第8話 最初に俺を起こした男
志摩ジムの二階には、物置みたいな小部屋がある。古いテレビと、今どき博物館ものの再生デッキ。志摩会長は俺をパイプ椅子に座らせると、段ボール一箱ぶんのテープを机の上に積み上げた。
側面には、褪せたマジックで一言——「封印」。
「虎島豪牙の全試合だ。わしが録って、わしが仕舞った」
鴉羽戦から三日。折れた肋骨はテーピングの下で、息を吸うたびに軋む。控室の壁を殴った右手の甲も、まだ青黒く腫れたままだ。どうして俺の敗北だけが、みんなの希望になるんだよ——あの夜の叫びは、今も喉の奥に刺さっている。
世間は騒がしかった。蘇った不死鴉・鴉羽宗士の世界再挑戦宣言が一面を飾り、雀野燕斗は新人王戦を勝ち進んでいる。俺が起こした男たちが、俺の知らない高さへ翔んでいく。スポーツ紙の隅にはご丁寧に、俺の名前と「覚醒屋、今回も仕事」の見出し。丸めて捨てた新聞の感触が、まだ掌に残っていた。
「見るか、見んかは、お前が決めろ」
「見ます」
即答だった。当たり前だろ。俺をこの世界に引きずり込んだ男の拳が、この箱の中に眠ってるんだ!
ドアが開いて、ハナが紙コップのコーヒーを二つ持って入ってきた。断りもなく隣に座る。
「あたしも見る。馬鹿犬の原点ってやつ、一度拝んどきたかったし」
「勝手にしろ」
デッキが唸り、砂嵐の向こうに常磐ホールが浮かんだ。今より照明の暗い、二十年前の常磐ホール。青コーナーの若い男が、ゆらりと構えを取る。
虎島豪牙。二つ名は「東洋の牙」。
最初のジャブ一本で、俺は椅子の上で拳を握り締めていた。
美しい。理屈じゃない。踏み込みと腰と拳が一本の線になって、相手の防御のいちばん薄い場所へ吸い込まれていく。画面越しでも分かる。これは殴るための拳じゃない。何かを起こすための拳だ。
——七年前も、そうだった。
思い出す。十四の俺は、喧嘩に明け暮れていた。
学校にも家にも居場所なんてなくて、負けず嫌いだけが服を着て歩いてるみたいなガキだった。売られた喧嘩は全部買った。買った喧嘩は全部勝った。なのに、勝つたびに胸の真ん中が冷えていく。俺は何に勝ちたいんだ? 誰を倒せば、この飢えは消えるんだ? 答えの出ないまま、あの夜も河川敷で年上の五人を相手にしていた。
三人沈めたところで、こっちも足にきていた。口の中は血の味、右目は腫れて半分塞がってる。それでも倒れなかった。倒れたら終わりだと、体が勝手に知っていた。
残りの二人が逃げたあと、土手の上から拍手が降ってきた。
「小僧。五対一で三人倒して、まだ立ってるか」
のっそり降りてきたのは、岩みたいな体の男だった。年は三十半ば。着古したジャージ。なのに、立ち姿だけが異様に静かだった。
「なんだよ、あんた。やんのか!?」
「その拳、殴り方ひとつ知らんくせに、よく吠える」
頭に血が昇った。俺は地面を蹴って、渾身の右を振り抜いた——つもりだった。
視界が、白く弾けた。
何が起きたのか、本当に分からなかった。気づいたら夜空を見上げていて、遅れて腹の底から衝撃が突き上げてきた。一発。たった一発だ。でも俺は、倒れる一瞬、確かに見たんだ。闇の中を走る、あの男の左の軌道を。無駄がひとつもない、真っ直ぐで、静かで、燃えるみたいに綺麗な一本の線✨。
殴られたのに、涙が出た。悔しいだけじゃなかった。世界のどこかに、こんなに綺麗な「強さ」があるのかよ、って。
「立てるか、小僧」
「……もう一回」
「あ?」
「もう一回、今の見せろ!!」
男は、喉の奥で笑った。
「いい目だ。喧嘩の目じゃない。——相手の穴が見える目だ」
そのときは、意味なんて分からなかった。
「殴りたいなら志摩ジムに行け。『拳は嘘をつかん』が口癖の、偏屈な爺がいる。俺の名前を出せば、嫌な顔をして入れてくれる」
「あんた、誰だよ」
「虎島豪牙。——ただの、元ボクサーだ」
それが最初で最後だった。翌日、腫れた顔のまま志摩ジムの扉を叩いた俺に、会長は本当に嫌な顔をして、それから黙ってバンデージを巻いてくれた。生まれて初めて巻いたバンデージの、あの布の締まる感触。サンドバッグを殴った最初の一発で、掌の奥に灯った熱。あれから七年、負けても負けても拳を下ろさずに来られたのは、あの夜の一本の線が、まぶたの裏で燃え続けていたからだ。それきり虎島豪牙には会っていない。あの人は俺の中で、ずっと「一番強くて一番綺麗な拳」のまま止まっている。
テープは進む。若き虎島は強かった。六連続KOで東洋太平洋の王座を獲り、常磐ホールを何度も沸かせた。隣でハナが「何これ、強すぎ」と呟く。俺は頷くだけで声が出ない。そうだろ、これが俺の原点なんだ!
異変は、王座を獲って三本目のテープから始まった。
挑戦者を追い詰めた最終盤。あと一発で終わる。誰が見ても終わる。その瞬間、画面の中の虎島の口が、大きく動いた。音声は割れて聞き取れない。でも、俺には読めた。読めてしまった。
——お前の右は、そんなもんじゃないだろ、と。
背筋が凍った。心臓が一拍、殴られたみたいに跳ねた。汗の匂いも、マットの匂いもしない小部屋なのに、耳の奥で在りもしないゴングの残響が鳴っている。やめろ。頼むから、その先を見せないでくれ。祈りながら、俺は画面から目を離せなかった。
挑戦者の目の色が変わる。死にかけていた足が跳ね、ロープを背にした体が別の生き物みたいに沈み込む。そして、緩んだ。虎島の、決めの拳が。ほんの半歩、ほんの一瞬、届く寸前で威力が抜けた。次の瞬間、目覚めた挑戦者の右が、虎島の顎を撃ち抜いていた。
実況の絶叫が砂嵐越しに響く。『番狂わせ! 大番狂わせです! 王者、なぜ最後の一発を打ち切らなかったのか!』
「……嘘、でしょ」
ハナの声が掠れていた。紙コップを持つ指が、試合の日にタオルを握るときと同じ形で震えている。こいつも知ってるんだ。俺とのスパーで目を覚まし、東洋王者候補と呼ばれるところまで駆け上がった、覚醒させられた側の熱を。だからこそ、画面の中で起きていることの意味が、誰より正確に分かってしまう。
テープを替える。次も、だった。その次も、だった。追い詰める。吠える。相手が化ける。拳が緩む。沈む。負けるたびに観客の熱は上がり、虎島に倒された男たちは軒並み強くなって、次々に王者になっていった。防衛に失敗し、連敗が積み重なり、実況の声から敬意が消えていく。『また相手を化けさせました! 虎島、これでいったい何人目でしょうか!』
画面の中で拳が緩むたび、俺の右拳が、同じ形に緩む感覚がした。口の奥が、勝手に熱くなる。知ってる。この熱も、この緩みも、この矛盾も、全部知ってる!! 倒したいのに、意地でも勝ちたいのに、口が勝手に相手の伸びしろを吠えて、楽に勝つことを体が拒みやがる。画面の男は、俺だ。二十年前のリングで、俺と同じ呪いが、同じ形で暴れていた。
「会長……これ……」
「ああ」志摩会長は、短くなった煙草を揉み消した。「あの頃はまだ、覚醒屋なんて言葉はなかった。じゃがな、やっとることはお前と寸分違わん。虎島豪牙は——初代の、覚醒屋じゃ」
「なんで、黙ってたんですか!」
「言えば、お前は虎島の負けをなぞる。言わねば、いつかお前自身の目が気づく。拳は嘘をつかんからな」
最後のテープは、引退試合ですらなかった。判定負けのゴングが鳴り、うなだれもせず、ただ静かに控室へ消えていく背中で終わっている。
「王座を失って、引退して——それきり、消えた。わしにも、行方は分からん」
消えた。俺を起こした男が、俺と同じ呪いに喰われて、どこかへ消えた。
冗談じゃない。冗談じゃないぞ!!
あの人だけが知ってるはずなんだ。この体質の正体も、こいつと二十年付き合った先に何が待っているのかも。呪いに喰われたまま終わったのか、それとも——答えを握ったまま、どこかで生きているのか。
砂嵐だけになった画面の前で、俺は自分の右拳を見下ろした。牧瀬を起こし、雀野を起こし、鴉羽を起こした拳。そして七年前、虎島豪牙に起こされた拳。始まりと今が、一本の線で繋がっちまった。なら、この線の先を確かめずに、次のゴングなんて聞けるかよ!
俺は立ち上がった。折れた肋骨が軋んで、その痛みがむしろ心地よかった。
「捜します。虎島豪牙を」
「治ってからにしなさいよ、馬鹿犬!!」
叫ぶハナの横で、志摩会長は何も言わず、箱の底から一枚だけ色褪せた写真を差し出した。若き日の虎島と会長が並んで笑う、その背後に写り込んでいるのは——煤けた壁の、古い廃工場だった。
俺を最初に起こした男を、今度は俺が捜し出して、叩き起こす番だ!




