第4話 勝者を生む敗者
インターバルの六十秒は、いつも一瞬で溶ける。
コーナーの丸椅子に沈んだ俺の頬を、ハナが乱暴に拭った。ワセリンの匂いと血の味が混ざる。前のラウンドの終わり際に切られた傷だ。タオルを持つハナの手が、また震えていた。悔しいときほど、こいつの手は震える。
「言っとくけど、ポイントはまだ僅差だからね。最後まで足を止めないで、先に——」
「当てる。分かってる」
「分かってない!! あんたが分かってるのは相手の伸びしろだけでしょ、馬鹿犬!!」
ロープの外から、志摩会長が短く言った。
「拳は嘘をつかん。……お前の拳もだ、迅」
どういう意味だ、と訊き返す前に、セコンドアウトのブザーが鳴った。
最終ラウンドのゴングが鳴った瞬間、常磐ホールの空気がまるごと持ち上がった。歓声が波になってリングに雪崩れ込んでくる。背中を押される感覚。だがこの波は、俺のためのものじゃない。青コーナーから跳ねるように出てきた十九歳のための波だ。
雀野燕斗。三ラウンド前まで、強打に怯えてロープ際を逃げ回るだけだった臆病者。今は違う。前のラウンド終了間際、俺の頬を初めて切ったあの右から、こいつの目は別の生き物になった。恐怖はそのまま、目を見開いたまま、それでも前に出てくる。恐怖を消すんじゃない。恐怖ごと武器にしやがった。
「迅!! 考えるな、先に当てろ!! 手数で押し切れ!!」
ハナの声がコーナーから飛んでくる。分かってる。考えた瞬間に始まるんだ、俺の悪い癖は。
踏み込む。初速なら俺はこのホールの誰にも負けない。左が雀野の額を弾き、返しの右をボディへ。骨に響く手応え。今夜だけで何十発この感触を刻んだか、もう数え切れない。それでも倒れない。細い体のどこにそんな芯があるのか、雀野燕斗は倒れないんだ!
そして、届かない。
俺の右が伸び切る寸前——そこだけを狙って、雀野が半歩、内側に踏み込んでくる。拳が届く寸前の、まばたきほどの空白。そこに合わせて突き上がってくるカウンター。燕返し。三ラウンドかけて、俺が殴りながら育て上げてしまった牙が、完成形になって俺の顎を跳ね上げる!
視界が白く弾けた。マットの匂いが鼻先まで迫って、膝が笑う。倒れるか。倒れるもんか! 足の裏でリングを掴んで、俺は前に出た。下がったら終わりだ。こいつのカウンターは、下がる背中を一番深く刺す。なら答えはひとつ、もっと近くだ!
距離を潰す。息が触れるほどの間合いで、短い拳を交換する。汗が飛ぶ。肘の内側が擦れて熱い。近くで見る雀野の目は、やっぱり恐怖で見開かれたままだった。怖いんだ、こいつは今も。怖くて怖くて仕方ないまま、その恐怖を全部、俺の拳の軌道を読む集中力に変えている。三ラウンド前、ロープ際で亀みたいに縮こまっていた男と同じ目とは、誰も信じないだろう。
だが俺は知っている。同じ目だ。ずっと同じ目だった。怯えは才能だ。誰よりも拳を怖がる人間は、誰よりも拳が見えている。俺が初回にそれを吠えちまったから——「逃げるなら、最後まで逃げ切ってみろよ」と言っちまったから、こいつは逃げ足を牙に変えたんだ。
クリンチ気味に潰して、離れ際に左を返す。頬の傷が開いて、血がまた顎を伝った。呼吸が焼ける。心臓がグローブより重い。それでも口の端が勝手に持ち上がるのはなんでだ。強くなっていく人間を殴るのは、こんなにも熱いのか!
中盤、それは来た。
雀野が燕返しを空振り、体が流れた。着地の左足が浮いて、ガードの内側ががら空きになる。見える。撃ち込む場所が、光の筋みたいにはっきり見える。右を最短で通せば終わる。レフェリーが割る前に、この試合は俺のものになる。
撃て。撃て、犬飼迅! 今度こそ黙って撃ち抜け!!
「——打ったあとに止まるな!!」
喉が、勝手に吠えていた。
「燕は打ち逃げする鳥だろうが! 止まった燕は、ただの的だぞ!!」
右は、雀野の頬骨の寸前で緩んでいた。芯を外れた拳が皮膚の上を滑る。ああ、またやった。楽に勝てる一発を、俺の体は今夜も許さなかった。
「また育てる気か、馬鹿犬!!」
ハナの絶叫がゴング裏の鐘みたいに響く。握り潰されたタオルが視界の端に見えた。すまねえ、ハナ。でも見ろよ。俺の言葉を食った瞬間、雀野の流れた体が、燕みたいに反転しやがった。
そこから先は、嵐だった。
打っては消え、消えては刺す。完成した燕返しは、もう俺の拳が伸びる寸前だけじゃない。引く瞬間、息を吸う瞬間、まばたきの瞬間——俺のすべての「寸前」に、あの細い踏み込みが割り込んでくる。一発ごとに脳が揺れて、一発ごとに膝が抜けかける。口の中は血の味しかしない。耳の奥でゴングでもないのに鐘が鳴り続けている。
それでも俺は倒れなかった。
打たれた数だけ打ち返した。読みならまだ俺が上だ。雀野の踏み込みの初動、肩の沈み、爪先の向き——全部見えている。見えているのに、体が追いつく前に拳が届く。速い。俺が育てた牙は、もう俺の読みの速度を追い越しかけている。恐ろしくて、腹が立って、それなのにどうしようもなく胸が熱い!
残り十秒。どちらからともなく、俺たちは真正面で足を止めた。ガードも読みも捨てて、ただ拳を交換した。一発、二発、三発。雀野の最後の右が✨白い一線になって俺の視界を裂き、俺の左が雀野の頬を跳ね上げる。観客の声はもう歓声じゃなかった。地鳴りだった。常磐ホールという古い箱が、丸ごと拳の音に共鳴していた。
ゴング。
終わりの鐘は、始まりの鐘と同じ音のはずなのに、まるで違う場所で鳴った気がした。
リングの中央でレフェリーに手首を掴まれて待つ時間は、十ラウンド戦うより長い。隣に立つ雀野の呼吸が、荒いくせに澄んでいた。勝った人間の呼吸だ。俺はそれを、これまで十四回、隣で聞いてきた。
判定は、聞く前から分かっていた。リングアナウンサーが青コーナーの名を読み上げた瞬間、常磐ホールが割れた。雀野燕斗、プロ初勝利。相手は「覚醒屋」犬飼迅。客席のどこかで誰かが笑っている。「また覚醒させたぞ」「本物のかませ犬だ」「あいつと戦えば強くなれる」。称賛と嘲りが同じ温度で、紙吹雪みたいに降ってくる。拾い上げる価値のあるものは、ひとつも落ちてこない。
雀野が、俺の前に立った。腫れた顔をぐしゃぐしゃにして、涙と汗と血を全部いっしょに流しながら、深く、深く頭を下げた。
「……あなたが、俺をボクサーにしてくれた人です」
声はもう、怯えた敬語じゃなかった。短く、鋭く、まっすぐだった。
「逃げるだけだった俺に、逃げ足が牙になるって教えてくれた。……次やるときは、判定なんかじゃなく、届かせます」
「……ああ。次は俺が、お前ごと勝つよ」
俺は笑ってグローブを合わせた。本心だった。こいつのボクシングは美しい。俺が育てたなんて言わない。こいつが自分で化けたんだ。それは誇っていい。誇っていいはずなのに——
バンデージの下で、拳が震えていた。
悔しい。腸が煮えるほど悔しい! 俺は負けたかったんじゃない。勝ちたかった。今夜も、その前も、デビューからずっと、ただの一度も負けたくて負けたことなんてない!! 歓声が全部、砂みたいに口の中で軋んだ。
そのときだった。
ざわめきが、潮が引くみたいに形を変えた。客席の通路を、ひとりの男がゆっくりと歩いてくる。長身。落ちた肩。安物のジャージ。それでも骨格だけが、往年の王者の輪郭を残している。誰かが息を呑んで名前を呟き、その名前が波紋みたいにホール中へ広がっていった。嘘だろ、という声。三連敗の、という声。もう終わった男だ、という声。
男はロープを潜り、勝者でも敗者でもないのに、当たり前みたいにリングの真ん中へ立った。近くで見ると、その顔はもっとひどかった。目の下の隈。こけた頬。グローブを恐れる人間の顔だ。ジムで嫌というほど見てきた、拳に心を折られた人間の顔。それが、かつて世界の頂点に立った男の顔をしていた。
鴉羽宗士。元世界ライト級王者、「不死鴉」。三連敗で引退秒読みと書き立てられた、三十四歳の壊れた王者。
「……覚醒屋」
掠れた声だった。錆びた蝶番みたいな、けれど確かに俺だけに向けられた声。
「次は、俺を蘇らせてくれ」
場内が凍った。ハナが息を呑む音が聞こえた。鴉羽は落ち窪んだ目で俺を見据えて、ひび割れた唇で続けた。
「俺に、王者だった頃の痛みをくれ」
冗談じゃない、と言うべきだった。俺はあんたの再起の道具じゃない、と。なのに俺の目は、もう見てしまっていた。この壊れた男の奥で、まだ死に切れずに燻っている漆黒の火種を。
壊れた王者との契約が、拍手も歓声もないまま、静かに始まろうとしていた。




