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第5話 死んだ王者

雀野燕斗に敗れて三日が経った朝、志摩ジムの鉄の扉が軋んだ。

 サンドバッグを叩いていた俺の拳が、勝手に止まる。入ってきたのは鴉羽宗士。元世界ライト級王者、二つ名は「不死鴉」。三連敗、三十四歳、引退寸前。そして三日前、雀野戦の直後のリングに勝手に上がってきて、観客の目の前で「次は俺を蘇らせてくれ」と言い放った男だ。

 「……約束した覚えはない」

 俺が言うと、鴉羽は掠れた声で笑った。

 「つれないな、覚醒屋」

 その二つ名に、奥歯が鳴った。相手を化け物にして散る男。三日前、雀野は完成した燕返しで俺を最終ラウンドまで削り切り、泣きながら頭を下げた。あなたが俺をボクサーにした、と。称賛も歓声も全部あいつのものだった。俺に残ったのは、バンデージの下で潰れた拳の感触だけだ。

 「帰ってくれ。俺は誰も蘇らせない」

 言いながら、俺は目の前の男と、記憶の中の男を重ねられずにいた。ガキの頃、擦り切れるほど見た世界タイトルマッチの映像。リングの中央から一歩も引かず、挑戦者の渾身の右を額で受けながら前に出て、脇腹に沈む漆黒の左一発で巨漢を膝から崩した、あの不死鴉。何度倒されても立ち上がるから不死鳥ならぬ不死鴉。子供の俺が拳を握って震えた、あの背中。それが今、目の前で猫背に丸まって、ジムの蛍光灯の下で所在なげに立っている。頬はこけ、目の下は落ち窪み、それでも拳だけは昔のままの岩みたいな形をしていた。

 「なら確かめろ」鴉羽はリングを顎で指した。「俺がもう死んでるかどうか、お前の拳で」

 断るつもりだった。なのに志摩会長は何も言わずにロープを持ち上げ、ハナは「三分だけだよ!」と睨みながらヘッドギアを投げてきた。俺の足は、もうリングシューズの紐を締めていた。負けず嫌いの体は、いつだって頭より先に動く。

 ゴング代わりのブザーが鳴る。

 構えを見た瞬間、胸の奥が冷えた。映像で何度も見た「不死鴉」の構えじゃない。肘が縮こまり、顎が浮き、体重がかかとに逃げている。怯えた素人の構えだ。

 ジャブを出す。当てる気のない、挨拶のような一発。

 鴉羽は、目を閉じた。

 避けたんじゃない。ガードもしていない。ただ固く目を瞑って、頬にジャブを受けた。世界を獲った男が、パンチが来るたびに目を閉じる。二発目も、三発目も。ヘッドギア越しに伝わる衝撃より、その瞼の震えのほうが俺の胸を殴った。

 これが三連敗の正体か。衰えじゃない。壊れてるんだ。

 汗と革の匂いが濃くなる。ロープの外でハナが息を呑む気配がした。志摩会長は微動だにしない。マットを擦る二人分の足音だけが、朝のジムに響く。俺は距離を作り直し、もう一度だけ、ゆっくりとしたワンツーを送った。速度を殺した、誰にでも見える軌道。それでも鴉羽の瞼は落ちた。閉じた瞼の裏で、この人は三年間、何と戦ってきたんだ。

 「どうした!」鴉羽が吠える。声だけは前に出る。「打ってこい! 遠慮は要らん!」

 打った。左、左、右。当たる。全部当たる。当たってしまう。ロープに詰めて、脇腹の古傷を軽く撫でるようにボディを置いた、その時だった。

 空気が変わった。

 俺の右が伸びた一瞬、鴉羽の上体が意思とは別の何かで沈んだ。かかとに逃げていた体重が爪先に乗り、腰が回り、左の拳が脇腹の高さで✨と一瞬だけ光った——漆黒の左。呼吸を奪う必殺の軌道が、俺の肝臓の三センチ手前まで届いて。

 止まった。

 三センチ。たったそれだけの距離なのに、俺の内臓は勝手に縮み上がり、背中を冷たい汗が一直線に走った。当たってもいないのに呼吸が浅い。これが世界を獲った左か。死にかけの体に染みついた残り火ですら、俺の本能を怯えさせる。心臓が肋骨を叩く音が、自分でも聞こえた。怖い——そして、どうしようもなく血が熱い。この左が完全に蘇ったら、どれほどの拳になる!?

 鴉羽は自分の左手を、化け物でも見るような目で見下ろしていた。そしてまた、目を閉じた。体は覚えてる。魂が追いつかない。死んだんじゃない、死んだふりを体に染み込ませただけだ——見えた。こいつの一番強くなれる場所が、はっきり見えた。目を閉じるその瞬間にこそ、こいつの誇りが埋まってる。そこを撃てば、不死鴉は。

 「あんた、目を閉じる瞬間に——」

 口が、勝手に開いていた。

 全身の血が音を立てた。まただ。また吠えようとしてる。教えてどうする!? こいつを蘇らせて、リングで化け物になったこいつに沈められるのが、お前の三日後か!? 俺は言葉を奥歯で噛み千切り、代わりに出したはずの右は——我ながら笑えるほど、寸前で緩んでいた。当てれば終わる距離で、拳が勝手に力を抜く。楽に勝つことを、俺の体が許さない。

 ブザーが鳴った。三分。たった三分で、俺は汗より重いものを流していた。

 「……見えたか」ロープにもたれた鴉羽が言った。「今の一瞬。まだ、いたか。俺の中に」

 「いたよ」嘘はつけなかった。「一瞬だけな」

 「なら試合だ。常磐ホール、来月の興行に枠がある」

 「断る!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。ハナがびくりと肩を揺らす。

 「あんたが勝てば、俺は『元王者復活の踏み台』だ。あんたが負ければ四連敗、今度こそ引退で、俺は『伝説にとどめを刺した咬ませ犬』だ! どっちに転んでも観客が見たいのはあんたの物語で、俺はその小道具だ! そういう試合の残酷さを、あんたが知らないとは言わせない!!」

 言い切って、気づいた。俺は怒ってるんじゃない。怖いんだ。また育てて、また散る自分が。

 プロモーターどもの顔が浮かぶ。牧瀬戦の後も、雀野戦の後も、あいつらは揉み手で言った。「いやあ犬飼くん、君は最高の砥石だよ」と。有望株を試したければ覚醒屋にぶつけろ。倒せば本物、倒されれば元から偽物。俺の敗北はいつだって誰かの商品価値に換算されて、興行のポスターの隅で、俺の名前だけ一回り小さく刷られる。今度のポスターはもっと露骨だろう。伝説の復活か、それとも葬送か——どっちの見出しにも、俺の勝利の枠はない。

 ハナが俺とリングの間に割って入った。

 「そうだよ、帰って! こいつはね、放っとくと相手の一番いいところを殴りながら育てちゃう馬鹿犬なんだ! あんたみたいな『あと一押しで蘇る』人が一番危ない相手なんだよ! また育てる気か、馬鹿犬!!」

 最後のは俺に飛んできた。返す言葉もない。

 鴉羽は静かにロープをくぐり、バッグから紙の束を出した。試合契約書。差し出す手が、小刻みに震えていた。

 「三年前から、パンチが怖い」掠れ声が、床に落ちるように続いた。「王者だった男が、グローブの音で目を閉じる。医者は体に異常はないと言う。なら壊れたのは俺そのものだ。防衛戦で王座を失った夜、目を閉じたまま倒れた。次の試合も、その次も、閉じた瞼の裏で敗けた。三連敗、全部それだ。引退届も書いた。だが三日前、お前の試合を見た」

 目を閉じかけて——鴉羽は、閉じなかった。

 「負けたお前が、一番ボクサーの顔をしていた。お前に殴られても立てないなら、俺はもう終わりだ。終わりを確かめる相手くらい、選ばせてくれ」

 契約書が、俺の胸に押し当てられた。断れ。頭はそう言ってる。これは残酷な興行で、俺はまた誰かの物語の小道具にされる。でも——さっきの一瞬。脇腹の高さで光った漆黒の軌道。あれを見た俺の心臓は、確かに歓声を上げていた。ボクサーとして、あの左と殴り合いたいと。

 「会長」俺は志摩会長を見た。「止めてくれよ、こういう時は」

 会長は腕を組んだまま、ゆっくりと頷いた。

 「拳は嘘をつかん」

 それだけだった。止める気は、最初からないらしい。

 俺はペンを引ったくり、契約書に名前を叩きつけた。

 「言っとくが、俺は小道具になる気はない! あんたを蘇らせる前に、立てないまま沈める! 俺が勝って、あんたの物語ごと終わらせてやる!!」

 「それでいい」鴉羽が初めて、王者の顔で笑った。「それが一番、効く」

 その夜、居残ったジムで一人、俺はバンデージを巻き直した。雀野戦で潰した拳の付け根が、まだ鈍く疼く。負けた痛みってのは、傷が塞がる頃に一番深く沈む。それでも巻き終えた拳をサンドバッグに置くと、指の奥で心臓と同じ速さで何かが脈打った。勝ちたい。今度こそ勝ちたい。目を閉じる王者の、あの一瞬の光ごと。

 「馬鹿犬」帰ったはずのハナが、扉のところに立っていた。タオルを握る手が、いつもみたいに震えている。「今度散ったら、あたし本気で泣くからね」

 「散らねえよ」俺はバッグを一発、骨まで響く音で鳴らした。「見てろ」

 ハナがタオルを握り締めて天井を仰ぎ、志摩会長は明日、興行主に電話をかける。

 一か月後、常磐ホール——死んだ王者と咬ませ犬の、ゴングが鳴る。

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