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第15話 立ち切った拳

コーナーの丸椅子が、これほど遠い場所だったことはない。

 インターバルの六十秒。ハナが俺の顔面に氷嚢を押しつけ、割れた眉の上をワセリンで塞ぎながら、震える声で叫んだ。

「馬鹿犬!! 零式をまともに食らって、なんで笑ってんだ!!」

「笑うだろ、あんなもん見せられたら」

 九回終了間際に浴びた氷海征の右——零式。あれを食らって、俺はまだこの椅子に座っている。マットに崩れ、十カウント寸前で立ち上がって、笑ってやった。強くなれよ、王者。その全部を俺が倒す——そう吠えた口の中は、まだ血の味しかしない。

「拳は嘘をつかん」

 志摩会長がロープの外から、それだけを言った。皺だらけの手が、俺の後頭部を一度だけ叩く。

「お前の左は、まだ嘘をついとらん。行け」

 湾岸アリーナが揺れていた。二万の観客の声が波になって、リングの底からせり上がってくる。誰も座っていない。誰もが立って、最終ラウンドのゴングを待っている。無敗の絶対王者と、十八戦四勝十四敗のかませ犬。おかしな話だ。この会場の主役は、七年間ずっと俺じゃなかったのに。

 対角のコーナーで、氷海が立ち上がった。

 二十七戦二十七勝、ダウン経験なし。絶対零度と呼ばれた男の目に、もう氷はなかった。剥き出しの、飢えた獣の目。俺が育てた目だ。会見で口が勝手に撃ち抜いた恐怖を、こいつは認め、喰らい、迎撃の牙に変えた。七回までに俺から三度のダウンを奪い、九回に零式で俺を沈めかけ、それでもまだ足りないという顔をしている。

「犬飼」

 リング中央、グローブを合わせる寸前に、氷海が低く言った。

「立つな、と言っても無駄なんだろうな」

「ああ。無駄だ」

「なら——俺の全部で、潰す」

 ゴングが鳴った!

 最終ラウンド。完成した怪物の、最強の連打が来た。

 最初の左ジャブで視界が割れた。続く右で顎の芯が鳴った。一発ごとに膝が落ちかける。マットが、底なし沼みたいに俺の足首を掴んでくる。それでも足だけは止めなかった。止めたら終わる。止めたら、十四回散ってきた全部が、ただの敗北の山に戻っちまう!

 牧瀬に沈められた夜。雀野の燕返しに刻まれた頬。鴉羽の漆黒の左に折られた肋骨。虎島に打ちのめされた廃工場の埃の味。全部、この最終ラウンドに立つための階段だったと言い張るには——俺はここで、立ち切るしかない!

 どこかの席から「覚醒屋!」の声が上がった。嘲りだったはずのその呼び名が、いつの間にか手拍子に変わり、アリーナ全体の合唱になっていく。覚醒屋! 覚醒屋! 二万人が、散り続けた男の名を呼んでいる。冗談じゃない。今夜の俺は、育てるだけの男じゃない。

 ロープ際でハナの声が飛ぶ。タオルを握った両手は今夜も震えている。だが今夜のあいつは、それを一度も投げる素振りを見せない。

「見えてるんだろ、馬鹿犬!! なら撃て!! 緩めるな!!」

「まだ倒れんのか、かませ犬が!」

 氷海の左ボディが脇腹の古傷を抉る。呼吸が止まる。世界が白く飛ぶ。前に出た。打たれながら前に出ることしか、俺にはもう残っていない。

「そうだよ……俺は、かませ犬だ!」

 血の混じった声で吠えた。吠えながら、見えていた。ずっと見えていた。相手の一番強くなれる場所が見える、この呪われた目に——氷海征の進化の、その一歩先が。

 覚醒は、完成じゃない。覚醒は変化だ。変わり続ける肉体は、変わるその瞬間にだけ、古い型と新しい型の継ぎ目を晒す。雀野がそうだった。鴉羽がそうだった。虎島の映像の中の男たちが、みんなそうだった。俺はその継ぎ目を撃たずに、十四回散ってきた。決めの拳を寸前で緩めて、相手が化けるのを、殴られながら見届けてきた。

 だが虎島は言った。相手を強くする拳を捨てるな。その強さごと殴り倒せ、と。

「来いよ、王者!! もっと強くなれ!! その全部を——」

 口が、勝手に吠える。いつもの発作だ。相手の伸びしろを言い当てて、決めの拳を緩める、俺の宿命。氷海の目が更に燃え上がり、迎撃の右が今夜最速で研ぎ澄まされていくのが分かる。育てている。この期に及んで、俺はまだ、目の前の男を育てている!

 いいさ。それが俺だ。

 育てながら、倒す!!

 氷海が踏み込んだ。零式の予備動作——じゃない。零式を超えるために今この瞬間生まれつつある、新しい右。過去のどのラウンドにもなかった軌道。完璧だ。美しい。そして、生まれたての技はまだ、体に馴染んでいない!

 継ぎ目が、視えた。

 序盤に切り裂いた頬の傷が、氷海の顔でまだ赤く光っている。あの一太刀で王者は恐怖を認め、恐怖ごと進化を始めた。だから今この瞬間の氷海は、完成品じゃない。生まれ変わりの途中だ。そして生まれ変わる体は——顎の守りを、コンマ数秒だけ置き去りにする!

 右を捨てて、腰を沈めた。氷海の新しい拳が俺のこめかみを掠め、頭蓋の中で鐘が鳴る。構わない。倒れるのは、この左を振り抜いた後でいい!

 十四敗ぶんの重さを乗せた左フックが、進化の一歩先——氷海の顎の、開いたばかりの扉に突き刺さった✨

 音が消えた。

 拳が緩まなかった。七年間、決めの瞬間に必ず緩んできたこの拳が、今夜初めて、最後の一ミリまで振り抜けた。視えた場所を、視えたまま撃った。育てた強さごと、まとめて撃ち抜いた。

 二万人の悲鳴も、ハナの叫びも、自分の心臓の音さえも消えて、世界には拳の感触だけがあった。骨の芯まで届いた、と分かる感触。七年前、虎島豪牙の拳が俺に届いたときと、同じ音のしない轟音。

 膝が落ちた。俺の膝が、だ。掠めた右は、それでも俺の意識の芯を半分持っていっていた。視界が斜めに倒れていく。その斜めの世界の向こうで——氷海征が、仰向けに崩れ落ちるのが見えた。

 両者ダウン。

 レフェリーのカウントが、遠い国の言葉みたいに聞こえる。ワン。ツー。マットの匂い。汗と血と、樹脂の匂い。体が動かない。指の先まで鉛だ。スリー。フォー。

 立て。

 ファイブ。

 立てよ、犬飼迅。お前は倒れても立つのだけが取り柄だろうが。雀野に負けた夜も立った。鴉羽に折られても立った。虎島に打ちのめされても、次の朝にはロードワークに出た。立てなかった夜なんて、一度もなかっただろう!

 シックス。セブン。

 斜めの視界の隅で、リングサイドの顔が見えた気がした。燕返しで俺を超えていった雀野。世界に返り咲いた不死鴉・鴉羽。あいつらは知っている。俺に散らされた夜が、どれだけ重いかを。だったら教えてやる。散らし続けた男の夜が、どれだけ重かったかを!

 ロープが見えた。手を伸ばす。ハナの声が、音の消えた世界に最初に戻ってきた。

「立てえぇ!! 馬鹿犬!! あんたはそういう犬だろう!!」

 そうだよ。俺は、そういう犬だ。

 エイト——ナイン!

 両足が、マットを噛んだ。

 立った。俺だけが、立った。

 レフェリーが俺の顔を覗き込み、両手を確かめ、そして——隣のマットで動かない王者の上で、大きく腕を交差させた。

 試合終了のゴングが鳴った。

 十カウントの鐘。かませ犬の、ゴングだ。

 一拍遅れて、湾岸アリーナが爆発した。地鳴りなんてもんじゃない。建物ごと海に沈むかと思うほどの絶叫の渦の中で、レフェリーが俺の右腕を掴んで、天井へ突き上げた。

 勝った。

 俺が、勝った。自分で覚醒させた相手に、初めて、勝ち切った。

「……っ、あ」

 声にならなかった。膝からくずおれてマットに両手をつき、それでも顔だけは上げて、俺は吠えた。七年ぶんの、十四敗ぶんの、バンデージの下で握り潰してきた全部の夜のぶんを、喉が裂けるまで。

「俺は……俺は、勝ちたかったんだよ!!」

 ハナがロープを飛び越えて突っ込んできて、俺の首に腕を回したまま、子供みたいに泣きながら笑った。

「勝った!! あんたが勝った!! ……もう、どんだけ待たせるんだ、この馬鹿犬……!」

 志摩会長がゆっくりとリングに上がり、俺のバンデージの上から、拳をひとつ包んだ。

「言ったろう。拳は嘘をつかん」

 担架を拒んだ氷海が、コーナーで身を起こしていた。腫れ上がった目で俺を見て、掠れた声で、それでもはっきりと言った。

「……次だ、犬飼。俺はもっと強くなって、お前に取り返しに来る」

「ああ。待ってる」

 俺は笑った。口が、また勝手に続きを吠えそうになるのが分かった。お前はまだ強くなれる、その伸びしろが視える、と——生涯消えないんだろう、この目も、この口も、この体質も。

 ベルトが腰に巻かれる。ライトが眩しい。かませ犬が主役を喰った夜の、この光を俺は忘れない。

 だが光の向こうで、俺の呪われた目は、もう視てしまっている。今夜の映像を観て牙を研ぎ始める、世界中の飢えた挑戦者たちの影を。

 王者・犬飼迅の物語は、ここからだ。次のゴングは、もう遠くで鳴り始めている。

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