第14話 かませ犬のままで
コーナーの丸椅子に沈んだ瞬間、世界がぐらりと傾いた。
七回までに三度。マットに這わされた回数だ。湾岸アリーナの照明が眩しくて、まぶたの裏で白い火花が散り続けている。左の眉の上が割れて、ハナの止血剤が沁みた。
「見えてる!? 迅、あたしの指、何本!?」
「二本。……たまに三本」
「正直すぎるのよ馬鹿犬!!」
ハナの声が震えていた。タオルを握る手が白くなっている。その手が開いたら、タオルはリングに舞う。それだけは、させない。
ロープの向こう、対角のコーナーに氷海征が立っていた。丸椅子に座ってもいない。二十七戦二十七勝、ダウン経験なしの絶対王者。絶対零度と呼ばれた男は、もう氷じゃなかった。会見で俺の口が勝手に撃ち抜いた一言——お前は負けるのが怖いだけだろ、というあの言葉が、王者の奥に凍らせてあった恐怖を剥き出しにして、恐怖ごと武器に変えちまった。今の氷海は、被弾の恐怖を燃料にして、全部の攻撃を紙一重で見てから迎撃してくる怪物だ。
俺が育てた。今夜、このリングの上で。
「迅」
志摩会長の声は、地鳴りみたいな歓声の底でも、なぜか一番よく通る。
「お前の拳は、何と言っとる」
拳は嘘をつかん、か。
バンデージの下で、拳が疼いていた。七年間ずっと押さえつけてきた疼きだ。相手の一番強くなれる場所が見えてしまう目。そこを撃てば相手は目覚める。だから見ないように、撃たないように、俺は自分の目を半分潰して戦ってきた。牧瀬にも、雀野にも、鴉羽さんにも、そうやって育てては沈められてきた。
そして廃工場の地下で、虎島豪牙に言われたんだ。呪いじゃない。避ける戦いはお前の拳を殺す。相手を強くする拳を捨てるな——その強さごと殴り倒せ!!
ああ、そうか。
今ごろになって、腹の底にすとんと落ちた。あの人は、避け方を教えたんじゃない。撃ち方を教えたんだ。
「会長。俺、もう隠さねえ」
立ち上がると、膝が笑った。笑わせておけ。
「見えた場所を、全部撃つ。あいつがもっと強くなっても——その全部ごと、倒しに行く」
ハナが息を呑んで、それから泣きそうな顔で笑った。
「……今さら!? 今さらそれ言う!? ——行ってこい、馬鹿犬!!」
八回のゴングが鳴った。
マウスピースを噛み直して、リングの中央へ。二万人の歓声がドームの天井にぶつかって、雨みたいに降ってくる。覚醒屋、と誰かが叫んだ。嘲りと期待がごちゃ混ぜになった、聞き慣れた呼び名。ああ、そうだよ。俺は覚醒屋だ。今夜だけは、その名前を誇りに変えてやる。
リング中央で氷海と目が合う。剥き出しの闘争心が、こっちの骨まで凍らせるような眼だった。
「まだ立つのか、覚醒屋」
「立つさ。俺が育てた怪物だ。最後まで面倒見るのが飼い主だろ!?」
口が、勝手に吠える。もう止めない。止めないと決めた瞬間、視界が開けた。
見える。氷海の完璧な迎撃の、その完成のさらに先。左肩の抑えが甘い。踏み込みの三歩目、恐怖を殺す呼吸のたった半拍。撃てばこいつはそこを塞ぎ、塞いだぶんだけ強くなる。それでいい。強くなった形を、俺は誰よりも先に知ってるんだから!
ジャブを、見えた場所へ突き込んだ。氷海の目が見開かれ、半拍遅れて迎撃の右が飛ぶ。読めてる。首を振って躱し、返しの左を肩口へ。当たる。浅い。だが当たる!
「そこ!! それでいい、迅!!」
ハナの声がコーナーから突き刺さる。七回まで悲鳴しか上げてなかった声が、今は実況に戻ってた。それだけで足が半歩前に出る。現金な体だ。
氷海のボディへ潜る。見える。恐怖を殺すための息継ぎ、その半拍。そこへ右を刺すと、氷海は初めて後ろに一歩下がった。二十七戦、誰にも下げさせられなかった一歩。会場の悲鳴みたいな歓声が、床を伝って足の裏まで震わせた。
どよめきが波になった。七回まで一方的に這わされてた咬ませ犬が、覚醒した王者と真正面から打ち合ってる。観客には奇跡に見えるだろう。違う。これは俺の才能だ。相手を育てて、育った先を先回りする——覚醒屋にしか撃てない、たった一歩先のボクシング!
「……なるほどな」
氷海が低く笑った。掠れて、剥き出しで、会見の時の作り物の余裕とはまるで違う声だった。
「お前、俺を強くしながら勝つ気か」
「そうだよ。あんたはまだ強くなる。伸びしろの塊なんだよ、絶対王者!!」
「——狂ってる」
嬉しそうに言うな、王者。
八回は、打って、育てて、読んで、また打った。氷海は俺が撃つたびに穴を塞ぎ、塞ぐたびに速くなった。紙一重の迎撃が、さらに薄皮一枚ぶん鋭くなる。心臓が肋骨の内側で暴れて、呼吸のたびに折れかけの骨が軋む。それでも足は前に出た。生まれて初めて、この体質と同じ方向を向いて戦ってる。怖いくらい、拳が軽い!
ゴングで八回が切れて、コーナーに戻ると、ハナが水を口に押し込みながら早口でまくし立てた。
「ねえ迅、あんた今、笑ってたの分かってる!? あんなの初めて見た。……ずるいよ。あたしをスパーで化けさせた時も、そんな顔してたんでしょ」
「覚えてねえよ、そんな昔」
「覚えときなさいよ!!」
怒鳴りながら、ハナは笑ってた。目の縁は真っ赤なのに。志摩会長が俺の肩に手を置いて、一言だけ言った。
「次のラウンド、あれの右が完成する。……浴びるなら、前で浴びろ」
浴びるな、じゃないのか。この爺さんも大概どうかしてる。だから信じられる。
九回。
地獄だった。育てすぎた。氷海の進化が、俺の読みの半歩先まで迫ってくる。読める。躱せる。でも返せない。返す前に次が来る。頬を掠める風圧だけで皮膚が切れそうな右が、二発、三発!
それでも撃った。見えた場所を撃ち続けた。逃げたら、雀野の燕返しも、鴉羽さんの漆黒の左も、全部が嘘になる。俺が育てて、俺が浴びてきた拳の全部が、ここで逃げたら無駄死にになるんだよ!!
クリンチで凌いだ一瞬、氷海の心音が胸越しに聞こえた。速い。王者の心臓が、恐怖と歓喜で全力疾走してる。耳元で、掠れた声がした。
「……礼を言う。この恐怖を、俺はずっと恥だと思ってた」
「恥なもんか。あんたの一番強い場所だよ」
レフェリーが割って入る。離れ際、氷海の眼が笑った。ぞっとするほど、いい眼だった。
九回終了間際だった。
見えた場所へ渾身の右を放った、その針の穴みたいな戻り際——氷海の腰が、沈んだ。
零式。
来ると分かってた。読めてた。躱さなかったんじゃない。躱せる速度じゃなかった。俺の読みを、たった今この瞬間に追い越した一発。俺が育てた男の、成長の証明が、真っ直ぐに胸へ✨——白く、爆ぜた。
音が消えた。
気づいたらマットが頬にあった。冷たい。遠くでレフェリーの腕が振られてる。ワン、ツー。ハナの悲鳴が水の中みたいに歪んで聞こえる。スリー。体のどこにも力が入らない。フォー。
嬉しいんだ。笑えるだろ。ファイブ。俺の読みを超えていった。あれだけ完璧だった男が、恐怖を認めて、まだ伸びた。シックス。逃げずに浴びた一発だ。避ける戦いはもうしないと決めた、その決心ごと撃ち抜かれた。後悔なんか一グラムもない。セブン。マットの匂いを、俺は十八戦ぶん知ってる。牧瀬に沈められた夜も、燕返しに斬られた夜も、漆黒の左に呼吸を奪われた夜も、この匂いの中で天井を見てた。でも今夜のマットだけは、敗北の匂いがしない。だったら——
立つに、決まってんだろ!!
指先に力を戻せ。前腕、肘、肩。順番だ。ハナに教わった通り、壊れた体は端から起こす。歓声が音の壁になって、カウントの声すら飲み込んでいく。それでもレフェリーの指の形は見えてる。
エイト。グローブでマットを噛んで、膝を立てる。ナイン——寸前、俺は立った。両足で。湾岸アリーナが割れるみたいに揺れた。
レフェリーが目を覗き込んでくる。ファイト続行。ゴングまで、あと数秒。
氷海が、信じられないものを見る眼でこっちを見ていた。二十七人を沈めてきた男が、初めて出会うものを見る眼だった。
だから俺は、血の味のする口で、笑ってやった。
「強くなれよ、王者。その全部を俺が倒す!!」
九回終了のゴングが鳴り響く。
コーナーに戻る足はもう感覚がなかった。それでもハナのタオルはまだ、あいつの手の中にある。震える手のまま、あいつは投げなかった。俺を信じやがった。志摩会長が短く頷いた。拳は嘘をつかん——なら俺の拳は、もう答えを言ってる。かませ犬のままでいい。かませ犬のままで、勝つ。
最終ラウンドのゴングが、俺と俺の育てた最強の怪物を、真ん中へ呼んでいた。




