第16話 次のゴングが鳴る
ベルトは、思っていたより重かった。
湾岸アリーナのあの夜から三日経っても、俺の顔は青痣だらけで、肋は笑うたびに軋んだ。それでも志摩ジムの壁に掛けた世界ライト級のベルトは、古びた蛍光灯の下でずっと鈍く光っていた。十八戦五勝十四敗。世界王者の戦績としては史上最悪の数字らしい。上等だ。その十四敗が全部、この一本の重さになってぶら下がってる。
「覚醒屋が世界を獲った」——ニュースはどこもその見出しだった。かませ犬の下剋上。負け続けた男の奇跡。英雄。そんな言葉が、包帯の上から俺をくすぐっていく。
あの夜のことは、切れ切れにしか覚えていない。最終ラウンド、氷海征の最強の連打。一発ごとに膝が崩れかけて、それでも足だけは止めなかったこと。進化の一歩先に叩き込んだ左フックの、骨まで響いた確かな手応え。両者同時に倒れて、九つ目のカウントで俺だけが立ったこと。そして控室で、ハナが人目もはばからず泣きじゃくって、俺の青痣だらけの顔を両手で挟んで「勝った、勝った、あんたが勝った」と何度も繰り返したこと。俺は、勝ちたかった。二十一年の人生でいちばん強くそう思った夜に、初めて勝てた。あの十カウントの鐘の音は、今も耳の奥で鳴り続けている。
笑わせるなよ、と思う。
俺は英雄なんかじゃない。相手の一番強くなれる場所が見えて、口が勝手にそれを吠えて、決めの拳が寸前で緩む——そういう厄介な体質を抱えたまま、意地だけで立ち続けた犬だ。それは王者になった今も、一ミリも変わっちゃいない。
王座獲得の会見で、記者に訊かれた。「体質は、治ったんですか」と。俺は包帯だらけの顔で答えた。
「治さねえよ。これは呪いじゃねえ、俺の才能だ。相手を化けさせて、その化けた強さごと殴り倒す。それが俺のボクシングだ!!」
会場がどよめいて、隣のハナが頭を抱えたのを覚えている。
あれから志摩ジムには入門希望者が押し寄せた。負け続けた男が世界を獲ったジムだ。「俺でも強くなれますか」と目を血走らせた奴らが、毎日サンドバッグの列に並ぶ。志摩会長は誰も断らなかった。「拳は嘘をつかん。続けた奴だけが知ればいい」——それだけ言って、また目を閉じる。
現に、だ。
「そこだ!! 左を怖がるな、お前の右はもっと伸びる!!」
復帰初日のスパーで、俺の口はもう吠えていた。相手はうちのジムの十九歳。三ラウンド目には見違えるほど鋭くなったそいつのジャブが、俺のガードを二度割った。
「また育てる気か、馬鹿犬!! あんた世界王者なんだぞ、身内まで強くしてどうする!?」
ロープの外でハナが吠え返す。タオルを握る手は、もう震えていなかった。あの夜以来、こいつの声はまっすぐ俺に届く。
「仕方ねえだろ、見えちまうんだから」
「開き直るな!!」
志摩会長は隅のパイプ椅子で目を閉じたまま、短く言った。
「拳は嘘をつかん。……お前の拳は、もう迷っとらん」
そうだ。迷いは消えた。だが体質は消えない。俺はこの先も、リングで相手を覚醒させ続ける。牧瀬隼は俺に勝ったあの夜を境に新人王を獲り、雀野燕斗は燕返しで東洋を獲りにいき、鴉羽宗士は不死鴉として蘇り、氷海征は絶対零度のまま、もっと凶暴な何かに変わった。俺の十四敗は、十四人の始まりのゴングだった。だったらもう、逃げる理由がどこにある。抱えたまま、勝てばいい。あの夜、俺はそれを証明しちまったんだから。
防衛戦までの数か月は、あっという間だった。
雀野からは短い手紙が来た。東洋ランキングを駆け上がっているらしい。文面はたった一行。「……次は、届かせます。あなたの王座に」。強打に怯えて逃げ回っていた臆病な字が、ずいぶん鋭くなっていた。
鴉羽は世界再挑戦を決めた。会見でマイクを向けられた不死鴉は、古風な重みのある声でこう言ったそうだ。「俺を蘇らせた男が頂にいる。ならば俺は、もう一度そこへ征くだけよ」。三十四歳の脇腹は、もう誰にも古傷とは呼ばせない。
氷海は、あの夜から一度も俺の前に現れなかった。ただ一度だけ、ジムに葉書が届いた。差出人の名はなく、白い紙の真ん中に一行。「借りは氷点下で返す」。……声を出して笑っちまった。あいつはもっと強くなって戻ってくる。俺が育てた、俺だけの怪物として。望むところだ。
虎島豪牙のところにも行った。廃工場の地下ジムで、初代覚醒屋は防衛戦のポスターを眺め、豪快に笑った。
「呪いを背負ったまま獲ったか。上等だ!! なら次は、背負ったまま守ってみせろ。相手を強くする拳を捨てるな。その強さごと殴り倒せ!!」
「ああ。あんたに倒された日から、ずっとそのつもりだよ」
そして、初防衛戦の夜が来た。
湾岸アリーナ。花道を歩く俺に、あの夜とは違う歓声が降ってくる。覚醒屋、覚醒屋、と手拍子つきのコールだ。嘲りだった二つ名が、いつの間にか誇りみたいに響いてやがる。心拍が上がる。マットの匂いが鼻の奥に届く。ここが俺の場所だ。
挑戦者は二十歳の新人。八戦八勝、ランキングを最短で駆け上がってきた、まだ名前も売れていない若い牙だ。プロモーターは「初防衛に相応しい軽い相手ですよ」と笑っていた。かつて俺を「有望株の試金石」と呼んだのと同じ口で、だ。
冗談じゃない。リングの上に、軽い相手なんて一人もいない。
リング中央、グローブを合わせた瞬間、挑戦者の目が揺れた。怯えてる。当たり前だ。こいつは七年分の「覚醒屋の伝説」を全部知ってて、それでもここに来た。悪くない度胸だ。
ゴングが鳴った。
第一ラウンド、開始三十秒。
俺はいつも通り、初速の踏み込みで距離を潰しにいった。読みは通る。ジャブは届く。何万回も繰り返した、俺の得意な入り方だった。
その瞬間だった。
挑戦者の右が、視界の外から飛んできた。
まぶたの裏で白い光が爆ぜ、気づけば俺はマットに片膝をついていた。会場が悲鳴と歓声でひっくり返る。レフェリーのカウントが遠くで鳴る。ワン、ツー——。
……見えた。
痺れる頭の芯で、俺ははっきり見ちまった。今の右。あの怯えたままの踏み込み。こいつの中に眠っている、まだ本人も知らない伸びしろ。磨けば零式にも燕返しにも届きうる、原石のままの一撃。
七年前の俺だ。虎島豪牙に一発で倒されて世界がひっくり返った、十四歳のあの日の俺が、いまコーナーの向こうで拳を構え、怯えと興奮の入り混じった目でこっちを見ている。
腹の底から、笑いが込み上げてきた。
カウント五で、俺は立った。レフェリーが目を覗き込んでくる。大丈夫だ、と俺はグローブを打ち鳴らして応えた。肋の奥で古い痛みが疼く。呼吸を数える。吸って、吐いて、膝の震えを飼い慣らす。グローブの重さも、マットの匂いも、ゴングの残響も、観客の地鳴りみたいな波も、何もかもがあの夜と同じで、何もかもが新しい。倒れても立つ。それだけは、四勝しかなかった頃から一度も裏切ったことのない、俺の唯一の取り柄だ。
「いい右だ!! だがな、お前の本当の武器はそれじゃねえ——」
口が、勝手に吠え始める。
ロープの外でハナが頭を抱えるのが見えた。
「だあああもう!! 開始三十秒で育てるな、馬鹿犬!! ……ったく」——それからタオルを握り直して、ハナは笑った。「いい、育てろ!! そんで勝て!! それがあんたのボクシングだ!!」
志摩会長が、ゆっくりと頷くのが見えた。
二階席で雀野が身を乗り出し、その隣で鴉羽が腕を組んで目を細め、通路の暗がりでは氷海が氷みたいな目のまま、ほんの少しだけ口の端を上げた。……見えた気がした。まあいい。あいつらは見てる。俺が育てて、俺を倒して、最後に俺が倒した怪物どもが、今夜の俺を見てる。
挑戦者が突っ込んでくる。さっきまでの怯えが嘘みたいに、目の覚めた獣の目だ。二発目の右が唸りを上げて飛んでくる。俺は半歩だけ沈み込んでそれを流し、返しの左を頬骨すれすれに掠らせた。当てられた。当てられたのに、拳はまた寸前で緩んでいた。……いや、違う。もう緩みじゃない。これは、招待状だ。もっと来い。もっと速く、もっと深く。お前の一番強くなれる場所まで、俺が引きずり出してやる。ああ、化けるぞ、こいつは。今夜このリングで、俺がそうさせる。そのうえで——
「来いよ。今度はお前ごと勝ってやる!!」
俺は吠えて、拳を構えた。
かませ犬のゴングは、もう負け犬の鐘じゃない。誰かの眠った才能を叩き起こし、そいつの人生ごと真正面から受けて立つ、開戦の鐘だ✨
鳴れ。何度でも鳴れ。
俺の次のゴングが、いま鳴る。




