第6話 王冠を砕く拳
ゴングの残響が、まだ耳の奥で揺れている。
常磐ホールの照明はいつもより白く見えた。古い会場特有の、汗と松脂とマットの匂いが濃く立ち込めて、吸い込むたびに心拍が一段ずつ上がっていく。リングの中央で向かい合った瞬間、俺は確信した。目の前の男は、五日前のスパーのときよりさらに壊れている。
鴉羽宗士。元世界ライト級王者。二つ名は「不死鴉」。三連敗、引退寸前。パンチの気配だけで目を閉じる、三十四歳の抜け殻。
その抜け殻が、自分から俺に殴られに来た。「お前に殴られても立てないなら、俺はもう終わりだ」と、志摩ジムの事務机に契約書を置いて。志摩会長は何も言わずに頷いた。拳は嘘をつかん——あの短い口癖だけを残して。
ふざけるな、と思う。俺は蘇らせ屋じゃない。覚醒屋なんて二つ名は、俺が望んで背負ったもんじゃない! 俺が欲しいのは五勝目だ。ただの、まっとうな、俺自身の勝ちだ!
最初のジャブを放つ。軽く、探るだけの一発。それだけで鴉羽の瞼が落ちた。まただ。グローブが顔の前を掠めただけで、世界を獲った男の目が、恐怖で閉じる。
観客席がざわめいた。嘲笑の混じったざわめきだ。三連敗の元王者と、十八戦十四敗のかませ犬。どっちが先に転がるかを賭けて笑う声が、ロープの内側まで届いてくる。安い酒の匂いと一緒に。
うるせえよ。俺は歯を食いしばって踏み込んだ。
初速には自信がある。読みにも、耐久にも。俺は本来なら勝てるボクサーなんだ。それを証明するみたいに、俺の左は鴉羽のガードの隙間を正確に抜けた。右も、返しの左も。壊れた王者は打たれるたびに後退し、目を閉じ、ロープを背負う。反撃はほとんど来ない。来ても、腰の入っていない、怯えた手打ちだけ。
一回、二回。ラウンドを重ねるほど、試合は一方的になっていった。俺の呼吸はまだ浅くもならない。踏み込むたびにキャンバスが軋んで、その振動が足の裏から膝、腰、拳まで一本の線で繋がっていくのが分かる。調子はいい。怖いくらいに。
コーナーに戻るたび、ハナが早口で告げる。
「完璧。このまま何も考えずに畳んで。……余計なこと、言うんじゃないよ」
「分かってる」
「本当に分かってる!? あんたの『分かってる』ほど信用できないものはないんだからね!」
タオルを握るハナの手が、白くなっていた。雀野戦のあの日も、この手はこうやって震えてた。俺が育てた燕返しに打たれ続ける俺を、コーナーから見てるしかなかった手だ。もう二度と、あんな顔はさせない。
ロープの外、コーナーの下には志摩会長が立っていた。腕を組んだまま、何も言わない。ただその視線は俺じゃなく、鴉羽の閉じた瞼をじっと見ていた。あの老人が何を見てるのか、このときの俺はまだ深く考えなかった。考えるべきだったんだ。
三回の中盤、俺は見つけた。鴉羽の右脇腹。現役時代の防衛戦で痛めた古傷。体を捻るたび、そこだけ庇う癖がある。ハナと試合映像を何十回も回して確認した、勝つための急所。
撃った。左のボディ。手応えは、濡れた砂袋を殴ったときの鈍さに似ていた。鴉羽の息が詰まる音が、グローブ越しに骨まで伝わってくる。
「そこ!! 効いてる!!」
ハナの声が飛ぶ。分かってる。効いてる。続けて右、また左。古傷の上に拳を重ねるたび、元王者の体がくの字に折れていく。
これでいい。これが試合だ。弱ったところを撃つ。勝つってのはそういうことだ。牧瀬戦でも雀野戦でも、骨身に染みただろ。情けも敬意も、拳を緩める理由にはならない。倒し切れなかった夜の、バンデージの下で潰した拳の感触を思い出せ!
四回。鴉羽はもう、ほとんど打ち返してこなかった。ガードの隙間から覗く目は閉じたままで、脇腹を庇う右肘は下がりきっている。口の中を切ったのか、マウスピースの縁が赤い。レフェリーが割って入るタイミングを計り始めたのが、視界の端で分かった。観客のざわめきが、退屈と憐れみの色に変わっていく。
あと一発。右をあの脇腹に沈めれば終わる。俺の五勝目。かませ犬が元世界王者を食ったっていう、最高の勲章。
踏み込んだ。腰が回る。拳が走る。
そのときだった。見えたのは。
閉じた瞼の裏で、鴉羽の目が「開こうとしている」のが。
脇腹を庇うんじゃない。庇うふりをして俺の左を呼び込み、体を沈めてカウンターの左を返す——そういう戦い方を、この男は現役時代、何百回も繰り返してきたはずなんだ。恐怖で錆びついた回路の奥に、その全部がまだ残ってる。ロープの反発を背中で測る癖も、相手の呼吸の谷を数える耳も。眠ってるだけで、死んじゃいない。
この男の一番強くなれる場所が、俺には見えてしまった。
やめろ。撃て。考えるな。見るな。撃ち抜け!
なのに、俺の拳は寸前で緩んだ。威力の抜けた右が、鴉羽のグローブに吸われて止まる。そして口が、勝手に開いた。
「——王者だったくせに、その程度か!?」
ホールが、しんとなった。
「あんたの左は、そんなもんじゃねえだろ! 世界を獲った左は、目を閉じて震えるためにあるのかよ!! 三年前のあんたなら、今の俺のボディなんか全部カウンターの餌だ! 立てよ不死鴉!! あんたの墓はまだ、ここじゃねえはずだ!!」
言い切ってから、背筋が凍った。またやった。またやっちまった。楽に勝てる自分を、俺の中の何かがどうしても許さない。眠ってる強さを見つけたら、叩き起こさずにいられない。この口は、俺の勝ちを喰って生きてる。
鴉羽の瞼が、ゆっくりと上がった。
閉じることを忘れたみたいに、まっすぐ俺を見た。五日前のスパーで一瞬だけ覗いた、あの光。怯えの膜が剥がれ落ちた奥から、王者の目が現れる。
「……ああ、そうだ」
掠れた声だった。だがもう、震えてはいなかった。
「俺の左は、こんなものではなかった」
声の底に、古い鐘みたいな重みが宿っていく。壊れた男の声じゃない。玉座から響く声だ。
「思い出させてもらうぞ、覚醒屋。俺に、王者だった頃の痛みをくれ」
来る。俺はガードを固めて前に出た。逃げたら負けだ。俺は倒れても立つ。意地でも勝つ。育てちまったなら、育った奴ごと殴り倒すしかねえんだよ!!
打ち合いになった。さっきまでの手打ちとはまるで違う。ジャブ一発の圧が、壁を押し返してるみたいに重い。それでも俺は退かなかった。退けるかよ! 俺の右が鴉羽の頬を弾き、鴉羽の体が沈む。もらった、と思った瞬間、その沈み込みが加速した。膝が、腰が、肩が、一本の軸に束ねられて、左が来る。
見えたのは軌道の入口だけだった。
黒い。そう感じた。照明を吸い込んで光らない、漆黒の左✨。
俺の右脇腹に、それが突き刺さった。
息が、消えた。
痛みより先に、呼吸のやり方を忘れた。肺が空気の取り込み方を思い出せない。マットの匂いが急に遠くなって、膝が勝手に折れていく。これが「漆黒の左」。世界中の挑戦者の呼吸を奪ってきた、不死鴉の必殺——俺が叩き起こした、本物の王者の拳!
「迅!!」
ハナの悲鳴が聞こえた。それと同時に、観客席が爆発した。嘲笑じゃない。地鳴りだ。死んだはずの王者が蘇った瞬間を目撃した人間たちの、床を踏み鳴らす、割れるような歓声。誰かが叫んでる。不死鴉だ、不死鴉が帰ってきたぞ、と。
冗談じゃねえ。まだ折れてない。膝はついてない!
俺はロープを掴んで、崩れかけた体を引きずり上げた。空気をひと欠片ずつ齧るみたいに吸い込みながら、前を見る。鴉羽宗士が、背筋を伸ばしてそこに立っていた。ガードの構えが変わってる。肘の角度も、顎の引き方も、写真で何度も見た全盛期の「不死鴉」そのものだ。入場のときより十歳若く見えた。
追撃は来なかった。鴉羽は俺が立ち直るのを、その場で待っていた。壊れてた男の目に、好敵手を見る光が灯ってる。それが敬意だってことくらい、俺にも分かる。分かるから、余計に腹の底が熱くなった。
ゴングが鳴った。四回終了。コーナーに戻る俺の足は、正直に言えば震えてた。
「この馬鹿犬!! また育てる気か、じゃなくて、もう育てちまったよ!!」
ハナがタオルで俺の顔を拭きながら吠える。手が震えてるのは、怒りだけじゃないのを俺は知ってる。
「……ああ」
俺は自分の右脇腹を押さえて、笑った。呼吸はまだ半分しか戻ってない。なのに、心臓は最高にうるさい。ふざけた話だ。地獄の釜の蓋を自分で開けておいて、俺の体は今、こんなにも沸いてる。
コーナー下の志摩会長と、一瞬だけ目が合った。老人は責めなかった。ただ短く、聞き慣れた言葉を置いた。
「拳は嘘をつかん。……お前のもだ、迅」
だったら証明するだけだ。覚醒屋の拳が、蘇った王者の拳より嘘をついてないってことを。ここからが、俺の本当の試合だ!
リングの向こうで、蘇った不死鴉が翼を広げるように両腕を回している。後半ラウンドの開始を告げるブザーが、死刑宣告みたいに鳴り響いた。




