輝けるキャンバス(前編)―約束の季節―
最終章:輝けるキャンバス(前編)―約束の季節―
1
六月。梅雨の晴れ間にのぞく空は、驚くほど高く、吸い込まれるような青さを湛えていた。 道端の紫陽花が、雨の雫を抱いて鮮やかに色づき、街全体が潤いを含んだ緑に包まれている。
波多野香織の生活は、今、かつてないほどの調和の中にあった。 娘の美月は大学のサークル活動や新しい友人に囲まれ、毎日を謳歌している。夜、リビングで交わす会話の内容も、「明日の試験が不安」というものから、「今度、友達と旅行に行く計画を立てている」という、外の世界へ向かう輝かしいものへと変わっていった。 そんな娘の成長を眩しく眺めながら、香織は自分の肩から、重い荷物が一つずつ下ろされていくような、不思議な軽やかさを感じていた。
そして、佐々木との関係。 あの日、神楽坂でのランチを経て、お互いの気持ちを確かめ合った二人は、急ぐことなく、けれど確実に歩幅を合わせてきた。 会社の給湯室で交わす、わずか数秒の視線。 仕事帰りに待ち合わせ、駅までの短い距離を歩く時間。 それらの一つひとつが、香織にとっては砂漠で見つけたオアシスのように、枯れかけていた心を潤してくれた。
ある金曜日の夜。仕事帰りの二人は、馴染みになった小さなビストロのカウンターに座っていた。 「カオリさん」 佐々木が、ワイングラスを置いて真剣な面持ちで切り出した。 「美月さんの新生活も、ようやく落ち着きましたね。……実は、再来週の週末、もし良ければ二人で旅行に行きませんか?」
香織は、手にしていたフォークを止めた。 「旅行……ですか?」 「ええ。伊豆に、昔から一度行ってみたかった静かな宿があるんです。一軒一軒が離れになっていて、温泉も部屋についているような。……そこで、これからの僕たちのこと、ゆっくりと、誰にも邪魔されずに話したいなと思って」
佐々木の手が、テーブルの上で香織の手に重なった。 温かく、少しだけ緊張に震えている。 アプリで出会ったタカシに「忙しい」と一蹴され続けたあの日々が、遠い前世の記憶のように思えた。佐々木は、香織を「都合の良い女」としてではなく、自分の人生に招き入れるべき「パートナー」として、正面から向き合おうとしていた。
「……はい。行きたいです、佐々木さんと」 香織が頷くと、佐々木は安堵したように、少年のような無垢な笑顔を見せた。その笑顔を見るだけで、香織は自分の選択が正しかったことを確信できた。
2
旅行当日までの二週間、香織は少女のような落ち着かない日々を過ごした。 どんな服を持っていけばいいか、下着は新調すべきか。そんな悩みを抱くこと自体、今の自分には分不相応な気がして気恥ずかしい。 けれど、クローゼットの前で立ち尽くす彼女を救ったのは、やはり娘の美月だった。
「ママ、これ持っていきなよ」 美月が差し出したのは、シルクのようになめらかな、落ち着いたラベンダー色のナイトウェアだった。 「美月、これ……」 「新調したんでしょ? 大丈夫だよ。佐々木さんは、ママがママらしくいるのが一番嬉しいんだから。でも、たまには『一人の女』として、ちゃんと甘えておいでよ」
美月はそう言って、母親の肩をポンと叩いた。 美月の目は、すべてを見抜いているようだった。自分がかつて男に傷つけられ、自分を「女」として見ることを禁じてきたことも。そして今、佐々木という誠実な光によって、その凍りついた心が溶け始めていることも。
「……ありがとう、美月。戸締まり、気をつけてね」 「分かってるって。それより、佐々木さんをあんまり待たせないようにね!」
美月の明るい声に送り出され、香織は家を出た。 駅のホームで待っていた佐々木は、白いリネンのシャツに紺のジャケットを羽織り、いつになく凛々しく見えた。 「カオリさん、お待たせしました。……そのカバン、僕が持ちます」 「いいえ、そんな」 「いいんです。今日は、僕があなたをエスコートする日なんですから」
踊り子号の窓から見える海は、初夏の光を浴びて、銀色の鱗を躍らせている。 隣り合って座る二人の間には、心地よい沈黙が流れていた。 香織は、車窓に映る自分の顔を見た。そこには、数ヶ月前までアプリの通知に怯えていた、疲れ果てた女性の姿はなかった。穏やかで、満ち足りた、一人の幸福な女性の顔があった。
3
宿は、伊豆の深い緑に包まれた、静寂の中にあった。 入り口には見事な竹林が広がり、風が吹くたびにサラサラと涼しげな音を立てている。 案内された離れの客室は、木の香りが清々しく、目の前にはプライベートな露天風呂が、こんこんと湯を湛えていた。
「……素敵。こんな贅沢、いいのかしら」 「たまには、いいんですよ。僕たちのための、特別なお祝いなんですから」 佐々木はそう言うと、荷物を置いて香織の隣に立った。
夕食は、地元の山海の幸を活かした、芸術品のような料理の数々。 金目鯛の煮付け、新鮮な鮑、地元の銘酒。 食事を楽しみながら、二人はこれまでの歩みを振り返った。 「あの日、オフィスで佐々木さんが声をかけてくれなかったら、私は今頃どうなっていたかしら」 「僕は、あの時、あなたが必死に頑張っている姿を見て、神様に感謝したんですよ。こんなに素敵な人が、まだここにいてくれたんだって」
佐々木は、自分のグラスを香織のグラスに軽く触れさせた。 「カオリさん。僕は、あなたの過去をすべて受け入れたい。美月さんのことも、あなたの心の傷も。……だから、これから先、僕にあなたの隣に居続ける権利をくれませんか?」
それは、食事の最中に不意に訪れた、静かなプロポーズだった。 佐々木は、ポケットから小さな箱を取り出し、ゆっくりと開けた。 そこにあったのは、派手ではないけれど、上品な輝きを放つプラチナの指輪だった。
「……佐々木さん」 香織の目から、大粒の涙が溢れ出した。 アプリでの虚構。元夫の暴力。孤独な子育て。 それらすべての苦しみが、この小さな指輪の輝きによって、報われたような気がした。 「私で、いいんですか……? 私には、過去があるし、美月もいるし……」
「あなたが、いいんです。過去があるから、今の優しいあなたがいる。美月さんがいるから、今の強いあなたがいる。……僕は、そのすべてを愛しています」
香織は、震える手で彼の手に触れた。 「……はい。私の方こそ。佐々木さんと一緒に、歩んでいきたいです」
夜の帳が、ゆっくりと宿を包み込んでいく。 窓の外では、蛍が数匹、淡い光を放ちながら闇の中を舞っていた。 それは、二人の新しい門出を祝う、静かな祝祭の灯火のようだった。
食事を終え、部屋に戻ると、空気はそれまでとは違う重みを帯び始めていた。 今夜、二人は初めて、身体を重ねる。 それは、単なる欲望の処理ではない。 お互いの人生を、肉体という言葉を超えた、魂の深淵で繋ぎ合わせるための「儀式」だった。
香織の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。 けれど、その緊張は決して不快なものではなかった。 佐々木への信頼と、彼に触れられたいという、一人の女性としての素直な渇望。 彼女は、ラベンダー色のナイトウェアに着替えながら、鏡の中の自分を見つめた。 そこには、母としての仮面を脱ぎ捨てた、一人の「女」が立っていた。




