↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/16

第11話 無敗王者は眠らない

廃工場から持ち帰った封筒は、志摩ジムの机の上で三日経ってもまだ開いたままだった。

 世界ライト級タイトルマッチ。指名挑戦者、犬飼迅。何度読み返しても文字は変わらない。二十七戦二十七勝、ダウン経験なし。プロの拳を浴び続けて、ただの一度も膝をマットにつけたことがない男。世界王者・氷海征が、勝ち星より負け星のほうがずっと重いかませ犬を、自分から名指ししてきたのだ。

 「意味が分かんねえ」

 サンドバッグに拳を沈めながら、俺は何度目かの同じ言葉を吐いた。防衛戦の相手なんて選び放題のはずだ。ランキング上位には牙を研いだ挑戦者がいくらでもいる。なのに王者はよりによって、覚醒屋を選んだ。

 「分かんないのはこっちだよ!!」

 ハナがミットを床に叩きつけた。

 「二十七戦二十七勝、被弾率は歴代最少、ガードの隙間は針の穴。解説者が全員口を揃えてるんだ。氷海征に覚醒の余地なんてない、あれはもう完成品だって!! あんたが育てる場所が、どこにもないんだよ!!」

 育てる場所がない。その言葉は、俺にとっては朗報のはずだった。相手の一番強くなれる場所が見えてしまう目も、そこを撃たせまいと寸前で緩む拳も、完成品の前では意味を失う。口が吠える弱点がないなら、俺はただ殴り合えばいい。

 なのに、胸の奥がずっとざわついていた。虎島豪牙の声が耳の奥で鳴り続けている。相手を強くする拳を捨てるな。その強さごと殴り倒せ!!——あの人がそう言い残した直後に、この指名状は届いた。まるで運命ってやつが、俺の返事を待たずに次のゴングを鳴らしたみたいに。

 志摩会長は氷海の試合映像を三本、無言で机に置いた。

 夜のジムで、俺とハナはそれを繰り返し観た。観れば観るほど、寒くなった。氷海のボクシングには熱がない。相手の攻撃が届く軌道を先に消し、届かない距離から最短の拳だけを通す。挑戦者たちは十二ラウンドかけて、氷だけでできた壁を素手で叩き続けているように見えた。そして試合のどこかで必ず一度、右ストレートが白く走る✨。零式。それが刺さった相手は、全員同じ倒れ方をしていた。前のめりに、崩れるように。

 「……なあ、ハナ」

 「言うな」

 「こいつ、綺麗すぎねえか」

 「言うなって言ってんの!!」

 ハナは映像を止めなかった。止めなかったが、タオルを畳む手が震えているのを、俺は見てしまった。この人はいつもそうだ。俺のセコンドについてから、俺が散るたびに、俺より先に拳を握って震えてきた。

 だけど俺の目は、もう別のものを探し始めていた。二十七戦分の完璧の中に、たった一つだけ引っかかる癖がある。氷海は打たれない。打たれないのに——相手の拳が頬の横を掠めた瞬間だけ、瞬きが一つ、多い。

 会見は都心のホテルだった。カメラの放列。壇上の長机。俺の席の名札には挑戦者とだけ書かれ、記者の質問は最初から最後まで氷海に集まった。当然だ。誰も俺が勝つなんて思っていない。この試合は王者の余興で、俺は今回も、誰かの物語を輝かせるための咬ませ犬だ。

 「なぜ犬飼を指名したのか」

 その質問に、氷海征は初めてマイクを引き寄せた。

 静かな声だった。氷の板の上を滑ってくるような、温度のない声。

 「覚醒屋。相手の眠った才能を叩き起こす男。雀野燕斗を作り、不死鴉を蘇らせた拳。……面白い伝説だと思ってな」

 会場が薄く笑った。氷海だけが笑っていなかった。

 「だが俺には眠っている才能などない。俺は最初から起きている。二十七回、それを証明してきた。だから確かめたくなった。完成した人間の前で、覚醒屋の伝説がどう死ぬのかを」

 そして王者は、初めて俺を見た。

 「俺を育てられるなら、やってみろ。かませ犬」

 フラッシュが一斉に焚かれた。挑発された。怒るべき場面だ。噛みつき返して、見出しを飾る一言を吠えるべき場面だ。分かっていた。分かっていたのに——俺の中で開いたのは、闘争心じゃなくて、あの目だった。

 二十七戦分の映像が、瞬きひとつの癖が、目の前の男の呼吸と重なる。見えてしまう。氷だけでできた完璧な壁、その一番奥で、小さく丸まって震えているものが。

 やめろ。言うな。今度こそ黙ってろ。舌を噛め。俺は膝の上で拳を握り潰した。バンデージもないのに、爪が掌に食い込んで熱かった。喉の奥で言葉が暴れる。決めの拳が寸前で緩むときと同じだ。体が、俺の負けず嫌いを裏切って、勝手に相手の一番深いところへ手を伸ばす——

 「あんた」

 口が、開いた。

 「あんたは強いんじゃない。負けるのが怖いだけだろ!?」

 会場が、凍った。

 ペンの音が死んだ。誰かの咳すら消えた。氷海征の目から、笑みの形をしていた薄い膜が、音もなく剥がれ落ちるのを俺は見た。

 「二十七勝もダウンなしも、全部同じ震えでできてる!! あんたは打ち勝ってきたんじゃない、打たれることから二十七回逃げ切っただけだ!! その震えごと認めた日のあんたは——今の百倍、強い!!」

 言い切ってから、血の気が引いた。またやった。よりによって世界王者の、誰も触れてはいけない最深部を、全国のカメラの前で撃ち抜いた。

 氷海は何も言わなかった。ただ立ち上がり、マイクを置き、壇を降りる寸前に一度だけ振り返った。その目にはもう、余興を眺める王者の温度はなかった。氷の底で、何かが軋みながら目を開けようとしていた。

 帰りの車で、ハナは助手席のシートを殴った。

 「また育てる気か、馬鹿犬!!」

 「……悪い」

 「悪いじゃない!! よりによって完成品の、最後の伸びしろを!! あんたは世界で一人だけ、氷海征の目覚まし時計を見つけて、思いっきり鳴らしたんだ!!」

 鳴らした自覚はあった。あの瞬きの癖の奥にあるもの。恐怖を消すために完璧を積み上げた男が、恐怖を認めたら何になるのか。考えるだけで背筋が冷えて——そして、どうしようもなく血が滾った。俺はやっぱり、どこまでも治らない。

 ジムに戻ると、志摩会長がリングの下で待っていた。会見を観たのだろう。何も言わず、ただ俺のグローブを顎で指した。

 「……怒らないんですか」

 「拳は嘘をつかん」

 会長は短く言った。

 「口も、な。お前の口は、お前の拳より先に本当のことを言う。なら鍛える順番は決まっとる」

 その夜から、練習の中身が変わった。逃げる練習でも、隠す練習でもない。ハナは震える手でミットを構え直して吠えた。「あんたが起こした怪物が、起きた分だけ強くなって殴りかかってくる!! だったらこっちは、覚醒の一歩先を読む練習だ!! 今度こそ——その体質ごと、勝つんだよ!!」

 三日目の朝、ジムの扉が鳴った。振り向いた先に、見慣れた二つの影が立っていた。雀野燕斗と、鴉羽宗士。

 「会見、観ました」

 雀野は相変わらずの敬語のまま、目だけが別人の鋭さで俺を射抜いてきた。

 「世界中があなたを笑ってます。完成品に喧嘩を売った咬ませ犬だって。……でも俺は、笑えませんでした。あの口の一言で作られたのが、俺だから」

 「……で、何しに来た」

 「スパーリング、やらせてください!」新人は深く頭を下げた。「燕返しは、氷海の迎撃に一番近い動きのはずです。それに——次は、届かせます。あなたの練習相手として、先に」

 鴉羽は何も言わずにリングへ上がり、バンデージを巻き終えてから、古風な重みのある声で言った。

 「王者の景色を知る拳が、ここに一つ余っている。存分に使え。……お前には、返し切れん借りがあるのでな」

 その日から、志摩ジムは戦の匂いに変わった。

 雀野の燕返しを浴びる。届く寸前にだけ踏み込んでくる牙を、読んで、外して、それでも三本に一本は貰った。頬が切れるたびハナが時間を止め、同じ軌道をもう十本。鴉羽の漆黒の左を腹に受けて、息の潰れる位置と潰れない位置を体に刻む。夜は氷海の映像。瞬きの癖。零式の初動。恐怖を認めた王者が何に化けるのか、俺たちの誰も知らない。知らないまま、化けた後の姿だけを想定して、見えない未来へ拳を振り込む。覚醒の一歩先を殴る練習だ。

 一度だけ、スパーで雀野を追い詰めた。ロープに縫いつけ、あと一発で沈む場面。そこで俺の右は——また、寸前で緩んだ。拳の芯から力が抜け落ち、代わりに喉が熱くなって、「今の踏み込み、まだ半歩浅い!」と勝手に吠えていた。雀野の目が光る。次の瞬間、俺は燕返しで床を舐めていた。

 「本番でそれやったら殺すからね!!」

 ハナの怒声を天井越しに聞きながら、俺は仰向けのまま笑ってしまった。治らない。多分、一生。だったら虎島の言う通りだ。この癖ごと、まとめてリングに持っていくしかない。

 ミットに拳を沈めるたび、湾岸アリーナのリングが瞼の裏に浮かんだ。目を覚ましかけた絶対零度が、氷の底からこっちを見ている。

 いいぜ、王者。あんたが起きるなら、起きた分ごと、まとめて倒す!!

 三週間後——湾岸アリーナの照明の下で、世界タイトルマッチのゴングが鳴る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。