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第13話 怪物を完成させた夜

四回のゴングが鳴った瞬間まで、俺は自分の「読み」を信じていた。相手の重心、視線の揺れ、肩の筋の張り、踏み込む寸前に一瞬だけ深くなる呼吸。次の一手が見える目。十八戦、負けて、負けて、負け続けても曇らなかった、俺の唯一の武器だ。

 その読みが逆手に取られるまで、三十秒もかからなかった!

 氷海征。二十七戦二十七勝、ダウン経験なしの絶対王者。絶対零度と呼ばれた男の目から、あの薄氷の膜が剥がれ落ちている。会見で俺の口が勝手に撃ち抜いた一言。二回にこの左で切り裂いた頬の傷。あれが王者の中で眠っていた何かを、確実に叩き起こしてしまった。恐怖を隠すのをやめた男は、恐怖ごと前に出てくる。頬の傷はもう塞がりかけているのに、そこから漏れ出した本性だけが、リングいっぱいに膨れ上がっていた。

 俺はジャブを突く。読み通りなら、氷海は右へ半歩流れる。三回まではそうだった。

 流れなかった。紙一重で内へ潜った。俺のジャブの軌道の真下から、右が突き上がる!

 視界が白く弾けた。マットの匂いが鼻の奥に刺さって、初めて自分が倒れたと知った。湾岸アリーナの照明が天井でぐるぐる渦を巻く。二万人の悲鳴が水の底みたいに遠くて、自分の心臓の音だけが、やけに近い。

 「ダウン!! 挑戦者、この試合初のダウン!!」

 実況の絶叫より先に、ハナの声が突き刺さった。

 「寝てる場合か馬鹿犬!! 足!! 足から立て!!」

 遠慮のない直球が、痺れた脳味噌を掴んで揺する。カウント五で膝を立て、七で立った。グローブが鉛みたいに重い。それでも顎を引いて構え直す。氷海は追ってこなかった。ニュートラルコーナーで、こっちの回復を測る目でじっと見ていた。狩りを覚えたばかりの獣が、獲物の生かし方まで学び始めている。ぞっとするより先に、俺の目は見抜いてしまう。こいつはまだ完成していない。まだ強くなる場所が、残っている。

 五回。俺は距離を潰した。読みが通じないなら、読み合いの外で殴り合うしかない。額を付けるほどの至近距離で、ボディを、フックを、呼吸ごとぶつけ合う。観客の地鳴りが床から靴の裏に響いて、汗と血の飛沫が照明に舞った。氷海の拳は硬くて冷たいのに、打ち合うたびに芯の温度が上がっていくのが分かる。凍っていた男が、燃え方を思い出していく。

 その乱打の中で、来た。氷海の左の戻りが、コンマ数秒だけ遅れる瞬間。恐怖を認めたばかりの男の、迎撃と迎撃の継ぎ目。俺の右なら届く。今なら獲れる!

 なのに、だ。拳より先に、口が動いた。

 「継ぎ目が甘えぞ王者!! 迎撃で終わるな、迎え撃った左をそのまま二発目に繋げろ!! お前の左は、まだ二段目が眠ってる!!」

 言うな。言うな、俺!! 喉を潰したいのに、声は勝手に相手の一番強くなれる場所を吠え、そして——右の拳が、当たる寸前でふっと緩んだ。指の奥から力が抜けていく、あの感覚。何度呪っても治らない、楽に勝つ自分を許せない俺の病気だ。力の抜けた一発は氷海の肩口を滑り、致命傷にならなかった。

 氷海の目が、見開かれた。

 「……そこか」

 低い呟きと同時に、教えたばかりの答えが返ってきた。迎撃の左が、止まらずに二発目へ繋がる。脇腹で骨の軋む音がして、続く右で膝からマットに崩れた。二度目のダウン!

 カウントの声が遠い。ロープの向こうでハナが白いタオルを両手で握り締めているのが見えた。その手が、震えている。昔からそうだ。スパーで俺があいつを覚醒させちまった日から、俺が散るたび、あいつの手は俺より先に泣く。

 立て。立つんだよ、俺!! 負けず嫌いだけが取り柄だろうが!!

 八つで立った。レフェリーが目を覗き込み、続行を告げる。ゴングに救われて五回が終わった。

 コーナーの丸椅子に沈むと、ハナが氷嚢を首筋に押し当てながら怒鳴った。

 「また育てたな!? この期に及んで、世界王者相手に、また口が!!」

 「……見えちまうんだよ」

 「見えても言うな!! 撃て!! 撃って黙らせろ!!」

 無茶を言う。だがその無茶が正しいことも、廃工場で虎島さんに叩き込まれた俺は知っている。避ける戦いは俺の拳を殺す。育てながら倒す以外に、俺の勝ち筋はない。言うのは簡単だ。目の前の男は、もう化け物になりかけているんだぞ!

 志摩会長が、腫れた瞼の上に冷たい金属を当てながら、短く言った。

 「迅。お前の拳は、まだ死んどらん」

 「……分かってますよ」

 「なら、それだけでいい。拳は嘘をつかん」

 六回。俺は開き直って、全部を賭けに変えた。読みが逆用されるなら、読みそのものを餌にする。わざと見え透いた左を振り、氷海の迎撃を誘い出し、その迎撃の起点に右を被せる。二重の罠だ。人生で一番危ない橋を、一番いい顔で渡ってやった!

 当たった。右が氷海の顎の横を確かに叩き、絶対王者の足が生まれて初めてよろけた。二万人が立ち上がる音がした。ハナの「そこだ!!」が割れんばかりに響く。畳みかける。左、右、ボディ、もう一度左。二十七戦、誰にも許さなかった連打を、俺は今、王者の体に刻んでいる!

 だが、倒れない。氷海はロープを背にしたまま、腕の隙間から俺を見ていた。よろけながら、削られながら、その目だけが恐ろしい速さで俺の連打を「学習」していく。三発目には軌道を読まれ、五発目には芯を外され、七発目——俺の左が空を切った瞬間、世界が反転した。カウンターの右が、こめかみを掠めて熱を残す。俺は慌てて距離を取った。背筋の産毛が全部立っていた。

 化け物め。よろけてる間まで、強くなりやがる!

 六回終了のゴングでコーナーに戻ると、ハナは何も怒鳴らなかった。ただ俺の顔の血を拭いて、水を含ませて、絞り出すみたいに言った。

 「……いい右だった。今日一番だった」

 「ああ」

 「なのに、なんで届かないんだよ……!」

 届かない理由なら、俺が一番知っている。俺が育てているからだ。一発ごとに、こいつを強くしながら殴っているからだ。それでも進むと決めたのは俺だ。虎島さんの声が蘇る。相手を強くする拳を捨てるな。その強さごと殴り倒せ!!

 七回。氷海の進化は一秒ごとに速くなった。俺が餌をやったんだから当然だ。迎撃から二段目、二段目から三段目。俺の読みの先を読み、俺のフェイントを餌にして返してくる。雀野の燕返しを凌いだ足も、鴉羽さんの漆黒の左に耐えた腹も、この男の前では通行料みたいに削られていく。俺が起こしてきた奴らの全部を煮詰めたような進化の速さだった。頬が切れ、瞼が腫れ、口の中は鉄の味しかしない。それでも俺は足を止めなかった。止めたら終わる。止めたら、こいつを起こした責任を放り出すことになる!

 客席のどこかから声が飛んだ。覚醒屋、また名品を作ってるぞ、と。笑い声が続いた。うるせえ。俺は職人じゃねえ。ボクサーだ。勝ちに来てるんだよ、ここに!!

 七回残り一分。渾身の左を潜られ、顎に短い右を貰った。三度目のダウン。マットに散った自分の血が、照明を受けて✨小さく光った。綺麗だと思った。ふざけた話だ。七年前、虎島さんの拳に沈められた夜もそうだった。こんな時にまで、俺の目は光るものを綺麗だと思ってやがる。

 「ジン!!」

 ハナの声。見なくても分かる。タオルが、投げられる寸前の高さにある。

 「まだだ!!」

 俺はロープを掴んで、血ごと吠えた。

 「まだ投げるな!! 俺が育てた怪物なら、俺が最後まで相手をする!! それが覚醒屋の、飼い主の責任ってやつだろうが!!」

 会場がどよめいた。笑っていた奴らの声が、途中で形を失って、地鳴りみたいな唸りに変わっていく。カウント九、両足で立つ。膝は笑っている。バンデージの下で、握り潰すみたいに拳を固め直す。負けるたびそうしてきた拳だ。今夜だけは、まだ負けてない内に固めてやる。それでも足りない分は、意地で立つ。志摩会長の口癖が、耳の奥で鐘みたいに鳴り続けていた。拳は嘘をつかん。なら俺のこの拳は、まだ勝ちたいと言っている。決めの寸前で緩みやがるくせに、諦め方だけは知らないんだ、この拳は!

 氷海が構え直す。剥き出しの闘争心の奥で、右がゆっくりと引き絞られていくのが見えた。あれが完成したら、零式はきっと、今まで誰も見たことのない一発になる。俺が今夜、この手で完成させちまう怪物の牙だ。

 上等だよ。作った奴が、責任持って受けて立つ!!

 七回終了のゴング。丸椅子の上の六十秒が溶けるように過ぎて、八回開始のゴングが、湾岸アリーナの天井まで鳴り響いた。

 残りのラウンドの向こうで、俺の宿命が、決着の時を待っていた。

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