第12話 王者の恐怖
湾岸アリーナの光は、白かった。常磐ホールの、汗と埃の染みた黄色い光じゃない。天井から降る何百本ものライトが、リングだけを昼にしている。二万人の息が、天井のあたりでひとつの生き物みたいにうねっていた。
花道を歩きながら、俺は自分の心臓の音を数えていた。速くない。むしろ遅いくらいだ。18戦4勝14敗の男が、世界のベルトに挑む夜だというのに。
「迅。顔、いいぞ」
後ろを歩くハナが言った。振り向かなくても分かる。タオルを握るあいつの手は、もう震えてる。
「拳は嘘をつかん」
志摩会長はそれだけ言った。七年分の言葉を、それだけに詰めて。
ロープをくぐる寸前、リングサイドの二列目に、知った顔が二つ見えた。雀野燕斗。隣に、鴉羽宗士。俺が覚醒させて、俺を負かして、それぞれの道で戦っている男たち。雀野は祈るみたいに両手を組み、鴉羽は腕を組んで、古傷の脇腹を庇うでもなく、まっすぐ俺を見ていた。声は聞こえない。でも二人とも、口の形だけで分かった。――勝て、と言っていた。
笑えるよな。俺に沈められて化けた奴らが、俺の勝ちを祈ってる。だったら今夜は、負けるわけにいかないだろ!
リングに上がる。ロープが、常磐ホールのやつより硬い。向かいの青コーナーに、氷海征が立っていた。二十七戦二十七勝。ダウン経験なし。絶対零度。ガウンを脱いだ体は、彫刻というより、設計図から出てきたみたいだった。無駄がない。隙がない。誰もが言う。あれは完成品だ。覚醒する余地なんてない、と。
だが俺には見えていた。会見の日からずっと。
あの完璧な防御の、いちばん奥。硬く磨き上げたガードの芯のところに、小さく、冷たく、丸まっているもの。
――殴られるのが、怖い。負けるのが、怖い。
それがあいつの、一番強くなれる場所だ。
ゴングが鳴った!
残響が消える前に、俺たちはリングの中央で会っていた。
一ラウンド。氷海は静かだった。ガードを高く、顎を引き、半歩の出入りだけで俺のジャブを全部殺す。触れない。掠りもしない。グローブの先が届く距離まで踏み込んだ瞬間、もうそこに顔がない。二万人がため息をつく。これが世界か、という音のため息だ。
いや、違うね。
俺は踏み込んだ。プロ四年で染みついた、初速だけは化け物と言われた踏み込み。氷海の肩がぴくりと沈む。打ってこない。俺の右を、ブロックの上で受けた。硬い!腕ごと痺れる。だが俺は見た。受けた瞬間、あいつの踵が、ほんの一センチ、逃げた。
防いだんじゃない。避難したんだ。
「……へえ」
口の端が勝手に上がる。まずい。もう始まってる。俺の悪い癖が、ゴングと一緒に目を覚ましてる。
残り一分、俺は出入りを速めた。呼吸を浅く速く、足の裏でマットを撫でるように。氷海のジャブが二度、俺のガードを叩いた。重い。グローブ越しなのに、額の芯まで届く重さだ。これが世界の基準打かよ。まともに貰えば、それだけで景色が飛ぶ。だが軌道は見えた。完璧すぎて、綺麗すぎて、逆に読める。こいつの拳には、外れることへの恐怖が乗ってない代わりに、外させられることへの恐怖が乗ってる。
ゴング。一ラウンド終了。手応えはゼロ。でも、確信は摑んだ。
二ラウンド。俺は打ち方を変えた。当てにいかない。怖がらせにいく。ガードの上からでいい、音のでかい右を、骨に響く場所へ。ドン!とグローブがブロックを叩くたび、氷海の目の奥で、何かが小さく縮む。完璧なディフェンスは崩れない。崩れないのに、後ろに下がる。世界王者が、四勝十四敗の咬ませ犬から、距離を置いていく。
会場がざわめき始めた。おかしいぞ、という波。王者が下がってるぞ、という波。
見えた。
氷海のガードは完璧だ。だが「怖い」が芯にある防御は、痛みの気配に反応する。本当の拳と、拳の気配の区別が、一瞬だけつかなくなる。俺は左を打つと見せた。肩だけで。氷海のブロックが、気配のほうへ半寸吊られる。空いた右頬へ、俺の右がまっすぐ通った――!
✨と、白い光の下で汗が散った。
氷海の頬が、切れた。
一拍遅れて、二万人が爆発した!音じゃない。床から突き上げる地震だ。二十七戦、誰にも刻めなかった王者の顔に、赤い線が一本走っている。俺のグローブの先が、それを刻んだ。
「いけるぞ!!」
ハナの声が地鳴りを突き破って届く。「そのまま!!余計なこと言うな、馬鹿犬!!打て!!」
分かってる!分かってるんだよ!
俺は追った。氷海は下がった。ロープを背負う。二十七戦で一度も背負ったことのない景色を、いま背負ってる。目が合った。あの静かな断言の目に、初めて、剥き出しの動揺が浮いていた。会見の日、俺の口が勝手に撃ち抜いた一言――お前は負けるのが怖いだけだろ、という声が、いまあいつの中で反響してるのが、見なくても分かった。
あと一発だ。恐怖の芯を、ここで叩き割れば――
その瞬間、俺の拳が、緩んだ。
嘘だろ、と自分で思った。世界戦だぞ!?ここで、この夜でまで、お前はそれをやるのか!?拳の中で、骨と腱が勝手に力を抜いていく。決めにいったはずの右が、寸前で、当て損なうことを選ぶ。そして口が、喉が、勝手に開く。
「隠すなよ、王者!!」
叫んでいた。
「怖いんだろ!?殴られるのが!負けるのが!なら隠すな――その恐怖ごと、こっちに向けてみろ!!」
ゴングが鳴った。二ラウンド終了。
コーナーに戻ると、ハナが椅子を叩きつけるように置いた。
「言ったな!?いま絶対言ったな!?あたしは見たぞ、拳が緩んだのも!!」
「……悪い」
「悪い、じゃない!!」ハナの目が濡れて光ってる。「今度こそ勝つんだよ!体質ごと勝つって、あんたが決めたんだろ!?」
「ああ」俺は水を吐き出して頷いた。「決めてる」
志摩会長が、俺のグローブの紐を確かめながら、低く言った。
「迅。緩んだ拳を悔やむな。お前の見えとる場所は、本物じゃ。撃ったこと自体は、間違っとらん」
その声に、廃工場の地下ジムの匂いが重なった。虎島豪牙の声が、耳の奥で蘇る。相手を強くする拳を捨てるな。その強さごと殴り倒せ――七年前に俺を起こした男の、あの言葉ごと、俺はこのリングに持ち込んでる。避けて勝つ道は、十話も前に虎島に叩き潰された。なら行く道はひとつしかないだろ!
「……けどな、ハナ。見ろよ、あれ」
青コーナーで、氷海はセコンドの声を聞いていなかった。切れた頬を、グローブの甲でゆっくり拭って、その赤を、じっと見ている。長いこと見ている。それから――笑った。
静かにじゃない。剥き出しに、だ。
「三ラウンド!」
ゴングと同時に、別人が出てきた。
ガードが、下がっていた。あれだけ完璧に積み上げた城壁を、王者は自分から下げた。半身に開いた構えは、防御を捨てたんじゃない。もっと悪い。避けて、迎え撃つ構えだ。
俺はジャブを出した。見える。氷海はもう「怖いから避ける」んじゃなかった。怖いまま、恐怖ごと目を開けて、俺の拳を紙一重で見切る。頬の横、一枚の距離で俺の左が空を切り、返しの右が俺の肋骨に突き刺さった!
息が、止まる。マットの匂いが鼻の奥で膨らんで、湾岸アリーナの白い光が一瞬歪んだ。下がりながら受けた俺の腕越しにも、骨まで響く。これが零式の入り口かよ。まだ本体ですらないのかよ!
俺は下がらなかった。下がったら喰われる。前に出て、頭を振って、氷海の胸元へ潜り込む。至近距離。汗と、革と、マットの匂い。クリンチ際に短い左を差し込むと、氷海は初めて、腕で俺を巻いて止めた。耳元で、王者の呼吸が聞こえる。会見のときの、あの計算された静かな呼吸じゃない。熱い。獣の呼吸だ。
「……礼を言う、咬ませ犬」
掠れた声が、俺だけに届いた。
「俺はずっと、怖かった。それを認めた瞬間、世界がこんなに、遅く見えるとはな」
レフェリーが割って入る。離れ際、氷海の右が俺の眉の上を掠めた。紙一枚。避けたんじゃない、避けさせられた。背筋が冷えて、それから沸いた。
二万人は、もう咬ませ犬の名前なんか呼んでいなかった。変貌した絶対零度に、アリーナ全体が沸騰していく。
俺は笑った。血の味のする口で、笑ってしまった。
ああ、そうだよ。俺がやったんだ。会見のあの一言から、この夜は始まってた。恐怖を隠して二十七勝した男が、いま恐怖を認めて、俺の目の前で強くなっていく。誰よりも正確に、誰よりも先に、その進化が俺には見える。呪いで、才能で、どうしようもない俺の目に。
いいぜ、氷海。育て。強くなれ。
――その強さごと、殴り倒す!!
三ラウンドの残り二分、目覚め始めた王者の拳が、氷のように静かに、獣のように凶暴に、俺へと降り始めた。




