第7話 俺だけが救われない
七回のゴングが鳴った瞬間、常磐ホールの空気が変わったのが分かった。
リングの向こうに立っているのは、もう俺が序盤に追い詰めた衰えた男じゃない。背筋が伸びている。顎が引かれている。掠れていた呼吸が、深く、長く、鐘の音みたいに整っている。三十四歳の元世界王者——不死鴉、鴉羽宗士。俺の叫びが起こしてしまった男が、七年ぶんの眠りから覚めた目でこっちを見ていた。
マットの匂いが濃い。汗と松脂と、乾いた血の匂い。四年この世界にいて、こんなに濃く感じた夜はない。心臓がグローブの内側まで脈を運んでくる。どく、どく、どく。俺はまだ動ける。序盤に稼いだ貯金もある。冷静に考えれば、まだ俺の試合だ。
来る。
そう思った時にはもう、漆黒の左が俺の脇腹に埋まっていた。
息が、出ない。吸えないんじゃない。出ないんだ。肺の中の空気ごと拳で栓をされたみたいに、胸の奥で呼吸が凍る。これが世界を獲った左か。膝が落ちかけて、俺はロープを掴む代わりに前に出た。倒れる方向に踏み込めば、倒れない。ガキの頃に喧嘩で覚えた理屈だ。
「まだ、だ!!」
打ち返した右は当たった。確かに当たった。なのに鴉羽は揺れない。揺れないどころか、俺の右の内側を通って、もう次の左が来ている。現役時代の映像より速い。三連敗して、目を閉じてパンチを恐れていた男の拳じゃない。これは完成しつつある拳だ。壊れて、底まで落ちて、そこから拾い直した男だけが打てる連打だ。
ああ、綺麗だな。
殴られながら、俺はそう思ってしまう。そう思ってしまう俺の口が、また勝手に開く。
「そうだよ、それだ!! あんたの左は、まだ先がある!!」
「馬鹿犬、黙れ!! 吠えるな!!」
コーナーからハナの悲鳴が飛ぶ。分かってる。分かってるんだよ。黙って、削って、倒し切ればいい。序盤に俺が散々叩いた古傷の脇腹は、今もまだ開いたままなんだ。そこだけ撃ち続ければ、この復活は未完成のまま終わる。俺は勝てる。
なのに俺の目は、鴉羽の左脇の、古傷のさらに奥を見てしまう。そこを庇う癖ごと踏み込めば、この男の左はもう一段深くなる——そういう場所が、光って見えてしまう。
見えて、撃って、そして決めの瞬間に、俺の拳は寸前で緩む。
現に今、緩んだ。がら空きの古傷に叩き込むはずだった右が、当たる寸前で力を失って、ただ触れただけで終わった。楽に勝てる場所を撃つことを、俺の体のどこかが許さない。ふざけるな。動けよ。俺の拳だろうが!! 歯を食いしばった奥で、血の味がした。
七回終了のゴング。コーナーに戻ると、ハナが濡れたタオルを俺の首に叩きつけた。手が震えていた。
「肋骨、いってるでしょ。呼吸の音が変。棄権しよ。ね、今日はもう充分——」
「断る」
「あんたが起こした王者だよ!? 完成したら勝てないの、分かってるでしょ!?」
「分かってる」
俺は超がつく負けず嫌いだ。負けていいなんて一度も思ったことがない。相手を育てて散るために殴り合ってるんじゃない。勝ちたいんだ。意地でも勝ちたいんだ。なのに——。
「分かってて、勝ちたくて、それでもああなるんだよ、俺は」
ハナが唇を噛んだ。この人は俺のスパーで覚醒して、東洋王者の一歩手前まで駆け上がって、目を壊して引退した。俺の体質の被害者第一号が、今は誰よりも俺の勝ちを願って、タオルを握り潰している。その手の震えを見るたび、俺は思う。今日こそ勝って、この震えを止めてやりたいって。
志摩会長は何も言わず、俺のグローブの紐を確かめただけだった。拳は嘘をつかん——いつもの口癖すら、今日は言わなかった。
八回。漆黒の左が二発、同じ場所に刺さった。何かが折れる音を、耳じゃなく体の内側で聞いた。肋骨だ。息をするたび、胸の中で熱い釘が動く。呼吸を浅くすれば痛みは減るが、浅い呼吸じゃ拳は打てない。だから俺は深く吸った。釘を胸に刺したまま、深く吸って、打ち返した。ワン、ツー、返しのフック。三発とも当てた。当てても、目の前の男はもう沈まない。
「いいぞ犬飼!! そこだ、打ち合え!!」
どこかの席から野太い声が飛んで、すぐに不死鴉コールに呑まれた。
九回。鴉羽の連打は、もう現役時代を超えていた。左でボディ、返しの左でまたボディ、そこから顎。一発ごとに視界の輪郭が白く飛ぶ。三十四歳の体のどこにこんな拳が眠ってたんだよ!? 会場が地鳴りみたいに揺れる。不死鴉、不死鴉、不死鴉。誰も俺の名前なんか呼んじゃいない。ロープに背中が触れるたび、ハナの声だけが歓声を突き破って届いた。
「見えてる!! 迅、左は見えてるでしょ、返して!!」
見えてるよ。見えすぎてるんだ。あの左がこの先どこまで深くなるかまで、全部。
それでも俺は立っていた。
クリンチで凌げとハナは叫ぶ。抱きつけば一呼吸は稼げる。だが俺は腕を回さなかった。この男の完成していく拳から逃げたら、序盤に脇腹を叩いた俺の拳まで嘘になる。
倒れても立つ。それだけは、誰に覚醒させられたわけでもない、俺が俺に叩き込んだ俺の技だ。
十回。開始のゴングと同時に、鴉羽が真っ直ぐ来た。逃げ場を消す踏み込み。ああ、これは終わらせに来る拳だ。逃げ道はある。横に跳べばいい。だが横に跳んだ先に勝ちはない。勝ちたいなら、この踏み込みの内側で迎え撃つしかない。俺は最後の力で読んだ。肩の沈み、腰の回り、目線の落ちる角度。左が来る、下から、あの漆黒が——読めた。カウンターの右も置いた。読めたのに、折れた肋骨が俺の踏み込みを半歩殺した。
半歩。それだけで拳の世界は終わる。
漆黒の左が、俺の右より一瞬だけ早く✨黒く煌めいて、俺の呼吸の芯を撃ち抜いた。
膝から崩れて、それでも俺はロープを掴んで立った。立ったんだ。確かに立った。だがレフェリーの腕が俺の前で交差して、視界の端でハナのタオルが白く舞った。
テンカウントより先に、試合が終わった。TKO。十八戦、四勝、十五敗。
鴉羽はガッツポーズをしなかった。倒れかけの俺を抱き止めて、耳元で言った。掠れ声じゃなかった。古い鐘みたいな、重くて深い、王者の声だった。
「犬飼迅。お前の吠え声が、死んだ俺を蘇らせた。この恩は、拳でしか返せん」
そしてマイクを掴み、満員の常磐ホールに宣言した。
「不死鴉・鴉羽宗士、世界に再挑戦する!!」
歓声が爆発した。天井が抜けるかと思った。誰もが泣いていた。三連敗で終わって、パンチが怖くて目を閉じていた男が、今夜、世界へ戻る道の上に立った。老舗の常磐ホールが丸ごと震えるほどの、復活の物語。何て美しい夜だ。何て感動的な物語だ。
その物語の中で、俺だけが敗者だった。
花道を下がる俺に、それでも幾つかの拍手が落ちてきた。十回立ち続けた男への、優しい拍手だ。優しさが一番刺さるってことを、この客たちは知らない。
控室に戻って、ドアが閉まった瞬間、俺は壁を殴った。バンデージの下で、折れてない方の拳が軋んだ。
「どうして……どうして俺の敗北だけが、みんなの希望になるんだよ!?」
牧瀬は新人王候補に返り咲いた。雀野は燕返しを手に入れて、俺をボクサーにした人だと頭を下げた。鴉羽は世界に戻っていく。みんな俺を踏んで飛んでいく。俺と殴り合った奴は全員救われて、俺だけが救われない!! 覚醒屋? ふざけるな。俺は誰かを起こすために生まれてきたんじゃない。勝ちたいんだ。ただ、勝ちたいだけなんだ!!
もう一度壁を殴ろうとした拳を、乾いた掌が掴んだ。
志摩会長だった。
「拳は嘘をつかん。お前の拳は、まだ何も諦めとらん」
会長は俺の手を下ろさせると、懐から古びたディスクケースの束を取り出した。何年も開けられていない、埃と一緒に封をされたような束だった。表に、掠れた手書きの文字。
——虎島豪牙・全試合。
心臓が跳ねた。七年前、十四歳の俺を一発で倒して、この世界に引きずり込んだ男。喧嘩しか知らなかった俺に、拳は美しくなれると教えた男。俺の原点。東洋の牙。引退して、消えて、今はどこにいるのかも分からない。その全試合が、ここにある。
「わしが育てた男だ。そして、わしが封印した男でもある」
「会長、なんでこれを、今……」
「お前は今夜、負けてなお立った。見る資格ができたということだ」
志摩会長は静かにケースを俺の胸に押しつけた。
「見ろ、迅。お前と同じ拳が、そこに映っとる」
同じ拳。折れた肋骨の奥で、心臓が嫌な速さで鳴り始めた。
その言葉の意味を確かめるように、俺は震える手で一枚目のディスクを取り出した。映像の中で若い牙が吠える、その先に何が映っているのか、俺はまだ知らなかった。




