おねず参上
雪は一昼夜、降りつづけ、膝が隠れるくらいまで積もった。
その間どこにも出かけず、ただ、もくもくとあばら家で惣右介は小滝と二人、内職に勤しんだ。小滝は目をしょぼしょぼさせながら、仕立物をしている。今井堂からは多くはないが定期的に仕立物の依頼があった。今、何とか生活できているのは今井堂と小滝のおかげだ。惣右介の扶持米や内職仕事もあるが、冬は皆が内職をする季節になるので、自然と惣右介の実入りも減ってしまう。
雪は降らないと困るが、やはり辛いものだ。
雪も止んだので、惣右介は清瀬川にいってみようと考えた。
「小滝、ちょっと清瀬川に行ってくる。仕掛けていた罠を見てくる」
といい、小滝の答えも聞かずにあばら家を出て来た。実際のところは、ずっと小滝と二人だったので気分が煮詰まり、気晴らしでもしようかというところか。
今朝はさすがに草鞋ではなく、藁沓を履いて出かけた。募者町の家から清瀬川まではすぐ目の前だ。ご城下の西の端に募者町はあった。
この辺りは古くから八幡様の下にご城下から羽州に続く街道が通り、八幡様の参道から続く斜面はそのまま清瀬川の河原に続く。この斜面に段々になって丁が作られ、募者町はその一番下、清瀬川にほど近い辺りを指す。その中でも一番、清瀬川に近い場所に惣右介の家は位置していた。ほとんど河原…と言ってもいいくらいの場所である。清瀬川を挟んで向かい側には山居沢から河原上町の山を登る道が見える。惣右介の家は、緩やかな谷底と言えるような場所にあった。
深く積もった雪の中に一歩ずつ足を踏み入れ、注意深く、歩を進め、一歩ごとに足の下の雪を感じる。他の季節なら、背の高い草むらの中も、今日は全て雪の下だ。
お日様の光が一面の雪に反射して、眩しい。
罠を仕掛けたところに、何かかかっているか…川の水は地表に比べて暖かい。川の中なら、魚は泳いでいるはずだ。だが、一匹も簗には捕まっていなかった。
(まあ、そうだよな。ほでなすには簡単に捕まらんか)
惣右介はひとり納得し、魚のことは諦めて、足場の記憶がある雪の上を進んで行く。常なら、川の中程の場所である。雪が降るのが遅かったためか、水量も少ない。その辺りは古木が流れ着き、淀み溜まっている場所だ。この中から埋木を見つけて拾うことにする。青嵐山の崖から龍ヶ峰峡谷へ、古木が剥がれ落ち、清瀬川に流れてきて、埋木になるのだ。拾った埋木は今井堂に持っていく。埋木は燃料になるので、今井堂が買い取ってくれる。そして、埋木の中で大きいものは、鷹数寄者の鷹仕のところに届ける。鷹仕はこの埋木で鷹の置物を掘り、それはまるで生きているかのような出来だった。惣右介は鷹仕の鷹を見るのが好きだった。だが、残念ながら魚と同様、今日は埋木も見つけることも出来なかった。
(まあ、いつものことだ)
と考えながら、川沿いに雪の河原を歩き殿橋のところまで来た。この橋はお曲内の入り口で番役も立っており、蓮臺の町の中でも要所である。大きくしっかりとした作りの橋で、人の行き交いもある。河原から橋の上にあがり、そしてお城とは反対の緩やかな坂を上って、八幡様の方に向かう。
(八幡様にお参りして帰るか)
岩間町を抜けて坊主町に上がり、八幡様に出た。思っていたよりも人が来ている。特に境内の中の一角に人だかりが出来ていた。近くまで来た時に、それはたくさんの正月飾りを積み上げた山だという事がわかった。
(ああ、今日は御焼きの日だったか)
八幡様では正月が明けて十五日の夜、正月飾りを一斉に焼いて厄を払うのだ。だが、惣右介は「無刑」であるため、正月飾りを飾ることは許されていない。そのため、「御焼きの日」のことも完全に失念していた。
(今晩はこの辺りにもたくさんの人が出て、遅くまで賑やかになるな)
現に夜の人出を当てにして、たくさんの夜店が設えられつつある。雪が積もって大変だろうとは思うが、御焼きの日を蓮臺の人々は大切な行事として楽しみにしているので、雪も寒さも、ものともせずに、皆あちこちから八幡様に向けて出張ってくるのだろう。
(まあ、俺には関係の無いことだが)
昔は惣右介も八幡様の御焼き、そして夜店を楽しみにしていた。蓮臺にいる時は必ず、父の左馬之助と母の志津、小滝、そして幼い妹の田鶴と一緒に御焼きを訪れた。夜中になればなるほど、昼の仕事が終わった客商売の者たちの出が多くなり、さらに賑やかになる。その日だけは子どもであっても夜遅くまで起きていることが許された。惣右介も田鶴も興奮して眠れなかったくらいだ。
その上、御焼きの晩は必ず満月なので、天気が良ければ遅くまで明るい。普段あまり人気の無い八幡様のあたりだが、この晩だけは満月と御焼きの炎、夜店に人出…で、全く様相が変わるのだった。
小滝を連れて行ってやりたい…と、一瞬思ったが、それは無理な話だった。惣右介は「無刑」の身である。そんな大勢の人のいる前に出て行くわけにはいかない。夜店の中で既に店を開いている中に駄菓子屋が見えたので、小滝に少し買って帰り、気分だけでも味わってもらおうと思った。
その夜は文字通り、満月だった。夜半まで募者町のあたりもたくさんの人が歩いていた。やっと静かになったのは、寅の刻も過ぎた頃だろうか。
この日の満月はたいそう美しかった。惣右介は何故か眠れず、胡琴を片手に河原に出てきた。積もった雪に満月の光が反射し、銀色にきらめいている。時折、風に流れた雲が満月を隠し、また姿を現し…と陰影に富んだ光景がくり広げられている。
(美しいもんだな)
惣右介は座るのに手頃な流木に腰を下ろすと、胡琴を抱え、爪弾いた。冷たく、美しい夜の静寂をその音色は震わせる。緩やかな川の流れの音とともに、胡琴の音色は静かな合奏となって、冬の夜空に吸い込まれていく。惣右介は自分の世界に没頭した。
その時、ぱしゃん、と水音がした。
最初、魚が跳ねる音かと思った。ちょうど、雲が満月を隠していた。
ぱしゃん。と、また音がした。
「痛!」
惣右介の左腕に何かが当たった。惣右介は胡琴の手を止めた。ぱしゃん、と惣右介の足元で音がした。小石が飛んできたようだった。
(なんだ?)
着物の袖で胡琴を覆い隠す。また、ぱしゃん!と音がした。
今度こそ、惣右介は注意深く周囲を見渡した。ぐるりと首を巡らせると、惣右介から
二、三間離れた鹿追橋の上で何かが動いたようだった。
(狸か狐か?)
その時、風が吹いて雲が動き、満月が姿を現した。
雪明かりは一段と明るい月の光に呼応し、辺りは一面、再び銀色に輝き、それの姿もあらわになった。
少女が橋の上にいた。
黒髪が満月の光を反射して輝き、肌の色をひときわ白く輝かせていた。
肩の上で、ふっつりと切り揃えた髪が、風にかすかに靡いている。
惣右介は立ち上がって、橋の上の少女をよく見ようとした。
「おまえは物の怪か?」
惣右介は真面目に尋ねた。
昔の「知行学」の徒であった頃であれば、そんな事は絶対に口に出さなかっただろうし、考えもしなかった。「真の君子は怪力乱神を語らず」というのも教えのひとつだった。
だが、今の惣右介はそうではない。
世の中は自分の知らない事ばかりであるし、悪夢のようなあの事件が起こってからは、思ってもみないことが起こったとしても、そういうものだと思えるようになった。
「物の怪なのか?」
惣右介はもう一度、問うた。
「あっちは、おねじゅだ」
それが答えた。
その声は幼く、まだ口も回っていないようだった。
(幼女の声?こんな時間に?やはり物の怪の類か?)
惣右介は胡琴を携えて、それに向かって近寄ってみた。
「おねじゅ?」
「ちょうだ、おまえがあっちにチュをかけた」
「ちゅ?」
「おねじゅと、なをちゅけた」
(ちゅ…なをちゅけた…名を付けた、か。ああ、それで、呪、か)
惣右介は少女の言葉は解したが、言っている意味がわからない。
「おねじゅとやら、おれは、女童に名を付けた覚えはないが…おまえと会うのは初めてだ」
惣右介は心の底から、そう言った。全く心当たりがない。
「おまえは、あっちをちゅかんで、ふところにいれた」
「ふところに?」
ますますわからない。いくら幼女でも、こんな大きい子を懐に入れることなんて無理だ。
「ちょうだ、ひが おちょってきて あなのなかにいた。おまえはあっちをつかまえた」
(ひが、おちょってきて?…火が襲ってきて、か?捕まえた…とは、もしや)
「もしや、おまえはあの時のこねずみだというのか?」
「ちょうだ、おまえがあっちをおねじゅとよんだ」
あの時の白い小さなねずみが、この幼女だというのか。
「では、おまえはあの時のおねず殿なのか」
「ちょうだ、おねじゅだ。あっちはおまえのちぇいで、ねずみぢょうどを ちゅいほう ちゃれた。もどるために、おまえのたまちいをもらう!」
幼女はきっぱりと言った。怒っているようだった。おねずの言っていることは剣呑なことだが、口が回っていないせいか、惣右介はすこしだけ可笑しくなってきた。
昔、小さかった妹の田鶴が回らない口で、一生懸命よく怒っていたのを思い出した。
「ねずみ浄土を追放されたのか…そうか、それは悪かったな、おねず殿。だから、あの時も怒っていたのか…申し訳なかった。まさかそんな事とは思わなかった」
惣右介は心底、面食らっていた。良かれと思ってしたことが、あの小さな白いねずみには大変なことだったなんて。思いもよらなかった。
「おねず殿。俺の魂でいいなら、いくらでもくれてやりたいところだが、今は生憎故あってすぐには魂をやることは出来ないのだ。申し訳ない」
惣右介は小滝のことを考えていた。
「だめだ!あっちにはゆうよがない。おまえのたまちいをもらう」
「ふむ、困ったのう」
すると、おねずはくちゅん、と小さなくしゃみをした。良く見れば、おねずは白い着物一枚の薄着に裸足に草鞋だ。いくら物の怪でも、それでは寒いだろうと惣右介は思った。
「おねず殿、このままではお互い冷えてしまう。まずは一緒に俺の家に帰ろう。俺は逃げも隠れもせん。今は駄目だが、時が来るまで傍にいて、その時が来たら俺の魂を持っていくが良いさ」
おねずはじっと惣右介を見て、考えているようだった。
切り揃えた前髪の下から、美しい冬の星を思わせる両眼は惣右介を射抜くようだった。
「わかった。おまえに ちゅいていく」
そうして、惣右介はおねずを募者町のあばら家に連れて帰った。
(どうせ、いつ死んだって変わりはない。だが、小滝だけは何とかしないとな)
鹿追橋の袂から、家に戻る際中、惣右介はそんなことを考えながら歩いていた。おねずはその間、惣右介とは一定の距離をあけて、後ろをついてきた。
(どう見たって、あれは人の子じゃないか。だが、あの火事の時のことを知っているとなれば、やはりあの時のこねずみに違いない。物の怪は凄いもんだな)
惣右介は変なところで感心していた。と、その時、おねずが雪に滑って転んだ。
「いたたたた!」
尻もちをついたのか、おねずはひっくり返っていた。惣右介は慌てて走り寄った。そして、おねずに自分の着ていた綿入れを着せ、直接触らない様に気を付けながら立たせた。
「ああ、気を使ってやれず、申し訳なかった。痛かっただろう」
おねずは心持ち口を尖らせながら、黙っている。
「よし、大きすぎるかもしれんが、これを履け」
惣右介は自分が履いていた藁沓を脱ぎ、その中に片方には襟巻、片方には手拭いを詰めてやった。おねずは大人しく草鞋を脱いで、藁沓に足を入れた。
「よしよし、その方がまだマシだろう」
そう言って満足げに笑うと、惣右介はまた前を歩き出した。おねずはやはり後ろから歩きながら、雪を踏みつけて歩く惣右介の裸足の裏を見ていた。
その日の朝、夜が明けると大変だった。
小滝にどう説明したものか、惣右介は全く考えていなかったからだ。
「若様、この女童は誰ですか」
小滝はおねずを見るなり、目を丸くした。
「これは、おねずといって…」
「おねず…?どちらのおねず様で?」
「いや、どちらのおねず様とも…」
惣右介はしどろもどろである。
(さすがに元はねずみだと言っても、小滝は信じまい)
さあ、どう言うか。
(ましてや、俺の魂を奪いに来たなんて言った日には、かえってめんどくさい事になる)
「妙齢の女人ならまだしも、どうしてこのような幼女を…全くどこから、かどわかしてきたものやら…」
小滝はぷりぷりと怒りながらも、手は朝餉の用意をしている。
惣右介は小滝が聞いていないことを確かめ、
「良いか、おねず殿。俺の魂を奪いに来たことを、小滝に言ってはならんぞ。俺の魂を奪う前に、小滝にお前がねずみ団子で成敗されてしまうからな」
おねずは黙って、惣右介の顔を見ていた。
あっという間に惣右介とおねずと小滝の三人分のささやかな膳が並べられた。粟やひえが入ったご飯と大根のみそ汁、大根の葉の香の物という簡素な朝餉だ。おねずはずっと黙ったまま、大人しく膳の前に座っている。
惣右介と小滝が
「いただきます」と言って、箸を持ちご飯を食べ始める。だが、おねずは食べない。
膳に並んだごはんとみそ汁、香の物をただじっと見ていた。
「おねず、それはお前の分だ。食べてもよいのだぞ」
惣右介はそう言ってから、あ、と思い、
「箸…」
と惣右介が言った時には、おねずは手づかみでご飯を口の中に頬張っていた。
それを見た小滝は今度こそ、余りのことに目が落ちてしまいそうなほど瞼を見開き、おねずを凝視していた。惣右介は居た堪れないような気分になって、とてもご飯が喉を通るような気分ではなかった。だが、肝心のおねずは余程お腹が空いていたと見えて、ガツガツと口の中にご飯も香の物も手で突っ込み、果ては味噌椀を手に持たずに、膳の上に置いたまま口をつけて飲んだ。最後に椀の底に残った大根も手で掬い上げ、口の中に入れた。小滝は何とも言えない表情をしていた。それはそうだろう、鄙には稀な美しい幼女が、手づかみでガツガツとご飯を食したのである。そして、お腹がいっぱいになって安心したのか、おねずはそのまま眠ってしまった。口の回りに米粒や味噌粒をつけたまま、だ。
黙って、小滝は朝餉の膳を片付けると
「若様。お話がございます」
と言った。惣右介は悪い予感しかないが、黙って小滝の後についていった。小滝は勝手口の桶の前にしゃがみ込み、飯椀や味噌椀をすすぎ始めた。朝餉の膳の洗い物をしながら、小滝は振り返りもせず、
「若様、あの娘は何者なのです?外見は、珍しいほど手をかけてある娘なのに、全くモノを知らぬ。小滝は肝をつぶしました」
(俺もだよ、小滝)
惣右介は心の中で言った。
「どこから手をつけて良いか、わかりませぬ」
「すまぬ、小滝。びっくりさせた」
惣右介は心の底から、小滝に詫びた。
「…若様がお連れになるということは、余程の事情がある娘という事でございましょう?
小滝は何も申しますまいが…あれは、物の怪の類でございますか」
さすがに小滝は鋭かった。
「すまぬ、俺にもわからんのだ。鹿追橋の上にいた」
「このまま、ずっとここに置くおつもりで?」
「…ああ、たぶん」
「さようでございますか」
小滝は大きく息を吐いた。
「承知いたしました。若様、さすれば、私も覚悟を決めまする」
小滝は言った。惣右介はホッとする。
「さすが、小滝だ!」と思わず口を突いて出た。
「何を暢気なことをおっしゃってるんです?。あの子は大変だといますが…やれるだけ
やってみましょう。あのままでは、笹葉の家には置いておけませんから。それに…」
小滝はくるりと振り向いて、惣右介と向き合った。そして、一段声を潜め、惣右介の目を凝視すると、
「若様、あの娘が着ているのは帷子…死装束でございましょう?」
惣右介はあっ、と思った。小滝に言われるまで、気づかなかった。
「あんなものを、いつまでも着せておくわけにはいきませぬ。早く脱がせなくては!」
そう言うと、小滝は惣右介に聞かせるともなく、
「ああ、確か行李に、田鶴様の七つのお祝い用に用意してあった着物があるかと。それを急いで仕立て直しするとして。最後まで志津様が大切にしていらっしゃいましたから、まだあるはず。でもそれも晴れ着ですからのう…あとは、志津様の着物を解いて…仕立て直して、肩上げして…ああ、忙しい。やることがたくさんだ。ほんとに年寄り使いが荒い!」
小滝は大きくため息をついた。
「若様、若様もしっかりなさってくださいませよ。幼女とは言え、ひとり口が増えるのですから。幼くとも、女人はかかりが大きいのですよ」
「はあ」
惣右介は小滝の勢いに巻き込まれてしまい、情けない声しか出なかった。
(嫁を貰ったわけでもないのに…)
惣右介がそう思ったほど、小滝は何故か嬉しそうだった。
おねずが眠っている間に、見事に小滝は田鶴の晴れ着を仕立て直した。そして惣右介に湯を沸かさせ、まだ半分寝ぼけているおねずの身体を洗った。
(この子の身体は徹底的に手入れされている。物の怪じゃないとしても、普通の娘ではないようだ。まあ、この容姿では、いろいろあるかもしれんが…死装束だけは頂けない)
小滝は、まるでおねずの身体に死の匂いがこびり付いているかのように、ゴシゴシとこする。おねずはその間、黙ってされるがままになっている。
(ふむ、この娘は人に肌を見せることに慣れているのか。さすれば、それなりの高貴な身分の娘であったのかもしれない)
小滝の妄想はどんどんと膨らんでいく。
(かしずかれて育ったならば、致し方ないか…いや、それでも、あの行儀は無いだろう。一体、この娘はどういう生まれの娘なのだろう)
髪の毛を拭き、身体もきれいに拭い、そして仕立て直した田鶴の晴れ着を着せた。
「おお、これは!」
小滝は思わず、声が出た。
美しい晴れ着を着せられたおねずは、さながら志津の少女時代に青嵐城のご実家にあった人形のようだった。大政所様から頂いた、志津が大切にしていた人形だ。品の良い、美しい顔立ちで、確か京友禅に西陣帯を締めていた。今、おねずが着ている着物もあの人形に見劣りするものでは無い。今でこそ、このように落ちぶれ果てているが、田鶴の七つのお祝いを用意していたあの頃は、まだ左馬之助が存命中であり、笹葉家も勢いがあった頃だ。それどころか、晩年の初代お館様が手ずから選んでくださった七つの祝いの反物だ。篁家の粋が極まれている。ああ、田鶴の小さな簪や、帯締め、筥迫、草履と、今思い出しても可愛らしく美しかったあの品々…。これらは全て、あの時に金子に代わってしまっていた。あれが今あったら、この娘をあの人形のように飾り立てることができたのに…
志津と青嵐城で人形遊びをした日々、田鶴の祝いの品を志津と用意したあの頃のことども…しばし、小滝は感傷的な気分に浸っていた。
その間もおねずはじっと、黙って小滝のことを見ていた。
いつまでも惣右介を庭先に出しておいてはいけないと、小滝は我に返って
「若様、お入りになってもよろしゅうございますよ」
外にいる惣右介に声をかけた。
おねずの身体を小滝が洗っている間、惣右介は外で強制的に薪割をさせられていた。今までも小滝に頭が上がらなかったが、おねずの件でより一層、その感が強くなった。だが、小滝が何故か活き活きとしている姿を見て、惣右介も安心した。何もない静かな生活よりは、戦国生まれの小滝はコトが起こった方が元気になるのかもしれぬ。
惣右介が家の中にあがると、おねずは中央に大人しく正座していた。相変わらず、何も言わず、じっと虚ろな目をしていた。
「それは妹の田鶴のものだ。ちょうどよかったな」
惣右介は小滝の腕に感心した。今井堂が注文をくれるのは、まんざらお情けだけではないのかもしれない。惣右介の内職や埋木の買取りは大方、お情けだよな…と思っていたが、小滝の腕は本物なのだろう。
「おねず殿、小滝に礼を言ったか?」
少し、おねずの表情が動いた。
「れい?」
小滝の前で、初めておねずが声を発した。鈴を転がすような、涼やかな可愛らしい幼女の声だった。
「そうだ。礼はわかるか?」
「わかる。これは、あっちのものなのか?」
ちょっと、惣右介は返答に困った。笹葉の女たちの思いを考えれば、そう簡単にやるわけにはいかない…が。惣右介が躊躇っていると、小滝がすいっと膝を進め、
「そうじゃ、おねず。ここにいる限り、その着物はお前様のものだ。お前様の丈に仕立て直しておるからのう」
「ちょうか」
おねずは何か考えているように、少しの間、黙り、
「あ、り、が、と、う」
おねずは、一言一言をゆっくりと表情を変えずに言った。
惣右介も小滝もびっくりした。
(物の怪でも、礼は言えるのだな)
と思ったからだ。そして、二人とも少し安心したのだった。




