第10話 倒すために、育てろ
ゴングは無かった。代わりに、虎島豪牙が錆びた鉄柱を拳の裏で叩いた。
ゴン、と鈍い音が廃工場の地下に響く。裸電球が一つ、リング代わりに張られた古いロープを照らしている。マットは日に焼けて、埃と油の匂いがした。七年前に俺をボクシングへ引きずり込んだ男が、今、目の前でグローブを構えている。
「来い、覚醒屋」
四十二歳。腹は多少丸くなった。それでも構えた瞬間、地下の空気の密度が変わった。
七年前と同じだ。あの日、路地裏で俺を見下ろしていた男は、今より少し若くて、もっと荒れていた。それでも拳だけは綺麗だった。俺はその拳の一発に沈められて、その美しさに魅せられて、この世界に来た。そして今、その拳が真っ直ぐ俺に向けられている。喉が鳴った。怖い。なのに、口の端が勝手に上がっていた。
俺は決めていた。今日だけは、口を閉じる。見えても、言わない。撃たない。
虎島の"一番強くなれる場所"は、構えた瞬間からもう見えていた。左足の踏み替えが一拍遅い。年齢で錆びた回転軸。そこを突けば、この人は思い出す。現役時代の、あの牙を。
だから俺は、そこを見なかったことにした。
安全な場所だけを撃つ。育てず、ただ勝つ。それができれば、俺は呪いを克服したことになる。氷海だろうが誰だろうが、覚醒させずに倒せるはずだ。
最初のジャブを放った瞬間、違和感が腕を走った。
軽い。当たる場所を選んだだけの、意味のない拳。虎島は首を傾けただけで躱し、ニヤリと笑った。
「おい。今の、拳か? 挨拶か?」
「……うるせえ」
踏み込む。ワンツー。狙うのは肩口、ガードの上、どうでもいい場所ばかり。見えている急所を、視界の隅に追いやりながら打つ。まるで、目を半分閉じて歩くみたいだった。
右のフックが飛んできた。見えていたはずなのに、反応が半歩遅れた。テンプルの横を風が抉る。
「遅えぞ!」
左ボディが刺さった。肺から空気が押し出される。マットに膝が落ちかけて、踏み止まる。
おかしい。俺の読みは、こんなに鈍くない。
二度、三度、打ち合って分かった。俺の目は、相手の"最強になれる場所"を中心に世界を見ている。そこから逃げ道も、隙も、次の一手も読んでいる。その中心を自分で塗り潰した瞬間、全部が歪むんだ。
地図の真ん中を破いて、道を探しているようなものだった。
「どうした!」虎島の声が飛ぶ。「お前の踏み込みはそんなもんか! 十四のガキの喧嘩の方がまだ速かったぞ!」
「黙って、ろ……!」
打つ。緩い。躱される。返しの右が頬を擦る。口の中に血の味が広がった。
観客はいない。歓声も、実況もない。あるのは錆と埃と、二人分の呼吸の音だけだ。だからこそ、誤魔化しが利かなかった。常磐ホールの照明の下なら熱気に紛れてくれる嘘が、この裸電球の下では全部剥き出しになる。
ロープ際に詰められた。左、右、左。腕で受けるたび、骨の芯まで響く。これでもまだ、全盛期の半分も出していないんだろう。それが余計に、背筋を冷たくした。クリンチで凌いで、突き放される。息が上がる。汗が目に染みた。
見える。ずっと見えている。左足の踏み替え、その一拍。そこに合わせてボディを返せば、この人の軸は崩れる。崩れて、そして——目覚める。
言いたい。喉の奥で言葉が暴れている。あんたの左足、まだ生きてるじゃねえか。そこを直せば、あんたはまだ——
歯を食いしばって、飲み込んだ。
その一瞬の詰まりを、虎島は見逃さなかった。
「そこだ」
右ストレートが、真っ直ぐ来た。
躱せない。ガードの隙間を正確に割って、額に落ちた。天井の裸電球が弾けたみたいに視界が白くなって、気づいたら埃っぽいマットに背中をつけていた。
「立てるか」
立つ。決まってるだろ。俺は倒れても立つのだけが取り柄なんだ!
ロープを掴んで起き上がる。膝が笑っている。それでも構えた。
何度でも立つ。雀野に判定で散った夜も、鴉羽さんに肋骨を折られた夜も、俺は自分の足で立って帰った。倒れたまま終わったことだけは、一度もない。それだけが、四勝十四敗の俺に残った背骨だった。
「なあ、迅」虎島は構えを解かないまま言った。「お前、今、目隠しして俺と殴り合ってるって自覚あるか」
「……何が、言いてえんだよ」
「見えてるもんを見ないってのはな、目を瞑るってことだ。読みも、距離も、勘も、全部その目から生まれてんのに、根っこだけ引っこ抜いて戦えると思ったのか」
図星だった。図星すぎて、笑いそうになった。
「じゃあどうすりゃいいんだよ!?」気づけば吠えていた。「見えた場所を撃てば、相手は化けるんだぞ! 牧瀬も、雀野も、鴉羽さんも、みんな俺が化け物にした! 挙句、俺だけ負ける! この目は呪いだろうが!」
「呪いなら、俺は七年前にお前を殴ってねえよ」
虎島は、ゆっくりとグローブを打ち合わせた。
「言ったろう。お前は相手の一番強くなれる場所が見えるんだ。俺もそうだった。見えて、撃って、育てて、負け続けた。だがな、迅。俺は一度も、見えない振りだけはしなかった」
「……なんでだよ」
「そりゃお前、見えてる急所を避けて勝つなんてのはな——相手にも、ボクシングにも、自分の拳にも、嘘をつくことだからだ」
来い、と虎島が顎をしゃくった。
もう、考えるのをやめた。見える。なら見る。撃つべき場所が光って見えるなら、そこを撃つ。
「あんたの左足!」口が、堰を切ったように吠えた。「踏み替えの一拍、まだ生きてる! そこ直したら、あんたまだ戦えるじゃねえか!」
言い切った瞬間、虎島の目の奥で、何かが灯った✨
四十二歳の足が、跳ねた。左足の踏み替えの一拍が——消えた。錆びていた回転軸が、俺の言葉をなぞるように蘇っていく。速い。重い。七年前、十四歳の俺を一発で沈めた、東洋の牙そのものだった。
だけど、不思議だった。
目を開けた途端、俺の体も動いた。読める。蘇っていく虎島の連打の、その半歩先が読める。躱して、潜って、初めてまともな右を返した。虎島の頬が、確かに揺れた。
「それだ!」虎島が笑う。「それがお前の拳だ!」
行ける。もう一発。左だ。今の打ち終わり、脇腹が空いた。そこに叩き込めば倒せる——
その瞬間、拳が、緩んだ。
自分でも分かった。倒せる一発の、最後の五センチで、手首から力が抜ける。楽に勝っていいのかと、誰かが俺の中で問う。いつもの、あの癖だ。
緩んだ左は虎島の脇腹を撫でただけで、返しの右が、俺の顎を打ち抜いた。
マットが、近い。
埃の匂いのなかで、天井の裸電球がゆっくり回っていた。立とうとした。腕が、上がらなかった。スパーは、そこで終わった。
「分かったか」虎島がマットに胡座をかいて、俺の隣に座った。「見ないで戦えば、お前は弱い。見て撃てば、相手は化ける。そして決めの一発は、まだ緩む。それが今のお前だ」
「……最悪じゃねえか、それ」
「ああ、最悪だ」虎島は笑った。「だからな、迅。避けるな。捨てるな。相手を強くする拳を捨てるな。育てちまうなら、育て切れ。そのうえで——その強さごと殴り倒せ!!」
殴り倒せ。育てた相手を、覚醒の先で、もう一度超えて。
それは克服じゃなかった。理解ですら、まだなかった。ただ、進むべき方角だけが、初めて胸の真ん中に刺さった。
「……次、いつ来ればいい」
「もう来るな」虎島は立ち上がって、俺のグローブの紐を解きにかかった。「教えることは全部教えた。あとはリングで思い出せ。行け、覚醒屋。お前の負け犬人生、まだ途中だろう」
地下を出ると、もう夕方だった。錆の匂いが、まだ拳に残っていた。
志摩ジムに戻ると、ハナが入口で仁王立ちしていた。
「顔面ボッコボコじゃん!! 何やってきたの馬鹿犬!!」
「……修行」
「修行で顎腫らす奴がいるか!!」
叫びながら、ハナの手はもう氷嚢を押し付けてきている。その手が、今日は震えていなかった。少しだけ、ほっとした。
その奥で、志摩会長が一通の封筒を持って立っていた。無言で差し出される。分厚い、公式の紙の感触。
「……なんすか、これ」
「指名だ」会長は短く言った。「読め」
封を切る。世界ライト級タイトルマッチ。挑戦者として指名する——犬飼迅。
「……なんで、俺なんすか」
「知らん」会長は言って、それから少しだけ目を細めた。「だが、拳は嘘をつかん。向こうの拳が、お前を呼んだんだろう」
ハナが横から通知を覗き込んで、息を呑むのが分かった。氷嚢が、床で鈍い音を立てた。
署名の欄に、見たこともないほど整った字で、その名はあった。氷海征。二十七戦二十七勝、ダウン経験なしの絶対王者が、四勝十四敗の咬ませ犬を、名指しで呼んでいた。




