巡る季節と共に3
また少し季節が過ぎ、春が終わり風が夏を感じさせる日の夕暮れ。
アリサが使用人達を手伝い庭で干していた布を取り込んでいた時、ルカが男爵家の門を潜り抜け、こちらへやってくるのが見えた。
あの日アリサが涙を見せてからも、ルカは変わらず穏やかに交流を深めようと、何度も男爵邸に足を運んでくれていた。
ルカはアリサが言ったどんな小さなことでもよく覚えてくれていて、しょっちゅうプレゼントを持参しては「好きな方に振り向いてもらうためですから」と、赤面ものの科白を穏やかな顔で言ってくるのである。
けれど、こんなふうにアポなしで来るのは初めてのことだった。
「ルカさん? どうしたんですか?」
きょとんとするアリサにルカが照れたように笑いながら、持っていた紙袋を差し出す。
「こんにちは、いや、もうこんばんは、ですね。突然すみません。市場で貴女が好きだと言っていたお菓子を見つけまして……その……すぐに渡したくて……」
「まあ、ありがとうございます」
紙袋は確かに先日の茶会の時にアリサが好きだと言った菓子の店のものだが、日持ちのする焼き菓子であるし、もうすぐ夜だと言うのに、どうしてわざわざ今日持ってくる必要があったのか? とアリサは内心で首を傾げた。
すると笑っていたルカが、どこか決意のある表情になる。
「アリサさん、少しだけ……話してもいいですか」
ただならぬ雰囲気のルカにアリサは頷く。
庭の隅、夕陽が差し込む花壇の前で二人は肩を並べた。
湿気を帯びた生温い風が草花を揺らしサラサラと音が流れる。
ルカは暫く言葉を探すように沈黙した。
その沈黙が不思議と嫌ではなく、アリサは黙って彼を見つめる。
ミランは沈黙を嫌った。
アリサが言葉を探していると、すぐにエリカが口を挟み、ミランはそれに合わせて話題を変えてしまう。
いつもアリサの言葉は音にならずに消えてゆき、ミランには届かなかった。
でもルカはいつだってアリサが話すまで待ってくれる。
だから今度はアリサが彼を待つ番だと思った。
そのまま、どれくらい、そうしていたのか。
意を決したルカがゆっくりと口を開いた。
「あの日もこんな夕暮れでしたね。貴女が泣いていた日……私は何もできず、ただ側にいることしかできなかった。でも、あの日、貴女は私に気持ちを吐露してくれて、いてくれてよかったと言ってくれた。貴女は誰かに無理に寄りかかる人じゃない。自分の足で立とうとする人です。それは解っています。けれどそんな貴女が私に弱い部分を見せてくれて、とても嬉しかったんです。だからアリサさん、……もし、貴女がもう一度誰かを信じてみようと思える日が来た時に、隣に立つのは私でありたい……どうか私を選んでほしい……それを伝えたくて、来てしまいました」
アリサは息を呑む。
ミランはアリサが泣いた時、さも迷惑のように扱った。
そうして泣くのも気持ちを伝えるのも我慢していくうちに心が削れていったのだ。
彼との日々が決して全部悪かったわけじゃない。
でもアリサが見てもらえなかった部分を、ルカは丁寧に拾いあげてくれて嬉しいと言ってくれた。
ルカは何もできないと言っていたけれど、あの日、理由も聞かず、責めず、否定もせず、ただ寄り添ってくれたことが、どんなにありがたかったか。
アリサは胸が熱くなるのを感じた。
「……ルカさん」
声が震えて、頬に熱い雫が零れる。
けれど、この涙はあの時とは違うものだ。
「そんなふうに言ってもらえるなんて思っていませんでした。あの日、貴方が一緒にいてくれて私がどれだけ救われたか……。私、ルカさんといると削れてしまった心が満たされていくような気持ちになるんです」
ふわりと眦を下げれば、ルカは驚いたように瞬きをし、すぐに柔らかく微笑む。
「今はその気持ちが聞けただけで十分です。これからもアリサさんの心が満たされるように、貴女の歩く速度で私も一緒に歩いていければそれで……」
すっかり日の暮れた庭の片隅で、二人は互いに見つめ合う。
アリサはこれまで漠然としていたルカとの未来を初めて意識した。
◇◇◇
初夏の朝、満開の紫陽花が咲き乱れる淡い色を見せていた。
アリサはその花を眺めながら物思いに耽っていた。
過去を過去と割り切って、縛られるのは終わりにしよう。
そう思えるようになったのはルカと出会えたからだ。
彼と話す時間はいつも静かで穏やかだった。
無理に笑わなくてもいい、言葉を探さなくてもいい、理由だって考えなくていい。
ルカと過ごすうちにアリサの心は彼に占められ、反比例するようにミランのことが消えていった。
これは、もう認めるしかない。
自分はルカが好きなのだ、と。
自覚したら火照ってしまいそうになりアリサはパタパタと顔を手で仰ぐ。
今日はルカがやってくる日だ。
いそいそとお茶の準備をする姪の姿を、こっそりドアの隙間から覗いた叔父が目を細める姿を、これまた後ろから使用人がほっこりした顔で見守っている。
そこへ玄関のベルが鳴り、脱兎のごとく執務室へ去ってゆく当主をクスクスと笑いながら見送ると、顔を輝かせたアリサが部屋から飛び出してくる。
氷菓を手土産に男爵家へやってきたルカは少し汗ばみながらも、出迎えたアリサにニコリと微笑んだ。
「こんにちは、アリサさん。今日は少し暑いですね」
「そうですね、丘を上がってくるのは大変だったんじゃありませんか?」
「いえ、それは全然。アリサさんに会えると思えばなんてことありませんよ」
笑みを深めたルカだったが、その額に汗が浮かんでいるのを見つけ、アリサはそっと冷えたタオルを当てる。
手ずから汗を拭ってもらったことにピシリッと固まってしまったルカだったが、アリサの手を取ると真っすぐに彼女を見つめた。
「アリサさん……」
「ル、ルカさん?」
驚くアリサからルカは視線を逸らさない。
「私はアリサさんを愛しています」
突然のルカの告白に、アリサは頬が熱くなるのを感じた。
ルカには弱くて情けない自分を見せてきたのに、それでも愛していると明確に言葉で伝えてくれた彼を、アリサも愛していると認めざるを得ない。
結局、認めてしまえば至極簡単なことなのだ。
思わずクスリと笑ってしまったアリサに、ルカがハッして手を放す。
「すみません、いきなりこんなことを言われても困ってしまいますよね。急がなくていいと言ったのに、触れられたら思わず本音が零れてしまいました」
謝罪して立ち去ろうとするルカの袖を慌てて捕まえる。
「……私ね、ずっと怖かったんです。誰かを信じても、また傷つくんじゃないかって。でもルカさんといると、怖さよりも安心の方が大きくなって……」
アリサはそこまで言うと、一旦大きく深呼吸をする。
「私もルカさんが好きです。貴方と一緒に未来を歩いて行きたい。ゆっくりでいいから、ちゃんと自分の足で。だから私と結婚してくれますか?」
振り返ったルカが目を瞠ったのも一瞬、やがて蕩けるような甘い笑顔になる。
「嬉しい! アリサさん、一生かけて幸せにします。私はいつまでもどこまでも貴女と歩いて行きますね……プロポーズを先に言われてしまうような情けない私ですが、どうか永遠に一緒にいてください」
彼の袖を持ったアリサの腕を引き寄せ、ルカが抱きしめる。
抱き合う二人を、鮮やかに色づき始めた庭の紫陽花が祝福しているように揺れていた。




