝国の兵士ではなかった。

それは魔物の軍団であった。

大男がエルダー・リッチの発したファイヤーアローの炎に包まれながらも、まだその敵を押し留めてくれていた。

正面に数体の魔物が出現する。

オークであった。

【一体はオークキングです。戦闘インストラクションを開始します。分子カッターを発動してください】

その意味を解し兼ねた。

(意味がわからねぇ)

【透明のライトセーバーをイメージしてください】

それをイメージすると目には見えないライトセーバーが手の先から現れたのがわかる。

【右から左に払い、そのまま切り上げ、最後に上段から切り下げてください。タイミングマーカーを表示しますので手順を間違えずにそのタイミングでライトセーバーを振ってください。感覚速度を現在のレベルで可能な2倍に設定しました】

周囲の動きが間延びしたように遅くなる。

斧を構えて突進してくるオーク。

タイミングゲージが緑になった瞬間に左にライトセーバーを振る。

3体のオークが胴体ごとスッパリと切り離される。

驚いた後続を切り上げ、それが真っ二つになるのが見えた。

驚愕に目を見開いたオークキングを頭頂部から切り裂いた。

その全てが一瞬の出来事であった。

【残り3分です】

そのまま残りの3分間を疾走した。

【メタ認知モードを起動します】

突然、3Dディスプレイが開き、周囲5km範囲内が俯瞰できた。

そして、安全地帯が緑で表示されていた。

(一体ここはなんなんだ?)

状況からここがロシアであることは分かる。

分かったが、しかし、なぜ、ゴブリンやオークの軍団がいるのだ。

状況を掴みかねて、困惑が深まるばかりであった。

そして、この少女は……

銀の髪に美しいブルーの瞳、まだ、中学生ぐらいに見えた。

安全地帯の村に走り込んだ途端に力つきてその場で意識を失う。


これが、おれの、いや、おれと女帝たちの摩訶不思議な物語の始まりであった。

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