第3話 逃げ足が牙になる
コーナーの椅子に沈んだ一分間、常磐ホールの空気は妙にざわついていた。汗と松脂とマットの埃が混じった、この聖地の匂い。三ラウンドまでの採点なら文句なしに俺だ。逃げるだけの新人をロープに追い回し、当て続けた。それなのに客席のざわめきは、俺の優勢を讃える音じゃなかった。あの連中は知ってるんだ。覚醒屋・犬飼迅の試合が、ここから始まるってことを。
「迅。余計なこと、言ったわね」
ハナが俺の口にマウスピースを押し込みながら、低い声で言った。分かってる。前のラウンドの終わり際、俺の口は勝手に吠えた。「逃げるなら、最後まで逃げ切ってみろよ!?」――あの瞬間から、雀野燕斗の足は別人のように動き始めた。
「次は黙って倒しなさい。口を開いたら、承知しないから」
「……ああ」
返事をした自分の声が、自分でも信じられなかった。十四敗。全部この口と、この拳の緩みで負けてきた男の返事だ。
第四ラウンドのゴングが鳴った瞬間、俺は前のラウンドとは違う音を聞いた。
雀野燕斗の足音だ。
さっきまでのあいつの足は、逃げるためだけに床を擦っていた。キュッ、キュッと怯えた鳴き方をして、後ろへ後ろへ、ロープの感触を背中で探すみたいに下がるだけだった。それが今は違う。トン、と一度だけ床を叩いて、止まる。俺の踏み込みの半歩外で、止まる。逃げてるんじゃない。測ってやがる。
前のラウンドの終わり、俺の口は勝手に吠えた。「逃げるなら、最後まで逃げ切ってみろよ!?」と。あの一言が、こいつの中の何かを叩き起こした。恐怖に見開かれたままの目の奥で、灯が点ったのを俺は確かに見た。
だから分かる。今、目の前にいる十九歳は、一分前の十九歳じゃない。
「行くぞ、雀野!!」
俺は踏み込んだ。初速には自信がある。プロ四年目、十八戦四勝十四敗。負け数ばかり積み上がった俺の戦績の中で、この踏み込みの速さだけは誰にも負けたことがない。距離が消える。左のジャブが雀野の顔面へ一直線に伸びる。
当たる。そう思った瞬間、雀野が前に出た。
下がるんじゃない。前に、出た。
俺の拳が届く寸前、そのわずかな一瞬だけ、あいつの体が半歩沈み込んで俺の懐へ滑り込んでくる。ジャブは雀野の耳の上を掠めて空を切り、代わりに俺の脇腹へ、軽い、だが芯のある右が刺さった。
「――ッ!」
軽い。効くパンチじゃない。だが問題はそこじゃない。
当てられた、ということだ。三ラウンドまで一発も打ち返せなかった臆病者が、俺の拳が届く寸前だけ踏み込んで、カウンターを合わせてきた。
俺はすぐに距離を取り直した。心臓が跳ねている。恐怖じゃない。もっとたちの悪いやつだ。歓喜に近い何かが、胸の奥で勝手に沸いている。
見えるんだ、俺には。
雀野の恐怖は消えていない。グローブの奥の目は今も怯えて揺れている。パンチが怖い。倒れるのが怖い。その恐怖のままで、あいつは踏み込んでくる。恐怖を消すんじゃなく、恐怖ごと使ってやがる。怖いから俺の拳を誰よりも見る。怖いから届く瞬間が分かる。怖いから、その一瞬だけ死に物狂いで前に出られる。
逃げ足が、そのまま牙になっていく。
「いいぞ……そうだ、それだよ……!」
口の中で呟いた自分の声に、自分で舌打ちした。何を喜んでるんだ、馬鹿野郎。あれは俺を倒すための牙だぞ。
俺は打った。左、左、右のボディ。雀野は二発目までを紙一重で外し、三発目を肘で受けて跳び退がった。グローブ越しでも分かる。三ラウンドまでは俺の拳が触れるたび、あいつの体は硬直して縮こまっていた。今は違う。当たる寸前に力を抜いて、衝撃を後ろへ流している。怖がりながら、学んでやがる。一発浴びるごとに、俺というボクサーを喰って育っていく。
心拍が耳の奥で鳴っている。呼吸を整えろ。足を止めるな。八オンスのグローブが、ラウンドを重ねるごとに重くなる。それでも俺の踏み込みはまだ死んでいない。まだ完成していない。踏み込む一瞬の判断が遅れれば、あいつはただの逃げ腰の新人に戻る。実際、このラウンドの中盤、俺の右ストレートは二度、雀野のガードごと顔面を揺らした。膝が泳ぐ。ロープまで飛ばす。会場がどよめく。マットを踏む俺の足裏に、雀野の後退の振動が伝わってくる。
優勢なのは、まだ俺だ。
七年前、虎島豪牙の拳を浴びた十四歳の俺は、倒れながら思った。なんて綺麗な拳だ、と。ああいう一発を、俺も打ちたい。誰かを黙らせる、文句のつけようのない一発を。その一発だけを追いかけて四年間リングに上がって、俺はまだ一度も、それを最後まで振り抜けたことがない。
「押し切れ、迅!! 考えるな、押し切れ!!」
青コーナーからハナの声が飛ぶ。分かってる。分かってるんだよ、ハナ。考えるな、感じるな、見るな。ただの新人として殴り倒せ。それができれば俺は十八戦十四勝の男だ。
ロープに詰めた。雀野の顎が上がっている。ガードの右側、こめかみの前に隙間がある。左フックを差し込めば終わる。倒せる。今度こそ、倒せる!
拳を振った。
その途中で、見えてしまった。
雀野の重心が、まだ半分だけ後ろに残っている。恐怖で腰が引けてるんじゃない。引けた腰のまま打つ癖が抜けてないんだ。あれが直ったら、こいつの踏み込みは今の倍速くなる。カウンターは倍重くなる。こいつの一番強くなれる場所は、あそこだ――。
「腰だ!! てめえ、腰が半分逃げてんだよ!! 踏み込むなら全部持ってこい!!」
口が、勝手に吠えた。
そして俺の左フックは、こめかみの寸前で、ふっと力を失った。
グローブが雀野の頬を撫でるように滑る。倒すための拳が、教えるための拳に化ける。この感触を俺は十四回知っている。十四回、この緩みの先で負けてきた。
「またやってる!! また育てる気か、馬鹿犬!!」
ハナの絶叫がホールに響いた。観客席のどこかで、嘲るような笑いが上がる。「出たぞ、覚醒屋!」「今日も飼育の時間だ!」――うるせえ。うるせえんだよ! 俺は勝ちたいんだ! 誰よりも勝ちたくてこのリングに上がってるんだ! なのにどうして、俺の拳は俺を裏切る!?
雀野の目が、変わった。
怯えて揺れていた瞳孔が、すっと絞られる。俺の言葉を、あいつは恐怖の真ん中で聞いていた。そして次の瞬間、雀野の後ろ足が床を掴んだ。半分逃げていた腰が、初めて全部、前に乗った。
「……ありがとう、ございます」
消え入りそうな敬語のくせに、声の芯だけが鋭かった。ロープ際に詰められたまま、殴られた頬を腫らしたまま、あいつは俺に頭を下げやがった。客席の最前列で誰かが吹き出す。「教習所かよ!」――笑いが波になって広がっていく。リングの上で俺だけが、笑えなかった。
残り三十秒。俺は打ち続けた。優勢は保っている。手数も、当てた数も、まだ俺が上だ。だが打つたびに分かる。雀野の外し方が一発ごとに鋭くなる。俺のパンチを浴びながら、浴びたぶんだけ、こいつは速くなっていく。俺が殴れば殴るほど、俺を倒す牙が研がれていく。この矛盾を、俺は殴りながら誰より正確に感じ取ってしまう。
ラウンド終了十秒前。俺の右ストレートが雀野の眉間へ伸びた、その寸前だった。
トン、と。
あの足音が鳴って、雀野の全体重が前に出た。逃げ腰の消えた、完全な踏み込み。俺の右の内側を、あいつの右が一直線に、✨と一瞬だけ煌めいて擦り抜ける。
頬に、熱。
遅れて、切れた皮膚から血が伝った。
ゴングが鳴った。第四ラウンド終了。俺はコーナーに戻りながら、グローブの親指で頬を拭った。バンデージに赤が滲む。この試合で、初めて俺が切られた。相手の拳が俺に届いた。
「見たかよ、ハナ」
「見たくなかったわよ、あんな綺麗なカウンター!!」
ハナがタオルを俺の顔に押し付ける。手が震えていた。怒りと、悔しさと、それから多分、俺と同じものを見てしまった震えだ。あれはもう、逃げるだけの新人の拳じゃない。俺の拳が届く寸前だけ踏み込む――燕が翻るみたいな、一閃のカウンターだ。
椅子に沈み込むと、対角のコーナーで雀野がセコンドの声も聞かずに俺を見ていた。恐怖はまだ目の奥にある。あるままで、あいつは俺だけを見ている。次のラウンドで、こいつは完成する。俺が育てた牙が、俺の喉元に届く場所まで来る。
それでも。
俺は膝の上で拳を握った。バンデージの下で、爪が食い込むほど固く。倒れても立つ。育てても勝つ。意地でも、勝ちたい。十四回裏切られても、この拳がまだ俺の拳である限り!
次のゴングが、決着の鐘だ。




