次へのステップ
アリサはゆっくりと自宅の門をくぐった。
手入れは行き届いているが華美ではない庭園と古い屋敷は、かつての栄華を知る者からすれば、慎ましいと感じるかもしれない。
けれどアリサは、この家を維持するためにどれだけの苦労がかかったのかを知っている。
実はアリサは男爵家の娘であった。
とはいえ災害で借金を抱えた両親が数年前に相次いで亡くなり、爵位を叔父に譲渡したので今は令嬢ではなく、ただの居候の身分である。
借金を返済できる目途が立たず連帯責任を回避するため、叔父はアリサを養子にはしなかったが、ずっと家にいていいと言ってくれている優しい人だ。
叔父の奮闘があって男爵家は何とか持ち直したが苦しい財政は変わらないため、居候のアリサは少しでも家計を助けようと商会の事務員の仕事を始め、その時に冒険者だったミランと知り合ったのだ。
最初は臆面もなく「可愛いね」と声をかけられ、男性に不慣れなアリサは苦手に感じた。
けれど会う度に褒められ、優しくされ、気づけばミランのことが好きになっていた。
付き合う時に、自分が元男爵家の娘で今は叔父の家に居候になっていることを、きちんと伝えたが元貴族だと知っても態度が変わらなかったのは有難かった。
そんな彼との未来を信じて、この家を出たはずなのに、再び舞い戻ってきてしまったアリサを叔父は受け入れてくれるだろうか。
不安になりつつも、他に帰る場所がないアリサは緊張しながら玄関をノックする。
すると扉を開けた使用人が目を見開いた。
「え? お嬢様!? 本日からミラン様と一緒に住むはずでは?」
「ちょっと予定が変更になってしまって……」
誤魔化すように微笑んだアリサだったが、使用人の後ろから現れた人物を見て笑顔が固まる。
「叔父様……」
続く言葉が見つからないアリサがギュッと唇を噛んだ時、低く落ち着いた声が響いた。
「おかえり、アリサ」
いつも通りの叔父の声は、アリサを安堵させた。
驚きも蔑みもしない、昨日と同じ「おかえり」がこんなに嬉しいものだなんて知らなかった。
叔父はアリサの持っていた荷物を受け取ると、使用人に部屋まで運ぶように言いつけ、彼女と一緒に執務室へと向かう。
書類が重なった部屋へ入るとソファの対面に座り、じっとアリサを見つめて徐に口を開いた。
「それで?」
叔父はいつでも簡潔だ。
無口だから誤解されやすく、姪の借金を肩代わりするため男爵位を継いだ時だって周囲に説明をしないから、乗っ取りだとか陰口を言われたが言い訳さえしなかった。
それはたぶん、アリサが白い目で見られないように自分が泥をかぶったのだ。
アリサが元男爵令嬢だと知ったミランも、その辺を誤解していたため、ちゃんと説明したのだが信じてもらえなかった。
ミランの中では何故か叔父に虐げられている姪という構図になっているらしい。
そんなことはないと何度説明しても「わかってる」と言いつつ、全く理解していないようだった。
同棲初日に帰ってきた姪に「おかえり」が言える優しい人だと言うのに。
可哀想だから、なんて口先だけのミラン達とは大違いだとアリサは改めて思い、叔父に視線を返した。
「別れました」
静かに告げると、叔父は一瞬だけ目を見開いたが驚きも否定もなく、ただ事実として受け止めるように小さく頷いた。
「理由は聞く必要があるか?」
「いえ……大丈夫です」
この先も叔父の所で居候になる身としては、理由を話した方がいいのかもしれないが、今はまだ言葉にすると崩れそうになる。
そんなアリサの様子を察した優しい叔父は、やっぱりどこまでもアリサに優しかった。
「なら、いい。よく戻った」
踏み込んでこない優しさと、当たり前のように居場所をくれる温かさに、アリサの視界が揺れる。
慌てて顔を伏せ瞬きで誤魔化す。
「すみません……」
「謝ることはない。眼球が乾いたら涙が出るのは自然現象だからな」
慰め方が独特すぎて、アリサは思わず少し笑ってしまう。
勿論、叔父なりの精一杯の気遣いだということは長年の付き合いなのでお見通しだ。
「叔父様は本当に優しいですね」
「私を優しいなどと言うのはアリサだけだ」
フイッと視線を逸らす叔父にアリサはクスリと笑う。
肩の力が抜けて、前向きな気持ちが湧いてくる。
「叔父様。私、婚約のお話をお受けしようと思います」
「! しかし……」
珍しく動揺する叔父に、アリサが再び笑う。
アリサが働くと言い出した時は、仏頂面をしつつもギルドを通して商会の斡旋をしてくれたし、ミランと付き合ったと聞いた時は祝福しつつも数日隈を作っていたし、同棲すると報告した時は苦しい家計にも関わらず恐縮するほどのお金を渡してくれた。
自分で働いて貯めた資金があったため、さすがにお金は返したが、叔父はアリサのことを本当の娘のように大事に想ってくれているのだ。
無口なためアリサや男爵家の使用人以外にはあまり伝わっていないのが玉に瑕だが。
そんな叔父のことだ。ミランと幼馴染の関係だって調べて知っていたはずだ。
アリサがミランを好きだったから反対こそしなかったが、実は同棲する前に他の婚約の話をされたことがある。
たぶんミランから乗り換えてほしかったのだろうが、アリサが拒否したため無理強いはしてこなかった。
とはいえ、溺愛している姪に嫌がられる可能性がある話をするくらい、ミランのことは良く思っていなかったのだろう。
優しい叔父を見て、その時のことを思い出したアリサは、この鬱々とした想いを断ち切るため、そして叔父を安心させるため、あの時断った婚約の話を持ち出したのだった。
「確か子爵家の三男だった方で、今は平民になられて新興商会を手掛けているのでしたよね? あぁ、でも一度断ってしまったから、既に釣書は取り下げられてしまいましたか?」
「いや、相手はアリサが他の人と結婚するまでは釣書は下げないそうだ」
「まあ……」
アリサは驚きを隠せない。
叔父が立て直したとはいえ、まだまだ落ちぶれている男爵家だ。
しかも令嬢でもない居候の身分のアリサを、そこまで望んでいる相手がいることが信じられなかった。
そんなアリサの心情を察したのか叔父が僅かに口元を緩める。
「アリサのことを見掛けたことがあるらしい」
アリサは記憶を探るが、そんな人物に心当たりはなかった。
首を傾げるアリサに叔父は軽く手を振る。
「無理をする必要はないが、アリサが会いたいのであれば連絡を入れる。今日はもう休みなさい」
「はい……叔父様、ありがとうございます」
叔父が頷いたのを見届けてアリサはそのまま執務室を後にし自室へ戻ると、使用人が整えてくれていたベッドへ横になった。
ずっと我慢するだけのミランとの未来は終わりにした。
けれど、アリサの人生はまだまだ続く。
幼馴染を優先した恋人と別れて泣き寝入り、なんてアリサの性根には会わなかった。
好きだった人と別れたというだけで、全部失ったわけではないのだから。
むしろこれで……。
「……よかったんだ……よね」
ぽつりと零れた声は、やけに部屋に響いて、恋人と別れた当日に他の人との婚約を決めた自分が何だか可笑しくて、でも婚約相手に申し訳ない気持ちも働いて、ごちゃまぜになった心に蓋をしてアリサは瞼を閉じたのだった。




