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第2話 臆病者のジャブ

顎の奥で、まだ牧瀬の右が鳴っている気がした。

 三週間前、俺は常磐ホールで新人王候補・牧瀬隼を二度マットに這わせ、あと一発というところで拳を緩め、覚醒した牧瀬の逆転KOに沈んだ。18戦4勝14敗。数字はまた負けの側に一つ積まれた。それでも俺の腹の底は、冷めるどころか前より熱く煮えている。負けず嫌いってのは治らない病気だ。負けるたび、勝ちたいという気持ちだけが骨の髄まで濃くなっていく。

 「次の相手、決まったよ」

 志摩ジムの事務室で、ハナが資料の束を机に放った。元女子ボクサーの目が、俺を上から下まで診るように見る。

 「雀野燕斗、十九歳。三戦三勝、全部判定。倒したことは一度もない。プロモーターいわく『倒し切る力はないが、負けない新人』。……で、あんたにお呼びがかかった。意味、分かるよね」

 「俺が試験台ってことだろ。いつも通りだ」

 「違う。あんたが勝てる相手ってこと!!」ハナは机を叩いた。「映像、百回見た。雀野は強打が怖くて下がるだけの子。足は速いけど、それだけ。あんたの踏み込みなら三ラウンドで終わる。だから今回だけは約束して。リングで口を開くな。一言も喋るな。黙って、倒し切れ」

 「……善処する」

 「善処じゃない、約束!!」

 奥のベンチで、志摩会長が新聞から顔も上げずに言った。

 「拳は嘘をつかん」

 それだけだった。けど、その一言が一番重かった。

 試合当日。常磐ホールの控室は、蛍光灯が一本切れかけで、明滅するたびに俺の影が揺れた。バンデージを巻く。指の付け根、拳の山、手首。ハナの巻き方は世界一だと思っている。硬すぎず、緩すぎず、それでいて拳の芯が一本通る。

 「ねえ、迅」巻き終わりのテープを噛み切って、ハナが言った。「あんたの踏み込みも、読みも、打たれ強さも、全部本物なんだよ。本物なんだから……今日は、自分のために使って」

 「おう」

 短く返した。それ以上は何も言われなかった。

 リングに上がると、汗と松脂の匂いがした。平日興行、客の入りは六割。対角のコーナーで、雀野燕斗が縮こまっていた。細い。ライト級の体をした鳥みたいな新人だ。目が合った瞬間、あからさまに逸らされた。グローブを合わせる儀礼のタッチすら、腰が引けていた。触れたグローブは軽くて、冷たかった。

 ——怖いんだな、お前。

 ゴングが鳴った。腹の底で残響が揺れる。この音を聞くたび、心臓が一拍だけ大きく跳ねる。何度目のリングでも、これだけは変わらない。

 案の定、雀野は下がった。俺がジャブを一つ見せただけで、ロープまで半分の距離を跳ぶように退く。逃げ方に癖があった。左足から下がる。下がる前に、必ず一瞬だけ顎を引く。分かりやすい予備動作だ。三十秒で読み切った。

 俺は踏み込んだ。初速なら誰にも負けない。雀野の顎が引かれる、その瞬間に合わせて距離を潰す。左ボディ。手応え。雀野の口からくぐもった息が漏れ、細い体がロープに背中から吸い込まれた。

 場内がどよめく。行ける。畳める。

 ロープを背負った雀野は、ガードの隙間からこっちを見ていた。恐怖で限界まで見開かれた目。だがその目は、閉じていなかった。殴られながら、俺の拳の軌道を最後まで見ている。

 ——あ。

 見えてしまった。こいつの目は、恐怖で閉じない目だ。怖がりのくせに、怖いものから目を逸らせない。あの逃げ足と、この目。この二つが噛み合ったら、こいつは——。

 やめろ。考えるな。俺は頭を振って、右を叩き込んだ。ガードの上からでも骨まで響かせる。ゴングに救われた雀野が、よろけながらコーナーへ帰っていく。

 二ラウンド。俺は追い方を変えて、逃げ癖の全部を確かめた。右へ回る時は必ず二歩。ロープ際では体を左に倒す。息が上がると顎の引きが深くなる。読める。全部読める。俺の中のどこかが、勝手にそれを帳面に書きつけていく。倒すための帳面か、それとも——考えるのを、俺はまた振り払った。

 ロープ際で一度だけ、雀野が苦し紛れの右を振ってきた。伸び切った、怯えた拳。俺は首を振るだけで外し、返しの左を脇腹に沈めた。骨と肉の奥で、湿った音がする。雀野の顔が歪む。それでも、目は開いたままだった。汗が飛び、照明が白く滲む。俺の呼吸はまだ深く、心拍は落ち着いている。どこからどう見ても、リングの主導権は全部俺のものだった。

 プロモーター席の男たちが、つまらなそうに腕を組んでいるのが見えた。分かってるよ。あんたらが見たいのは俺の勝ちじゃない。雀野が化けるかどうか、それだけだ。俺はその期待ごと殴り潰すつもりで、拳を固め直した。

 会場のどこかから野次が飛んだ。

 「覚醒屋ぁ! 今日は誰を育てるんだ!?」

 笑い声が波になって広がる。三週間前、マットに沈んだ俺の耳へ突き刺さった「また覚醒させたぞ!?」の歓声。あれと同じ種類の、期待の混じったざわめきだった。コーナーでハナが青筋を立てているのが見えた。うるせえ。今日は違う。今日こそ違うんだよ!!

 三ラウンド。俺は勝負に出た。

 ジャブを囮に、逃げ道を先回りする。雀野が左足から下がる、その左足の着地点に、俺の踏み込みが先に届いた。逃げ場が消える。雀野の背中がコーナーポストに触れた。ガードの上から右、左、返しの左ボディ。雀野の膝が揺れた。マットを擦る足音が乱れる。

 終わる。あと一発だ。ガードが下がって、顎は空いてる。俺の右は、そこに届く。

 届くはずだった。

 なのに——喉が、勝手に開いた。

 「お前、なんで下がってから打たねえんだよ!?」

 殴りながら、俺の口は吠えていた。止まらなかった。

 「その逃げ足は、逃げるためだけのもんじゃねえだろ!! お前が下がった分だけ、相手の拳は伸び切って死ぬ!! 伸び切った拳は隙そのものだ!! 怖くて目を閉じられねえなら、その目で拳の根元まで見ろ!! 逃げるなら——最後まで逃げ切ってみろよ!?」

 言い切った瞬間、右の拳から力が抜けた。

 いつもの、あれだ。決めの拳が、寸前で緩む。狙いは顎から一寸ずれて、グローブの上を虚しく撫でた。自分の体のはずなのに、右腕だけ他人の持ち物みたいだった。バンデージの下で、俺は自分の掌に爪を立てる。ふざけるな。俺は勝ちたいんだ。今日こそ、黙って勝ちたかったんだ!!

 コーナーから、ハナの絶叫が飛んできた。

 「馬鹿犬!! 何を教えてるの!! 約束!!」

 分かってる。分かってるんだよ!!

 そして俺は、感じた。拳の先で、確かに感じてしまった。

 雀野の足が、変わった。

 今までの逃げ足は、恐怖に押されて転がるだけの後退だった。それが今、俺のジャブに合わせて、測ったように半歩だけ下がった。俺の拳が伸び切る、ちょうどその位置。あと五センチで届かない、絶妙の外側。恐怖に見開かれた目はそのままだ。なのに、足だけが別人だった。恐怖が消えたんじゃない。恐怖のまま、機能し始めた。

 「っ——!」

 俺は追った。踏み込みの初速で二の足を潰しにいく。だが雀野はもう一歩、同じ精度で下がる。囮のジャブにも、本命の右にも、寸分同じ半歩。誰に教わったわけでもない。たった今、俺が吠えた言葉が、こいつの中で足に翻訳されていく。殴っている俺が、誰よりも正確にそれを感じ取ってしまう。この体質の一番残酷なところだ。相手が強くなっていく音が、拳越しに聞こえる。

 ゴング。三ラウンド終了。残響が、さっきより長く聞こえた。

 コーナーに戻ると、ハナが椅子を叩きつけるように置いた。

 「見なさいよ、あの子の足!! さっきまでの逃げ腰と別物!! また育てる気か、馬鹿犬!!」

 「わざとじゃねえ」

 「わざとじゃないのが一番タチ悪いのよ!!」

 言い捨てたハナの、タオルを握る手が震えていた。怒りだけじゃない。この震えを、俺は牧瀬戦の後にも見た。俺が散るたび、こいつは俺より先に悔しがる。だからこそ、この手にもう一度タオルを握り潰させるわけにはいかないんだ。

 顔を拭かれながら、俺は対角コーナーを見た。雀野は椅子にも座らず、立ったまま自分の足元を見下ろしていた。まだ恐怖の張り付いた顔で、何度も、何度も、小さく半歩の後退を繰り返している。確かめている。たった今知ったばかりの、自分自身を。

 ……なあ、雀野。お前、気付いちまったか。

 お前の弱点は、その逃げ足だ。そして、お前の一番強くなれる場所も、その逃げ足だ。俺にはそれが、リングの照明より眩しく見えちまう。見えちまうから、口が吠える。吠えるから、拳が緩む。分かっていて、止められない。

 俺は勝つ。今日こそ勝つ。マウスピースを噛み直して、俺は立ち上がった。セコンドアウトの声。ゴング前の、一番静かな一秒。だが体の芯の、意地とは別の場所が、静かに断言していやがった。

 ——次のラウンド、こいつは化ける。

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