第001話 三人
【高野顕子35歳】
「中西! やったわね……!」
画面に踊る『TEST PASSED』の文字列を見つめ、アキコは感極まって若手チーフエンジニアに抱きついていた。
ロボティクス産業の未来を左右する「画像認識・自動制御の超軽量アルゴリズム」へデータを高速伝送する、革新的な補助モデル。
3年間の極貧開発を経て、ついにそれが産声をあげた瞬間だった。
「社長。私はただ、あなたの先見の明に従ったまでです」
照れくさそうに笑う中西。
恐らく、その言葉自体に嘘はなかったのだろう。
自分たちの手で作った技術が、世界を驚かせ、塗り替えていく。アキコはただ、その面白さに胸を躍らせていた。
だが……
その技術の完成と引き換えに、すでにアキコの居場所は会社の中に存在しなかった。
中西は大手のITベンチャー企業が提示した「主任研究員」のポストと巨額の報酬に目が眩み、アキコが気づかない裏の手続きで、会社と特許の権利を密かに売却していたのだ。
(……やられた)
買収の手続きが完了した会議室で、契約書を手に冷ややかに微笑む中西を見た時、アキコは呆れを通り越してどこかすがすがしい気分すら覚えていた。
社員たちに惜しまれながら、会社を去るアキコ。
失意に暮れるかと思いきや、彼女の心は不思議と満足感で満ちていた。裏切られた怒りよりも、「あの技術は間違いなく世界を変える」という興奮の方が勝っていたのだ。
(まあいいわ。世界って、本当に面白くて勝手なところね)
実家に帰り、部屋でゴロゴロと怠惰な日々を過ごしていたある日、母親がふと思い出したように言った。
「そういえば駅前の蕎麦屋さん、ご高齢で店を畳むらしいのよ。あんた昔、蕎麦屋になりたいって言ってたじゃない」
「……え? 私が?」
記憶の糸を手繰り寄せる。そうだ、あれは小学校の時だ。
当時、栄養学にハマっていたアキコは「安い値段で、世界中で最も健康的な食事を格安で提供するビジネス」のノートをノートの端に書いていたのだ。
押し入れの奥から引っ張り出した黄ばんだノートを開く。
(なるほど……これ、今見ても完璧なオペレーションじゃない)
本格的な手打ち蕎麦なんて、自分には無理だ。
ならば最初から仕入れればいい。
麺は質の高い十割そばを卸業者から買い、麺つゆも既製品の最高峰を厳選する。
メニューは徹底的に削ぎ落とした。
長芋をすりおろし、オクラと納豆、ネギを混ぜ合わせた「ネバネバざる蕎麦」一本勝負。
好みでワサビを添え、タンパク質の追加トッピングは缶詰のサバとイワシだけ。
あとは玄米おにぎり。
全て保存と仕入れが容易な原材料だ。
仕込みは野菜を切って長芋をすりおろすだけ。
調理器具も最小限で、火を使うのは麺を茹でる時だけだ。
元店主が格安の家賃で居抜きで貸してくれた店舗で開店すると、その「超・合理的で健康的なファストフード」は、口コミであっという間に評判を呼んだ。
健康志向の高齢者やサラリーマンで、狭い店内は連日満員になった。
営業は夜の9時半まで。
のれんを降ろし、鍵を閉めるこの時間になると、決まって現れる常連が二人いた。
「アキコさん、今日も疲れた〜。私はザル大盛りで」
エツコはずかずかと店に入ってきて、カウンターに座る。
「……えっと、おれもザルに。いつもの玄米おにぎりを貰えますか?」
スーツ姿のサワダも続いて入ってくる。
この二人が閉店後に入ってくるには理由があった。
【北山悦子 14歳】
部屋に漂うのは、冷え切った静寂だけだ。
幼い頃から慣れ親しんだ孤独感。
(だから何?)
昨日も、今日も、そしてこれからも同じだ。
悦子のIQは200を超える。天才、と人は呼ぶ。
学校の授業はあくびが出るほど退屈だったが、日本の法律上「義務教育」というシステムになっているのだから仕方がない。
ただの事務処理として消化していた。
暇つぶしに、思いつきでいくつか特許も取得してみた。
だが、そこに情熱や執着が生まれることはなかった。
最初に興味を持ったのは土壌細菌学。
次に、抽象数学、天文学、そして最近ではAIモデルのファインチューニングにも手を広げてみた。
どれも個人の部屋でできる小規模な実験に過ぎなかったが、彼女の恐るべき推論能力と、自作AIによる補助演算が弾き出した理論は、学会や産業界を揺るがす代物だった。
その特許が高額で売れた。
すでに国内外のいくつもの企業や国立研究所から、絶え間なくラブコールが届いている。
さらなる暇つぶしとして金融工学に手を伸ばし、親の口座を勝手に使って暗号資産のマーケットでアルゴリズム取引の実験を行ってみた。
結果、元手の10万円は数日で5億円に化けた。
さすがに、中学生が親の口座で5億円の雑所得を出したのはまずかった。
税金の確定申告が必要になり、正直に両親へ事態を説明した。
するとどうだろう。両親は突然手に入った大金に狂い、それぞれ別々に愛人を作ると、あっさりと家を出て行ってしまったのだ。
エツコは、誰もいない広い家に一人残された。
友達はいない。
親もいなくなった。
世界はどこまでも孤独で、そしてくだらなかった。
……けれど。
そんなエツコにある日、二人の親友ができた。
夜の9時半。
スマホの時計がその時刻を刻むと、悦子は薄いカーディガンを羽織り、小さな鍵を手に家を出る。
駅から少し離れた、静かな路地裏。
のれんが仕舞われたばかりの、小さな蕎麦屋の引き戸をあける。
そこはエツコにとってただの蕎麦屋じゃない。
夜9時半。
唯一無二の親友たちと集う場所であった。
【沢田充 28歳】
生真面目な男であった。
本来勉強好きだったサワダは、国立大学の医学部を卒業後、医師の道ではなく厚生労働省の技術官僚(医系技官)を選んだ。
「行政の立場から、人々の保健衛生と健康寿命の改善に挑みたい」という高い志と夢を胸に、霞が関の門をくぐったのだ。
しかし、現実は甘くなかった。
省庁とは、夢を叶える場所ではなく、巨大な手続きを粛々とこなす機関に過ぎなかった。
毎日の業務はどこまでも単調で、それでいて無駄に忙しい。
特に国会答弁のシーズンともなれば、質問に対する答弁資料の作成と事前レクで連日深夜まで忙殺された。
理想と現実のギャップ。
満たされない思いと、諦めばかりが積もっていく毎日。
そんな彼の息抜きであり、隠された熱量の逃げ場となったのが「趣味」だった。
一つは、剣道と合気道。そして呼吸法と瞑想。
一見古風なこの趣味は、彼の奥底に眠る「隠された願望」と直結していた。
瞑想を深めることで、人間の中に眠る未知の潜在能力を引き出せるのではないか……生真面目な面の下に隠された、密かな「超人願望」だった。
そしてもう一つ、彼が狂おしいほど熱中したのが「歴史シミュレーションゲーム」だった。
想像力の高いサワダにとって、高度に進化したAIが提供する複雑な盤面の世界は、恐ろしく魅力的だった。
特にのめり込んだ舞台は、政治、経済、軍事が複雑に入り組む18世紀のヨーロッパ。
AIのデータベースは恐るべき精度を誇り、18世紀の神聖ローマ帝国の小さな領主領や、歴史の隙間に埋もれた微小なイベントまで完璧に網羅していた。
毎夜、画面に向かって歴史の可能性をハックするサワダ。
こんなマニアックで高度な盤面を共有できる人間など、この世界に二人といるはずがない……そう思っていた。
だが、いたのだ。
ある夜、オンライン対戦でマッチングした二人のプレイヤー。
彼らの立ち回りは異次元だった。
一人は恐るべき手腕でヨーロッパの金融と市場を支配し、もう一人は見たこともない速度で軍政改革と物流の最適化を進め、苛烈な外交戦を仕掛けてくる。
「……くっ、なんだこの盤面の組み立て方は……!?」
息をのむような高度な化かし合い。
歴史のIFを突き詰めた攻防は、なんと5時間に及んだ。
極限の思考の末、ギリギリの差で勝利を収めたのはサワダだった。
勝負が決した時は既に深夜の3時を回っていた。
奇妙な充実感に、サワダは胸に溜まった息を大きく吐き出した。
冷えたビールを冷蔵庫から取り出し、一気に喉へ流し込む。
その時、画面のチャット欄に通知が跳ねた。
相手のプレイヤーの一人からのメッセージ。
『納得いかない。直接会って反省会をしたい』
……これは運命なのか。
二人のプレーヤーはサワダと同じ市内に住んでいた。
提示されたのは、駅から少し離れた路地裏にある小さな蕎麦屋の住所と、「夜9時半」という時刻だった。
やり込み系のこのシミュレーションをやっている奴らだ。
かなりマニアックなオタクに違いない。
だが、その予測は大きく外れる。
少々の躊躇と警戒を抱きつつ、指定された店を訪れたサワダ。
暖簾が仕舞われた引き戸を開け、そこに待っていた「二人のプレイヤー」の姿を見た瞬間、彼の目は点になる。
そこにいたのは……
手際よく丼を洗う美しい蕎麦屋の女将と、カウンターで薄いノートPCを開いたまま不機嫌そうにジュースを飲む、中学生の少女だった。
「……え?」
「遅いわね。あなたが『サワダ』ね? 最後のプロイセン軍の動かし方、あれ完全にルールギリギリのハックでしょ」
呆然と立ち尽くす28歳のキャリア官僚。
こうして、IT企業を追われた元社長、IQ200の天才少女、そして志を失いかけていた医系技官の三人による、夜9時半の「会合」が始まった。
あれ以来、三人はまるで家族のようだった。
毎日、アキコが暖簾を下ろす9時半のタイミングに合わせて、サワダとエツコがやってくる。
さすがにサワダも、厚労省の国会答弁や予算編成などの繁忙期には顔を出せない日もあったが、この狭い蕎麦屋に集まり、出汁の匂いの中でくだらない雑談やゲームの反省会をすることが、三人にとってかけがえのない日課であり、生き甲斐となっていた。
そして、昨晩のことである。
アキコが厨房の奧へ席を外した、わずかな隙。
「サワダっち、覚悟は出来た?」
カウンターの端でジュースを飲んでいたエツコが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて覗き込んできた。
サワダは手にしたビールのグラスを握り締め、意を決したようにゴクリと喉を鳴らした。
「ああ……! 俺も男だ!」
「よ! サワダ、あんた男だねぇ。じゃあ、告白タイム!」
肘でつつきながらからかってくる14歳の天才少女を、サワダは赤くなった顔で恨めしそうに睨みつける。
生真面目な28歳キャリア官僚は……あろうことか、7歳年上の美しい蕎麦屋の女将・アキコに本気で恋をしてしまったのだ。
「こ、これを見ろ……! 俺の給料の3ヶ月分の指輪だ!」
サワダがポケットから震える手で取り出したのは、小さなベルベットの箱。
「あたしに見せてどうすんだよ。まあ、がんばんな。応援してやるからさ」
「え、えっちゃん……た、頼んだからな……っ!」
その時、奥からパタパタと足音がして、アキコが戻ってきた。
「はい、お待たせ。玄米おにぎり握り直したわよ……あら、どうしたの二人とも? なんか変な顔して」
緊張でカチコチに凍りつき、滝のような汗を流すサワダ。
そして隣で「ほら、言え!」と言わんばかりにニヤニヤと目配せを送るエツコ。
不自然すぎる二人の様子に、アキコは首を傾げた。
サワダは喉の奥を鳴らし、椅子の背もたれを力いっぱい掴むと、真っ直ぐにアキコの目を見つめた。
「あ、あの……! アキコさん……! お、おれと——」
指輪の箱に手をかけ、男一生の覚悟を叫ぼうとした……まさにその瞬間。
視界から、すべての光が消え去った。
世界が......変転した。




