愛の歩幅、心の深度
第8章:愛の歩幅、心の深度
三月が終わりに近づき、街のあちこちで桜の蕾が膨らみ始めた。 あの日、神楽坂でのランチを経て、香織と佐々木の距離は、目に見えないほど細やかな、けれど確かなグラデーションを描きながら縮まっていった。
平日は会社の給湯室やエレベーターの前で交わす短い挨拶。週末は、二週間に一度のペースで会うようになった。 ある時は、陽光が降り注ぐテラス席でのランチ。 ある時は、仕事帰りに待ち合わせて、少しだけ贅沢な焼き鳥屋での夕食。 佐々木が選ぶ店は、いつも適度な賑やかさと、お互いの声がよく通る静かさが同居していた。彼は香織が「母」として、そして「一人の女性」として、無理なく過ごせる場所を、まるで宝探しでもするように丁寧に選んでくれた。
「カオリさん、お疲れさまです。今日は顔色が少しお疲れのようですが、仕事、立て込んでいましたか?」 金曜日の夜。小さなビストロのカウンター席で、佐々木が心配そうに覗き込んできた。 「ええ、少しだけ。でも、こうして佐々木さんとお話しできると思うと、不思議と疲れも吹き飛んじゃいます」 「それは……僕にとっても、最高の褒め言葉です」 佐々木は嬉しそうに目を細め、白ワインのグラスを傾けた。 会話の内容は多岐にわたった。最近読んだ本の感想、美月の大学生活の準備、そして仕事の悩み。佐々木は、香織がどんなに些細な話をしても、決して生返事をしなかった。彼は香織の言葉を一度自分の中に受け止め、咀嚼し、温かな返答として返してくれる。 それは、アプリで出会った男たちとの「自分をいかによく見せるか」というマウンティングに近い会話とは、対極にあるものだった。
しかし、関係が深まれば深まるほど、香織の心の中には小さな「戸惑い」が芽生え始めていた。
出会ってから三ヶ月。 何度か夜の食事も共にし、お互いのプライベートな部分もかなり共有し合っている。帰り道、人混みの中で彼が自然にエスコートしてくれたり、別れ際に一瞬だけ手が触れ合ったりすることはある。 けれど、彼はそこから一歩先へ、決して踏み込んでこなかった。
(……どうしてだろう)
香織の脳裏には、嫌でもあのタカシとの苦い記憶がよぎる。 アプリで出会った彼は、四回目のデートで、流れるような手際でホテルへと誘った。あの時はそれが「大人の恋愛のスピード感」なのだと思い込もうとしていた。男は結局、身体が目当てなのだと、どこかで諦めていた部分もあった。
でも、佐々木は違う。 彼は食事を終えると、必ず駅の改札まで送り届け、香織がホームへ消えるまで見送ってくれる。 (私に、女性としての魅力がないのかしら) (それとも、彼は私をただの『気の合う同僚』としか思っていないの?)
鏡の前で自分の姿を見つめる夜が増えた。 四十三歳。肌の衰えも、隠しきれない生活感もある。でも、美月からは「最近のママ、綺麗になった」と言われる。 自分の中に燻る「女」としての自尊心が、佐々木のあまりにも清廉な振る舞いに、少しずつ焦れ始めていた。
四月の第一週。 桜は満開を過ぎ、風が吹くたびに淡いピンクの花びらが舞う夜だった。 美月の入学式も無事に終わり、香織の肩の荷が完全に下りた。
食事を終え、夜桜が美しい並木道を駅に向かって歩いている時、香織は思い切って足を止めた。 「……佐々木さん」 「はい、どうしましたか?」 佐々木も立ち止まり、不思議そうに香織を見つめる。街灯に照らされた彼の表情は、今日も変わらず穏やかで、誠実そのものだった。
「あの……私、ずっと気になっていたことがあって」 「何でも言ってください。僕に、何か失礼なことがありましたか?」 「いいえ、逆なんです。……佐々木さんは、どうして、私をホテルに誘わないんですか?」
言った瞬間、心臓が爆発しそうなほど高鳴った。 こんなことを自分から口にするなんて、はしたない。そう思う自分と、確かめずにはいられない自分が、胸の中で激しくぶつかり合う。
佐々木は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。 そして、ふっと視線を落とし、それからゆっくりと香織を見つめ直した。 彼の瞳には、困惑ではなく、深い思慮が宿っていた。
「……驚かせてしまいましたね。すみません」 佐々木は、静かに言葉を選び始めた。 「カオリさん。僕は、あなたが今までどれほど傷つき、どれほど慎重に、この生活を守ってきたかを知っています。……あなたの過去の話を聞いた時、僕は誓ったんです。この人を二度と、道具のように扱うような真似はさせない、と」
彼は一歩、香織に近づいた。 「美月さんが大学受験という、人生の正念場にいた時期でもありました。お母さんとして必死に走っているあなたを、僕の欲望で立ち止まらせたくなかったんです。……それに、僕はあなたと、単なる『一晩の関係』を築きたいわけじゃない」
佐々木は、香織の両肩に、優しく手を置いた。 「僕は、カオリさんを、そしてカオリさんが大切にしている美月さんとの生活を、丸ごと大切にしたいと思っています。……だから、美月さんにも胸を張って『お母さんとお付き合いしています』と言えるまで、僕は、あなたとの距離を、大切に、大切に育てたかったんです。それが、僕なりの誠実さのつもりでした」
香織は、呼吸を忘れて聞き入っていた。 タカシのような、その場限りの「癒やし」という言葉。 元夫のような、「所有物」としての扱い。 それらとは全く違う、一人の人間としての、重みのある「尊重」。
「カオリさん。僕は、あなたが自分自身を『一人の女性』として、もう一度心から信じられるようになるのを待っていたんです。……急がせて、あなたにまた『男は結局身体目当てだ』なんて思わせたくなかった。……でも、不安にさせてしまったなら、それは僕の落ち度です。ごめんなさい」
「……ううん」 香織の目から、大粒の涙が溢れ出した。 それは、悲しみではなく、浄化の涙だった。 長い間、自分を縛り付けていた「女としての価値」という呪縛が、彼の言葉によって、夜風に舞う桜のように解けていくのを感じた。
「私……佐々木さんのことが、本当に、大好きです」 涙声でそう伝えると、佐々木は感極まったように、香織を強く抱きしめた。 彼の胸の鼓動が、自分のそれと同じくらい速く刻まれているのが分かった。 彼もまた、緊張し、迷い、そして、この瞬間を待っていたのだ。
「……ありがとうございます。僕も、あなたを愛しています」
桜吹雪の中で、二人は初めて、深い口づけを交わした。 それは、アプリのような火遊びではなく、これから一生をかけてリライトしていく、二人の物語の、本当の第一章だった。
それから数日後。 香織は、自宅のダイニングテーブルで、美月と向かい合っていた。 「ママ、何? 改まって」 「美月。……ママね、佐々木さんと、正式にお付き合いすることになったの」
美月は、食べていたアイスの手を止め、ニッコリと笑った。 「知ってるよ。っていうか、やっと? 遅いよ、二人とも」 「えっ……」 「だって、ママの顔、最近ずっと幸せそうだったもん。……ねえ、今度さ、佐々木さんに会わせてよ。私も、ちゃんと挨拶したい」
香織は、美月の手を握りしめた。 かつて、マッチングアプリの画面を眺めながら感じていた「孤独への恐怖」は、もうどこにもない。 誠実な恋は、世界をこんなにも優しく変えてくれる。 波多野香織、四十三歳。 彼女の新しい毎日は、今、最高の春と共に、鮮やかに始まろうとしていた。




