第1話 覚醒屋、また沈む
ゴングの音は、いつだって俺の心臓より一拍速い。
常磐ホール。染みついた汗とマットの匂い。天井の照明がリングだけを四角く切り取って、その光の底に俺と、新人王候補・牧瀬隼が立っていた。三ラウンド目。客席のざわめきが波みたいに寄せては引く。グローブの重さが腕に馴染んで、俺の呼吸はまだ乱れちゃいない。むしろ、ラウンドを重ねるほど研ぎ澄まされていく。
牧瀬のジャブが伸びる。速い。けど、見える。左肩がほんの一瞬、先に動く。俺は半歩外して内側へ踏み込んだ。
プロ四年目、十八戦四勝十四敗。数字だけ見りゃ、ただの負け犬だ。プロモーター連中は俺を「有望株の試金石」と呼ぶ。売り出し中の若手にあてがう、都合のいいかませ犬。だがな、踏み込みの初速と、相手の起こりを読む目と、何発浴びても立ってる耐久——それだけなら、俺はこの階級の誰にも負けねえ自信がある。
右をガードの隙間へ突き刺す。骨まで届く手応え! 牧瀬の膝が揺れて、追った左ボディで体がくの字に折れる。返しの右。新人王候補の体がロープへ流れ、そのまま尻からマットに落ちた。
一度目のダウン。
客席の波がざっと引いて、次の瞬間、どよめきが常磐ホールの古い天井を突き上げた。この瞬間の静寂と爆発。何度負けても、この空気だけは体が覚えてる。
「よし!! そのまま黙って終わらせろ、馬鹿犬!! 口を開くなよ!!」
青コーナーからセコンドのハナの声が飛んでくる。元ボクサーの喉から出る、遠慮ゼロの直球実況。分かってる。分かってるんだよ、そんなこと。
牧瀬はカウント八で立った。目にまだ光がある。いい根性だ。ゴングが三ラウンドの終わりを告げ、俺はコーナーの丸椅子に沈んだ。
「いいか、迅。次で終わらせろ。倒れるまで打て。それだけ。実況も解説もアドバイスも、ぜーんぶ要らない!! あんたの仕事は殴ることだけ!!」
ハナが水を口に流し込みながら、俺の目を真正面から睨む。マウスピースを噛み直して、俺は頷いた。今夜は大丈夫だ。今夜こそ、黙って勝つ。
四ラウンド。俺は休ませなかった。ジャブで視界を潰し、ロープへ追い込み、脇腹へ二発。牧瀬のガードが下がった瞬間、右のストレートをこめかみへ通す。
二度目のダウン!
会場がどっと沸いた。番狂わせの匂いに、客ってやつは正直だ。有望株の牧瀬隼が、かませ役の俺に二度も膝をついている。レフェリーのカウントが進む。四、五、六——牧瀬がロープを掴んで、ずるずると立ち上がる。膝は生まれたての子鹿だ。
あと一発。あと一発で終わる。
俺は踏み込んだ。拳の中でバンデージが軋む。心臓が跳ねる。勝てる。今夜こそ勝てる。積み上がった十四個の黒星も、かませ犬の値札も、全部この右で剥がして——
その時、見えちまった。
牧瀬の顎の下、がら空きの急所。違う、そこじゃない。俺の目が吸い寄せられたのは、奴が打たれる瞬間に固く閉じる瞼と、恐怖で棒立ちになりながら無意識に半歩だけ外へ逃げようとする右足だった。ああ——光ってやがる。そこだけ、まぶしいくらいに。この足が恐怖ごと前へ出る使い方を覚えたら、こいつの右は今の三倍速くなる。
やめろ。言うな。黙って打て! 楽に勝っていいんだ、今夜くらい!
「——目ェ開けろ、牧瀬ぇ!!」
口が、勝手に吠えた。
「打たれる瞬間に目を閉じるな!! 閉じなきゃ俺の起こりは見えてんだよ!! その右足、逃げるためじゃなく踏み込むために使え!! お前の右は、俺なんかよりずっと速くなる!!」
言い終わる前に、俺の右は牧瀬の顎へ届いていた。届いて——寸前で、緩んだ。
拳一個ぶんの、致命的な減速。全身は倒せと叫んでるのに、拳の芯だけがすっと力を抜く。倒し切るはずの一発が、ただ相手を起こすノックの音に変わる。
牧瀬の目が、開いた。
閉じられていた瞼の奥で、何かに火が点く音を、俺は確かに聞いた気がした。
「……見える」
牧瀬が呟く。さっきまで恐怖に濁っていた瞳が、俺の肩口だけを見据えている。右足が、マットを噛んだ。
五ラウンド。世界がひっくり返った。
俺のジャブに、牧瀬は目を開けたまま合わせてきた。半歩の踏み込み。さっきまで逃げるためだけに使われていた右足が、恐怖を燃料にして前へ出る。俺の右の起こりに、カウンターの右が✨真っ直ぐに割り込んできた。
脳が揺れる。マットの匂いが鼻先まで迫って、俺は膝で堪えた。
「馬鹿犬!! だから言ったろ!! また育てる気か、馬鹿犬!!」
ハナの絶叫が鼓膜を裂く。違う。育てる気なんかない。勝ちたいんだ。俺は誰より勝ちたいんだよ!!
立って打ち返す。牧瀬も返してくる。もう別人だった。二度倒した相手のはずなのに、拳を交わすたびに速くなる。読める。全部読めるのに、読んだ先へ奴の成長が追いついてくる! 俺が吠えた通りに、いや、吠えた以上の速度で!
それでも退かない。退けるかよ。ボディを打ち抜けば牧瀬の息が詰まり、俺の左が頬を弾けば客席が悲鳴みたいに沸く。汗が目に染みる。グローブが鉛みたいに重くなっていく。それでも腕は上がる。心臓が肋骨の内側を殴り続けて、殴り合いの中でだけ、俺は生きてる実感がある。だからこそ、勝ちたいんだ。この場所で。
ラウンド終了のゴング。丸椅子の上で、ハナが氷嚢を俺の首筋へ押し当てながら低く言った。
「……まだ点数はあんたが上。次、余計な口を利いたら承知しないから」
「おう」
返事だけは、いつも百点なんだよな、俺は。
六ラウンド。牧瀬の右が、俺の読みの一枚上を通った。
天井の照明が視界いっぱいに広がって、遅れて背中にマットの衝撃。音が遠い。レフェリーの腕が振られるのがスローモーションに見える。
立て。立つんだよ、俺の足!
肘をつく。膝を起こす。ロープに指がかかる。口の中に鉄の味が広がって、視界の隅でハナが身を乗り出しているのが見えた。カウントの声だけが、水の底みたいに歪んで響く。七、八——まだだ。まだ終わってない。だが世界が斜めに傾いで、足の裏がマットを掴み切る前に——十。
試合終了の鐘が、やけに澄んだ音で鳴った。
「勝者、KO、牧瀬隼ァ!!」
アナウンスと同時に、会場が爆発した。
「すげえ、二度のダウンからKOだ!!」「化けたぞ牧瀬!!」「おい見たか、あいつまた覚醒させたぞ!?」「さすが覚醒屋!! 今日もいい仕事したなぁ!!」
笑い混じりの歓声が、マットに転がる俺の耳へ突き刺さってくる。覚醒屋。相手を化けさせて散る男。畏怖と嘲りが半分ずつ混じった、俺の二つ名。
ふざけんな。俺は、勝ちに来たんだ。今夜も、その前も、ずっと。
コーナーでハナがタオルを握り潰していた。白いタオルが絞られた雑巾みたいに歪んで、握る手が小刻みに震えてる。俺とのスパーで覚醒して、東洋王者候補まで駆け上がって、目をやられて引退した元ボクサー。誰よりも俺の勝ちを願ってる奴が、誰よりも悔しそうな顔で俺を見下ろしていた。
「……立てるか、馬鹿犬」
「おう。……悪い」
「謝るな。謝るくらいなら勝て!!」
控室。腫れた拳からバンデージを解いていると、志摩ジムの会長、志摩鉄雄がドアの前に立った。老いた目が、俺の顔を静かに見る。
「会長。俺は今夜、勝てた。勝てたんすよ。二度倒した。あと一発だった。なのに——」
「拳は嘘をつかん」
それだけ言って、爺さんは背を向けた。慰めでも説教でもない。ただの事実だ。俺の拳が最後に選んだのは、倒すことじゃなく、起こすことだった。その事実だけが、腫れた顔より深く痛い。
七年前、あの人に一発で倒されたあの夜から、俺はこの痛みごとボクシングに惚れてる。だからタチが悪いんだ。バンデージの下で、俺は拳を握り潰した。爪が掌に食い込む。この悔しさだけは、誰にも覚醒させられちゃいない。俺のもんだ。
廊下に出ると、薄暗い蛍光灯の下に、細い影が立っていた。
まだ少年の輪郭を残した体。だぼついたジャージ。伏し目がちの、今にも消えそうな声。
「……あの。犬飼、迅さん。……次の、対戦相手に決まった者です。雀野、燕斗といいます」
無名の新人。今夜の試合を見ていたのか、その目は怯えて揺れて——揺れながら、なぜか俺から逸れなかった。
「……俺、強い人が、怖いんです。逃げてばかりで。でも、あなたの試合を見ていたら、その……」
言葉は続かなかった。代わりに、深々と頭を下げる。
勘弁してくれよ、と思った。頼むから、光って見えるなよ、お前は。
俯いたその細い肩の奥で、まだ誰も知らない臆病な燕が、次のゴングを待って翼を畳んでいた。




