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春待ちのキャンバス ―二度目の恋は、急がない―  作者: 久遠 睦


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三人のテーブル、四月の風

第9章:三人のテーブル、四月の風


 五月。世界は、それまで纏っていた重いコートを脱ぎ捨て、一斉に息を吹き返したようだった。


 香織の生活には、新しい二つのリズムが刻まれ始めていた。  一つは、娘・美月の大学生活だ。  あんなに幼く、常に背中を追いかけてきた娘が、真新しいスーツに身を包み、少し背伸びをしたメイクをしてキャンパスへと向かう。朝、玄関で見送る美月の後ろ姿は、日ごとに頼もしさを増していた。 「ママ、今日はサークルの新歓があるから遅くなるね!」  そう言って笑う美月の瞳には、自分の力で未来を切り拓こうとする輝きが宿っていた。


 そしてもう一つのリズムは、佐々木との、穏やかで深い「付き合い」だ。  あの桜吹雪の下で想いを通わせ合ってから、二人の関係はより強固なものへと変わっていた。平日の昼休み、屋上や非常階段の踊り場でこっそりと交わす「今日もお疲れさま」という言葉。夜、家事を終えた後の静かな時間にかかってくる、彼からの優しい電話。    佐々木は、相変わらず香織を急かすことはしなかった。  彼は香織が「母親」としての役割を全うすることを誰よりも応援し、その余白にある時間を、慈しむように共有してくれた。 「カオリさん、美月さんは大学に慣れましたか? 無理をさせていないか、それだけが心配です」  電話越しに聞こえる彼の声には、常に「自分たち」だけでなく「美月」を含めた、家族のような眼差しが含まれていた。


 四月の中旬、香織は美月に提案した。 「美月、もしよかったら……今度の土曜日、佐々木さんと三人で食事に行かない?」  美月はスマートフォンの画面から顔を上げ、少しいたずらっぽく笑った。 「ようやく、その日が来たんだね。いいよ、私も佐々木さんのこと、ちゃんと知りたいし。あ、でも、ママの彼氏だからって手加減しないからね」 「もう、変なこと言わないでよ」  香織は苦笑いしながらも、胸の奥にある小さな不安を隠せなかった。  自分にとって大切な二人が、初めて正面から向き合う。それは、新しい人生の扉を開けるための、最後の鍵のような気がしていた。


 土曜日の夜。  場所は、神楽坂にある、一軒家を改装したイタリアンレストランだった。  佐々木が「美月さんのような若い方でも堅苦しくなく、かつ落ち着いて話せる場所を」と、何軒も下見をして選んでくれた店だ。


 お店の前で待っていた佐々木は、美月の姿を見ると、丁寧に頭を下げた。 「美月さん。初めまして、佐々木です。今日はお時間をいただいて、本当にありがとうございます」  美月は、少し緊張した面持ちで、でもしっかりと彼の目を見て答えた。 「初めまして。波多野美月です。ママから、いつもお話は聞いています」


 三人がテーブルを囲む。  最初は、どこかぎこちない空気が流れていた。香織は、どちらに気を遣えばいいのか分からず、何度もワインのグラスを回した。  けれど、運ばれてきた前菜を一口食べた美月が「……美味しい!」と声を上げたことで、氷が溶けるように会話が回り始めた。


「佐々木さんって、会社ではどんな感じなんですか? ママ、家では『仕事ができる素敵な人』って、惚気ばっかりなんですよ」 「美月、ちょっと!」  香織の制止をよそに、佐々木は楽しそうに笑った。 「いやあ、それは照れますね。会社では、僕はただの『地味な裏方』ですよ。でも、カオリさんがそう言ってくれているなら、これからはもっと背筋を伸ばして働かないといけませんね」


 佐々木の話は、いつも誠実だった。  彼は美月を「子供」として扱うのではなく、一人の自立した女性として尊重し、彼女の選んだ学部や、将来の夢について、真剣に耳を傾けた。 「……実は僕も、大学時代は美月さんと同じように、自分の進む道に迷っていた時期があったんです」  佐々木が語る失敗談や、仕事への情熱。それを聞く美月の瞳が、次第に好奇心と信頼の色に変わっていくのを、香織は隣で見守っていた。


 食事も終盤に差し掛かった頃、美月がふと真面目な顔をして佐々木に尋ねた。 「佐々木さん。……ママのこと、これからも泣かせないでいてくれますか?」


 香織は息を呑んだ。  かつての離婚、アプリでの失敗、一人で必死に家計を支えてきた背中。美月は、母が流してきた涙を、誰よりも近くで見てきたのだ。


 佐々木は、持っていたフォークを置き、美月の目をまっすぐに見つめ返した。 「……約束します。カオリさんがもし涙を流すことがあったとしても、それは悲しい涙ではなく、嬉しい涙や、安堵の涙であるように、僕は全力を尽くします。……僕は、彼女が守ってきたこの平穏な場所を、一緒に守っていきたいと思っているんです」


 その言葉に、偽りはなかった。  美月は少しの間黙っていたが、やがて満足そうに頷き、デザートのアイスクリームにスプーンを差し込んだ。 「……合格。パパって呼ぶのはまだ恥ずかしいけど、佐々木さんなら、ママを任せてもいいかな」


「美月……」  香織の視界が、不意に滲んだ。  娘の承認。それは、自分が「一人の女性」として幸せになることを、自分自身に許すための最後の儀式だったのかもしれない。


 帰り道、夜風が三人の頬を優しく撫でた。  駅の改札前で、佐々木が美月に深々と頭を下げる。 「美月さん、今日は本当にありがとうございました。また、三人で美味しいものを食べに行きましょう」 「はい! 今度は、私のおすすめのカフェも連れて行きますね」


 美月が先に改札を通り、エスカレーターの上から二人に手を振る。  残された二人は、自然と手を繋いだ。  佐々木の掌は温かく、力強かった。


「……佐々木さん、ありがとう」 「いいえ。僕の方こそ。……美月さん、本当に素敵な娘さんですね。カオリさんが、どれほどの愛を持って育ててこられたか、今日お会いして改めて分かりました」


 香織は、彼の肩に頭を預けた。  かつてアプリで追い求めていた「完璧な条件」や「刺激的な恋」。  そんなものは、この静かな幸福に比べれば、砂漠の蜃気楼のようなものだった。    自分の欠点も、過去の傷も、そして何より大切にしている家族も。  すべてを包み込んでくれる、この「本当の愛」に出会えたこと。  それは、四十三年生きてきた香織への、神様からの遅すぎる、けれど最高のご褒美だった。


 波多野香織、四十三歳。  三人のテーブルに灯った灯火は、これから始まる新しい季節を、いつまでも温かく照らし続けてくれるに違いない。


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