第9話 呪いの継承者
夜明け前のジムを出るとき、ハナには置き手紙一枚しか残さなかった。「虎島さんを捜しに行く。すぐ戻る」——それだけだ。顔を合わせたら絶対についてくると言い張るに決まってるし、折れた肋骨で遠出する馬鹿犬を、あいつが黙って見送るはずがない。案の定、バスに乗った途端に電話が鳴った。出なかった。留守電には「帰ってきたら覚えとけよ、馬鹿犬!!」とだけ吹き込まれていた。……悪い、ハナ。これは、俺一人で確かめなきゃいけないことなんだ。
バスを二本乗り継いで、終点からさらに三十分歩いた。海沿いの工業地帯は錆の匂いがして、テーピングが汗で重くなる。鴉羽宗士に砕かれた骨は、まだ深呼吸のたびに軋んだ。あの十回のTKOから、まだひと月も経ってない。医者は走るなと言った。それでも足は止まらなかった。止まれるわけがない!
瞼の裏には、まだあの映像が焼き付いている。志摩会長が七年間封印していた、虎島豪牙の全試合。若き東洋の牙が、相手を追い詰め、追い詰めた先で必ず何かを叫び、必ず拳を緩め、そして目覚めた相手に沈められていく二十九戦。画面の中の虎島は、俺だった。倒れ方も、立ち上がり方も、負けた後に天井を睨む眼までも、気味が悪いほど俺だった。
ポケットの中には、志摩会長が黙って寄越したメモが一枚。住所だけが、あの人の几帳面な字で書いてある。虎島豪牙の全試合映像を七年間も封印していた老会長は、俺が「捜します」と言った夜、何も訊かずにこれを差し出した。拳は嘘をつかん——口癖のかわりに、紙が全部を語っていた。あんたは知ってたんだ。あの人がどこで独りで燻ってるのか、ずっと。
目当ての廃工場は、フェンスの破れ目から入るしかなかった。潰れて何年になるのか、看板の社名は読めないほど剥げている。それなのに、敷地の奥から音がした。
——ダン。ダン。ダン。
サンドバッグを打つ音だ。地の底から響いてくる。
俺は錆びた鉄扉を引き開け、暗い階段を降りた。降りるほどに音は大きく、速く、重くなる。心臓が勝手に走り出す。この音を、俺の体は忘れていない。
七年前。河川敷で年上五人を相手に殴り合ってた十四のガキの前に、通りすがりの男が立った。どけよと吠えた俺の視界が、次の瞬間、空になった。痛みより先に来たのは、綺麗だ、という馬鹿みたいな感想だった。倒れた俺を見下ろして、男は一言だけ言った。「殴りたいなら、殴っていい場所がある」——それだけで、俺の人生は曲がった。あの一発の音だ。この地下から響いてるのは、まぎれもなく、あの拳の音だ!
地下は、思ったより広かった。裸電球が二つ。継ぎ接ぎだらけのサンドバッグが一本。床にチョークで描かれた、歪んだリングの線。そして、その真ん中に男がいた。
四十二歳。白髪の交じった短髪。上半身は裸で、背中の筋肉は七年前より痩せて——それでも、拳が唸りを上げてバッグに沈む瞬間だけ、時間が巻き戻った。錆と埃の地下で、そこだけが✨眩しかった。東洋の牙。俺をボクシングに引きずり込んだ、最初の一撃。
「……遅かったな、ガキ」
振り向きもせずに、虎島豪牙は言った。
「いつか来ると思ってた。鏡を見ちまった顔だ、それは」
「——知ってたのか」
声が掠れた。知ってたのか、じゃない。訊きたいことは山ほどあって、順番なんか待ってられなかった。
「あんた、俺と同じだったんだろ!? 志摩会長の映像、全部観た! 二十九戦して、勝てる試合を全部——全部、相手を化け物にして落としてた! 初代覚醒屋! 何なんだよそれは!? 何で教えてくれなかった! 何で俺をボクシングに引き込んだ! この体質が何なのか、あんたなら分かってんだろ!!」
肋骨が悲鳴を上げるのも構わず吠えた。四年で十八戦、四勝十四敗。倒せる相手を全員育てて、全員に沈められて、それでも立ち続けた俺の四年間が、喉の奥で燃えていた。
虎島はゆっくりとバッグを止め、初めてこっちを向いた。眼だけが老いてなかった。
「呪いだと思ってるのか、それを」
「呪いじゃなきゃ何だよ!? 勝てる場面で口が勝手に吠えるんだ! 相手の弱点と、その裏に埋まってる伸びしろを! 挙げ句、決めの拳が寸前で緩む! 意識じゃどうにもならない! 雀野も、鴉羽さんも、みんな俺が起こした! みんな俺を踏んで上がってった! 俺だけが——俺の負けだけが、毎回みんなの希望になるんだよ!!」
言い切った瞬間、みっともなく息が切れた。折れた骨の奥で、心臓が暴れている。
虎島は笑わなかった。茶化しもしなかった。ただ、断ち切るように言った。
「呪いじゃない。お前は相手の一番強くなれる場所が見えるんだ」
「……は?」
「眼だ、ガキ。俺たちの眼は、相手の急所と一緒に、そいつが一番強くなれる場所まで見えちまう。凡人には急所しか見えん。だから凡人は急所を撃って勝つ。だが俺たちは、そこを撃てばそいつが目覚めると分かっちまう。分かった上で——撃つんだ。口が吠えるのは、見えたものに嘘がつけないからだ。拳が緩むのは、楽に勝つ自分をお前が許してないからだ。それは弱さじゃない。それがお前のボクシングだ」
息が、止まった。
七年間、誰にも説明できなかったものに、初めて名前がついた。ハナにすら言えなかった。「また育てる気か」と怒鳴られるたび、違う、育てたいわけじゃない、勝ちたいんだと歯を食いしばってきた。あれは——見えていたのか。俺はずっと、見えたものを撃ち抜いてきただけなのか。
「じゃあ……じゃあ何で、あんたは負け続けた」
声が震えた。訊くのが怖かった。それでも訊いた。
「見えるのが才能なら、何で勝てない!? あんたは二十九戦やって、最後まで勝てなかったじゃないか! 俺もこのまま、一生かませ犬で終わるのか!?」
「俺はな、ガキ。途中で怖くなって、見える場所を避けたんだ」
虎島の声が、初めて低く沈んだ。
「相手を起こすのが怖くて、見えてる場所を撃たずに、外側だけ殴って勝とうとした。……結果は無様だったぞ。避けた拳は、ただの手加減だ。相手には失礼で、自分には嘘だ。拳が死んで、眼まで濁って、俺は勝ちからも負けからも見放された。いいか、よく聞け」
一歩、踏み込んでくる。四十二の男の踏み込みで、地下の空気が丸ごと揺れた!
「見える場所を撃てば、相手は目覚める。それでも撃って、目覚めた相手ごと超えていくのが俺たちの本道だ。撃たずに勝とうなんてのは——逃げだ!!」
逃げ。その一文字が、鳩尾に入った。鴉羽さんの漆黒の左より深く入った。
俺は勝ちたかった。ずっと勝ちたかった。だから体質を憎んで、口を塞ごうとして、緩む拳を呪ってきた。でもそれは全部、この眼から逃げる算段だったのか? 見えちまうものを見なかったことにして、それで勝って、俺は嬉しいのか?
雀野の顔が浮かんだ。恐怖に目を見開いたまま、それでも別人の足で踏み込んできた十九のガキ。判定負けの後、涙で顔をぐしゃぐしゃにして「あなたが俺をボクサーにした」と頭を下げてきた。あのとき俺は、称賛の拍手の真ん中で、バンデージの下の拳を潰れるほど握ってた。悔しかった。死ぬほど悔しかった。でも——あいつの燕返しが完成する瞬間、俺の眼は確かに震えてたんだ。綺麗だ、って。七年前の俺が虎島の拳に見たものと、同じものを見てたんだ。
鴉羽さんもそうだ。目を閉じてパンチに怯えてた壊れかけの王者が、俺の叫び一つで不死鴉に戻った。漆黒の左で肋骨を折られながら、俺は薄れる意識のどこかで思ってた。戻ってきた、この人の左が戻ってきた、って。折られてるのは俺なのに!
……ふざけるな。ふざけるなよ、俺。それじゃまるで、負けるたびに喜んでるみたいじゃないか。違う。違うんだ。俺は勝ちたい。勝ちたいままで、あの綺麗なものから目を逸らしたくない。二つは両立しないのか? 本当にしないのか!?
分からない。分からないなら、確かめる方法は一つしかない。
虎島が、壁の釘から古びたグローブを二組外した。片方を俺の胸に、どんと押し付ける。
「講釈はここまでだ。お前の眼が本物か、お前の拳が逃げてるか、口で言っても伝わらん。——構えろ、ガキ。本気で来い」
「……あんた相手に本気を出したら」
喉が勝手に動いた。あんたが目覚める。四十二歳の、燃え尽きたはずの東洋の牙が。
虎島は、それを聞いて初めて笑った。牙を剥くみたいに、豪快に!
「望むところだ! 七年前に俺が起こしたガキが、どれだけの化け物に育ったか——この眼で見えなくなるまで確かめてやる!!」
テーピングの下で肋骨が軋む。構わない。俺はグローブに拳をねじ込み、紐を歯で締めた。心臓が、ゴングの代わりに鳴っている!
裸電球の下、チョークの歪んだリングを挟んで——七年ぶりに、師弟のグローブが低く鳴った。




