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実之助の思い

 当代様が御野初で火事に遭難し、お狩場の端で助けられたことは、瞬く間にご城下に広まった。

 蓮臺藩の奉行たちは、正月からご城下に不安が広まることを恐れたが、人の口に戸は立てられぬと言う通り、為す術も無く、気の早い者どもは次のお世継ぎのことを口にし始める者まであった。とはいえ、噂するのは大方、責任を持たぬ者ばかりで、藩の運営に関わっている者は武家にせよ、町人にせよ、無責任なことは一切口にしなかった。余計な軽口を口にする者に対し、筆頭奉行の深山が許さなかったからである。少しでも士分格の者がそのようなことを言っている…と耳にすると、問答無用で謹慎を申し付けた。商人であれば、一定期間の御用達御免を申し渡した。ある意味、強権発令だった。

 深山伯山が蓮臺藩の筆頭奉行になったのは、実之助が藩主を継いだときからである。

 つまり未だ一年も経たない。この度のお国入りには筆頭奉行として、江戸から随行している。深山は若い頃より江戸詰めが多く、その才気についてはご家中では有名だった。

 若い頃、まだご家中に「五溺塾(ごできじゅく)」があった頃は、「五溺塾の龍」と謳われていたくらいだ。「五溺塾」というのは初代お館様肝いりの学問所である。

 蓮臺のご家中は初代お館様が文化に造詣が深かかったため、「学ぶ」という事にも広く門戸が開かれていた。これは身分の分け隔てなく学ぶことが出来るという事とともに、学ぶ学問の種類も多種多様であったことが初期の蓮臺藩の特徴であった。

 初代お館様の幼き頃からの師が臨臺宗(りんたいしゅう)泰然寺(たいぜんじ)龍吟(りゅうぎん )禅師であったことから、まず禅の教えは深く蓮臺の人々の生活の中に溶け込んでいた。

 また戦国時代を駆け抜けてきたこともあり、庶民を中心に仏様の教えも大切にされていた。そして幕府が後押ししていた朱子学も学問としては入ってきてはいたが、朱子学を机上の学問と捉えた者たちは、もっと実態のある学びを求めた。

 それに応えたのが埜口無極(のぐちむきょく)の「五溺塾」だった。

 もともと埜口無極は、知行学(ちぎょうがく)を修めた熊坂無全(くまさかむぜん)に大阪にて師事し、初代お館様の晩年に知行学を御進講する機会を得て、その思想を面白く思われたお館様により蓮臺藩に召し抱えられた。江戸の藩邸では今後の蓮臺藩を担っていく一門・一家の子息に限らず、他のご家中は元より、町人に至るまで広く学ぶことを許し、また江戸だけではなく蓮臺の国許にも塾を開くことを許した。その結果、知行学は多くの門人を得たのである。

 知行学は知識の研鑽のみではなく、それをもってどのような志を成し遂げるか、どのように成し遂げるのか、そして実際に行動したのか…の積み重ねを重要視した。つまり、実際に実行するという事が大切にされたのである。そして、その志が成し遂げられるかどうかは、実行する人物の中に天命があるか無いかが重要である…と考えられていた。ただこの天命というものは偶然に与えられるものでは無く、その人物の人品骨柄に大きくよるものだと捉え、日頃から行いを正しくし、心願成就の時のために備えよ…というのが知行学の特徴であった。その者が抱く「志」の有無が問われ、また「質」と「姿勢」が問われたのである。

 このような学問であったから、知行学を学ぶものは清廉潔白・明朗闊達であるという人物像が抱かれ、中でも「五溺塾の龍虎」と呼ばれる二人の門人が突出していた。そのうちの一人が「五溺塾の龍」と呼ばれた若き日の深山越猪(おおい)こと深山伯山だった。

 そしてもう一人「五溺塾の虎」と呼ばれたのは、今は亡き笹葉左馬之助、惣右介の父である。笹葉左馬之助は深山の兄弟子であり、深山にとって兄とも慕う心を許した友であった。

 笹葉左馬之助は三杉という知行地を持っていたこと、また妻の志津が初代お館様の血を引くことへの考慮があってか、再三再四、周囲から奉行に推挙されても辞去していた。

 代わりに、同門の深山を「若いが優秀で藩にとって有益である」と推挙した。育ちも良く優秀な深山は先代様にも気に入られた。深山家は戦国の世の前、京の幕府で将軍の近くに仕えた家柄ではあったが、篁家が蓮臺に入ってから召し抱えられた家である。ご家中では新参者である。そういうことから、深山は優秀ではあったが、不遇を託って(かこって)いたのだった。実際に藩政に参加させてみると、深山の優秀さは抜きん出ていた。先代様は大いに満足し、次々と深山に職をまかせて、あっという間にご家中の中で重きを置かれるようになった。

 こうして若くして深山は七人の宿老(しゅくろう)の一人となった。

 そのころが深山や左馬之助の二人にとっても、五溺塾にとっても一番良い時代だった。

 そして、深山が奉行になり、程なくしてあの事件が起こった。「笹葉左馬之助に謀反の疑いあり」とされたのだった。笹葉左馬之助が奉行を辞退し続けたこと、ご領地の三杉に在住して、登城する機会が少なかったこと、そして何より嫡子の惣右介が優秀だったことが災いした。初代お館様の血を引く惣右介を三代の跡目として、蓮臺藩の乗っ取りを計っている…というのが筋だった。先代様は実直な左馬之助を頼りにしていたが、それを快く思わぬ者たちがご家中にあり、それらの者たちが奉行を押し切り、謀反の証拠なるものをあげ、左馬之助を青嵐城に呼び出し、捕縛してしまったのである。

 左馬之助はもちろん身の潔白を訴えたが、獄中にて病死した。この時、左馬之助の謀反の思想的指導者として埜口無極も連座とされ、既に高齢であった無極も獄中にて病死した。

 深山は江戸から連日連夜、馬を飛ばし、夜を徹して奥州道中を駆け抜け、蓮臺に駆け付けたが、時すでに遅く、左馬之助も師匠の無極も亡くなった後だった。

 深山は為す術も無く、ただ左馬之助と無極がいたという牢の前に立ち尽くすのみだった。

 次は我が身と考えたのか、即座に深山は自ら先頭に立ってご城下の五溺塾に乗り込み、看板を取り払って叩き壊し、門を打ち壊し、火を放った。建物は全焼、無極の娘・そらまでも捕縛し、その姿は非情なること鬼の如しと言われ、自分の学び舎に手を掛けた深山を「裏切者」「恩知らず」「生き恥さらし」と周囲の者は誹るようになったのである。

 謀反の首謀者と指導者が二人とも亡くなってしまい、本拠地となった五溺塾がなくなったからには、この話は終わりになるはずだったが、代わりに係累のものを罰せよという次第になった。

 惣右介のことである。ろくでもない話であるが、声が大きいものが勝つということはどこにでもあることだ。特に惣右介について生かしておいては災いの種だ…という意見が大きかった。初代お館様の時代からの遺物がまだまだ幅を利かしていた頃だ。

 先代様もお困りになり、深山に対して「何とかせよ…よいな」と言い、背を向けた。

 皆、心の中では真実がわかっていたからこそ、誰も責を取りたがらなかったのだろう。深山は中国の殷の時代にあったという「無刑」を惣右介達に科することとした。

 今はもうこの事件があったことすら、藩の記録にはない。藩の記録にはただ「浩然三年 笹葉左馬之助、病死。同年、笹葉左馬之助室・志津、病死。之ニ因リ笹葉家三杉領ヲ蔵入地トス」とのみ記載されている。惣右介の出生についてはどこにも記録は無い。消されてしまったのだ。これが「無刑」だった。

 深山はこの事件以来、変わってしまった。大声で笑わなくなった。あまり感情を表に出さず、多くを口にしない故か、腹の底がわからない…と周囲の者は思っていた。実之助にも必要なことは言うが、軽口などは言わない。もちろん、自分自身の話を人に話すことも無かった。巷では深山のことを、惣右介の乳母・小滝のように「てほ語り(うそつき)」と言う者もいた。その為なのかどうかわからないが、深山は独身であり、その生活は不明だった。

 深山は淡々と無表情で職務を全うし、ご老体たちがやりたがらない仕事も引き受け、その結果、やり手の奉行であるという評判を得た。ご老体たちは深山のことを陰では「変節漢」と呼び、都合の良いように仕事を押し付けていたのだ。

 依然としてまだお舘様以来のご重鎮や自称御意見番が多く在職していらっしゃり、蓮臺藩の藩運営はその方達が担っていた。次第にその方達が補佐役に回り、近年は先代様の独擅場となっていた。そして先代様がお亡くなりになった際、相次いで藩の重鎮である奉行たちが殉死し、その結果、深山に筆頭奉行職が回ってきたのであった。

 だが、深山の筆頭奉行就任に異を唱えた方々もいる。一ノ関殿と三春殿だった。

 どちらも藩の運営を我こそは!と虎視眈々と狙っており、虚弱であることを理由に実之助が三代当主として跡を継ぐことを反対していた。

 だが、実之助を三代にすることを悲願としていた澂子(すみこ)様こと落飾した玲萩院(れいしゅういん)様が、ご実家である幕府と実之助の実母・舜子(みつこ)の縁戚である朝廷を動かし、実之助に跡目を継がせることに成功した。この時、玲萩院様の手足となって実際に動いたのが深山であった。玲萩院の代参として、将軍家から幕閣、縁続きの諸藩、果ては京の朝廷まで深山は自ら出向き、頭を下げ、進物を届けた。この功績から、玲萩院は深山の筆頭奉行就任も幕府に願い出、時の将軍家は叔母である玲萩院からの懇願であり、人物にも特段の問題なしとして、深山の筆頭奉行就任を許可した。

 面白くないのは一ノ関殿と三春殿である。

 深山はそれも考慮して、ご領地内の蔵入地のうち、実入りの高い鶯ヶ谷(おうがや)逢馬(おうま)の土地の管理を限定条件付きで、お二人それぞれに託すこととした。名目は実之助が回り切れない領地を代わりに運営するという形であった。ただ、これはあくまで実之助の代理であり、自治権を認めたわけではなかった。幕府もそれを許可した。

 一ノ関殿も三春殿も幕府の手前一応下がったが、腹の中の憤懣はどれくらいになろうか…は想像がつく。お二方は文字通り、呉越同舟というところだろう。今のところは深山を共通の敵として、手を組んでいるようであり、そんなことをしているうちは、お互いが牽制しあって、馬鹿げたことはしないだろう…と深山は考えていた。

(まあ、とりあえずは時間稼ぎだ)

 深山は胸の中で、独り言ちた。もうすっかり、自分の心の中だけで思うことが性分になっている。誰がどこで何を聞いているかわからない。特に国許では危険だった。


「深山、惣右介を呼んでくれぬか」

 火事の一件で倒れてしまった実之助は、あれから十日間寝込んだ。

 そして、今朝やっと起きあがれるようになった…と思ったら、深山を呼びだし言った。

「なりませぬ。まだお体に障りまする」

 深山は淡々として返した。

「惣右介に助けてもらったと聞いている。礼を言わねばならぬ」

「わざわざ、礼を言うまでのことではございませぬ。臣下なら当然のことでございます」

「臣下だからこそ、だ。身を挺して助けてくれたのに、その恩にも報えないなら、当主たる意味があろうか」

 なかなかに正論だ…深山は少し実之助を見直した。

 女子達に甘やかされて奥で大切に育った世間知らずの若殿様…とばかり思っていたからだ。

「ですが、惣右介をお城の中に入れるわけにはいきませぬ」

「何故だ?正月の挨拶には登城させたではないか」

「正月は特別でございます。正月の時期は一種の無礼講。ですが、正月の十日も過ぎ、鏡を開き、初午も終わっております。世の中は常に戻りましておりまする。となれば、惣右介をご登城させるわけにはいきませぬ…何せ、存在しない者なのですから」

「それが良くわからぬ。惣右介は現に生きているではないか」

「生き死には関係ござりませぬ。惣右介というものは『いなかった』のでございます。

 いないものを、いるものとして扱うことは出来ませぬ」

(なんなんだ、これは?)

 実之助はうんざりした。深山は何を考えているかわからないとは思っていたが、ものの通りがわからない人物だとは思っていなかったのに…。

「では、私はどうしたら惣右介に礼を言えるのか」

 実之助は珍しく少し語気を荒げて言った。深山は少し考えてから、

「まずはご自身がお元気になることが先決でございます。ご自身の足で歩き回れるようになりますれば、ご家中の者が皆、御当主様に安心致しまする」

 と。また表情のない顔で言った。実之助は非常に腹立たしい思いで深山の答えを聞いたが、一方で(それはそうであるな、皆を心配させてしまったからな)と素直に思った。

(まずは元気になろう。それが先決だ。そして、自ら惣右介を訪い、礼を言おう)

 そう考えると、実之助は俄然、養生に対して前向きに取り組む気が湧いてくるのであった。

 それからの実之助は日々、しっかりと膳を取り、青嵐城のある山の中を散策し、龍ヶ峰渓谷で大声を出す練習を自らに課した。

 少しずつ実之助の体力が戻り、そろそろご城下まで足を延ばせるのでは…と思った時、蓮臺に積もる雪が降った。


 雪の朝は音もなかった。夜半から降り出した雪が蓮臺平野全てを白く覆った。

(雪か)

 やっと降った雪に安堵しつつ、布団の中で(本格的な寒さが始まるな…)と、惣右介はこの季節の厳しさを思いやった。惣右介の住まいはあばら家だけに、隙間風が入り放題で小滝にはつらい季節だ。

(起きて、水汲みと火おこしをせねば)

 惣右介はむっくりと起き上がり、簡単に身支度を整えた。接ぎのあたった古い綿入れを着込み、裸足に草鞋を履く。そして、まだ誰の足跡もついていない雪の中を井戸に向かう。

 さすがに久しぶりの雪に、裸の足はあっというまに赤くなり、じんじんと痺れてくる。

 今頃は鶴賀谷の村の五作たちも、やはり、雪の中、水を汲みに起きだしているだろう。「笹葉惣右介」だった頃は、こんな大変なことがあるとは考えたこともなかった。笹葉家の小男がやっていたことだったからだ。または幼い下働きの在から来た娘がやっていたのか。何にせよ、跡継ぎの自分の知るものでは無かった。そう思うと、これも世の中というものなのだな…と考え、自分にとって良かったのではないかとも思う。こんなことも知らずして、領地を治めるだなんて、思い上がるにも甚だしい。

 机上の理想を語る学問に走りがちな「武士の学び」に終わらないよう、無学先生は「知行学」にて戒められていたのだろうと思う。惣右介の中には、今でも「知行学」のかけらが残っていた。

 惣右介の家には、今は惣右介と小滝の二人だけだった。あの時、笹葉家は「跡継ぎがいないため」無くなってしまい、家来、女中、下働きの者まで全て暇を出した。その頃はまだ生きていた母の志津が、嫁入りの時に持ってきた自分の着物や道具等を全て金に換え、皆にそれぞれ包んで持たせた。笹葉の家の物は全て蓮臺藩没収となったので、母は自分のものだけで工面したのであった。多分、母は全てを片付けた後、自害しようと考えていたのではないかと思う。今でも母の言葉を覚えている。

「よいか、惣右介殿。全ての者の行き先をしっかりと見届けてから、わが身のことを考えるのですよ。一人でも、笹葉の家のために残っている者がいるうちは、わが身、わが命を自分の勝手に扱ってはなりませぬ。たとえそれが、下働きの娘であろうと作男の老爺であろうと、です。生き恥を晒してでも、最後まで見届ける…それがこのような事態になった時の家臣を持つものの務めです」

 と言った。ひとりでも家臣が残っているうちは、自害してはならぬという事だ。

 そんな母だったが、ある朝、母は唐突に亡くなった。

「少し出かけてきます」

 と言い、特にどこに行くとも言わなかったので、またご城下に金の工面に行くのだろう…と十三歳の惣右介は思った。

 だが、母は戻ってこなかった。清瀬川にかかる三珠(みたま)橋のそば、鹿越坂(ししごえさか)の下で絶命しているのが見つかった。どうも鹿越坂の崖から落ちたらしい…との見立てだった。「お取り潰し」となった笹葉の家のことでもあり、蓮臺藩は検分を詳しくすることも無く、志津の死を事故死とした。惣右介には今でも母はなぜ、そんなところに…という疑問は残っているが、今となっては、全ては終わってしまったことだった。

 父に続いて母まで亡くなってしまった。

 惣右介には田鶴(たづ)という妹がいたが、妹もまだ幼い時に病で亡くなっている。「無刑」の惣右介には、係累は誰もいなくなってしまった。惣右介の元には、ただ一人、母・志津の嫁入り前から仕えていた乳母の小滝だけが残っていた。

 母の形見の懐剣を、懇意にしていたご城下の今井堂の主人に金に換えてもらい、また小滝の今後を託す相談をした。今井堂は快く応じてくれ、小滝を汐ノ壺(しおのつぼ)にある今井堂の舟別荘の留守番女として置いてくれる…と請け負ってくれた。既にこの話は、母からも相談されていたとのことだった。惣右介は安堵した。

 袱紗に包んだ金を小滝の前に置き、

「小滝、今まで笹葉家に仕えてくれて心より感謝する。これはほんの笹葉家からの気持ちだ。こんなことになってしまって、本当に申し訳ない。小滝のことをご城下の今井堂の主人に話したら、少し遠いが、汐ノ壺にある今井堂の別荘に来て頂ければありがたいとの申し出があった。折々の舟遊びの時に使う別荘で、普段は静かだそうだ。偉い方々もいらっしゃることがあるそうで、作法やしきたりがわかっているものがいてくれると心強い…と、日頃から、これは…と思う人物を探していたそうだ。小滝、いかがであろう、そこに行ってもらえぬか」

 惣右介は一気に言った。今井堂からの帰り道、歩きながら何度も練習した言上だった。

 小滝は惣右介の言葉を一言も口を挟まず、聞いていた。

 そして、惣右介が言い終わった後、静かに言った。

「若様、小滝のことをこれほどまでにお考えくださってありがとうございます。若様のお母上、志津様について笹葉家に来て十五年近くになりますが、小滝は笹葉家に骨をうずめる覚悟で参りました。小滝の勝手ではございますが、他家に今更、仕える気持ちはございませぬ。それが裕福な商人の別荘の楽隠居のような役目でも、でございます。志津様亡きあと、若様をおひとりにするわけにはいきませぬ」

「何を言うのだ、小滝!」

 惣右介は慌てた。

「例え、此度の『無刑』とやらの陳腐な刑罰を受けようとも、若様に罪はなく、笹葉の家には全く後ろめたいことなどありませぬ。いつか笹葉の家の潔白が明かされる日が参りまする。その日が来るまでは、小滝は若様の傍でお仕えいたします」

 これは困った。

 惣右介は実は小滝が去ったら、自害するつもりだった。父も母もいなくなり、知行地も取り上げられ、わが身の存在すら無いことにされている。これ以上の生き恥を晒すことなく、自害することが自分の身の始末のつけ方だと、惣右介は決めていた。

「小滝、そなたにはもう十分尽くしてもらった。これからは小滝の思う通り、ゆっくりと暮らしてほしい。そら、常々、北の湯治場に行きたいと申しておったではないか。この金があれば、一生というわけにはいかないが、しばらくはのんびりと湯治が出来るぞ」

「何を馬鹿なことを仰っていらっしゃいますのか。情けない。小滝がそんなことで気持ちを変えるとお思いだとしたら、小滝は悲しゅうございます。若様をお育てしたのは、この小滝ですぞ。遡れば、志津様の幼き頃より誰よりもお近くにてお仕えしておりまする。

 お二人の考えることなど、手に取るようにわかりまする」

 小滝は一息ついてから、惣右介をキッと睨みつけた。

「小滝が去った後、若様はお腹を召されるおつもりではありますまいか」

 小滝は真意を突いてきた。

「私にこれ以上、後悔させないでくださいまし。志津様を失い、ここでまた若様を失いましたら、小滝は亡き初代お館様にあの世で申し訳が立ちませぬ」

 伝家の宝刀を出してくる。だが、それも錆びて斬れなくなってきたからこその「無刑」ではないか。惣右介はそう言いたかった。

「小滝は梃でも動きませぬ。このまま若様のおそばにお仕えして、小滝が亡き皆様に代わり、若様の行く末をお見守り申し上げます」

 惣右介はため息をついた。自害するつもりだったので今後のことを何も考えていなかった。

 自分に「これから」なんて、あるのだろうか。いや、あるとは到底思えない。

「小滝、私と一緒にいてくれるのはありがたいが、今までとは違って暮らし向きは貧しくなるし、私が刑から解かれることは望めん。つまり、小滝の恩に報いることは出来ないのだ」

「若様、情けないことを言って下さいますな。小滝は若様に恩返しをして頂こうだなんて、全く考えておりませぬ」

 小滝は怒っていた。

「若様、小滝は乱世の生き残りの端くれでございます。貧しさも苦しさも一通り、経験をしてきてございます。私のことはご心配召さりますな。乱世を生きた知恵で若様をお支え致します」

「そうは言っても…武士の名分が立たぬ」

 最後の声は、惣右介自身も情けなさでいっぱいだと感じた。己に何が出来ようか。

「若様、生きてくださいまし。生きてこその、この世でございます。若様が元気に恙なく生きることが、まずはあやつらへの復讐の第一歩でございます」

 小滝の言い分に惣右介はびっくりした。小滝はこんなことを考える女人であったのか。

 惣右介自身はお家再興も、復讐も何も考えていなかった。ただ、もうすべての片を付けたら、消え去ることのみを考えていた。

「とにかく、小滝は去りませぬ。この金子(きんす)と舟別荘のお話は小滝が今井堂に返し、お詫びしてまいります。若様、ゆめゆめ、志津様のご遺言をお忘れ召しますな」

 そう言って、小滝は勢いよく袱紗を掴み、出て行った。

 十三歳の惣右介は狐につままれたような気分だった。

「もう勝手にしたらよい」

 惣右介は考えるのをやめた。これが、惣右介が考えるのをやめた始まりだった。


 そして、惣右介と小滝の生活が始まった。

 豊かな三杉の領地を持つ笹葉の跡取りとして育った惣右介は、当初は何も出来なかった。まずは普通に生活する…という事がわからなかった。今までは誰かが膳を用意してくれ、いつも湯が沸いていた。火も竈にはいつもあった。それはそういうものでは無い…という事を、初めて惣右介は実感したのだ。今までは頭ではわかっていたが、実際にやってみるのでは大違いだ。

 小柄な小滝がてきぱきと掃除洗濯、煮炊き水汲みと、くるくると働く傍で、見よう見まねで惣右介も働いた。慣れるまでは大変だったが、日々の生活の中で習慣化されると、難なくこなせるようになってきた。小滝ではなく己がやるべきもの…というものも、惣右介の中では決まってきた。小滝は最初、全てを自分でやろうとしたが、寄る年波に逆らえないことを自覚すると、惣右介にも頼るようになってきた。

 住まいは青嵐城のそばの大きな笹葉の家から、ご城下の端にある清瀬川にかかる鹿追橋(しかおいばし)のそば、募者町のはずれににあった志津の家作に住むことになった。とても小さなあばら家ではあったが、部屋は三間あり、猫の額ほどの畑と井戸もあった。わざわざ清瀬川まで汲みにいかなくても済み、それだけでも有難かった。

 こんな家作を母が持っていたことを惣右介は全く知らなかった。もとはと言えば引退した呉服問屋のご隠居がずっと借りていた…とのことだが、そのご隠居が亡くなってからは長い間住む者も無く、ずっと空き家だったという事だ。これもご城下の今井堂が志津から管理を任されていたとのことで、世話をしてくれた。

 小滝との生活がひと月を過ぎる頃、募者町の家に深山が現れた。

 ちょうど、小滝は今井堂に頼まれた仕立物を届けに出かけており、惣右介はひとりだった。

 見よう見まねで客人に茶を出すと、深山はそれを一服し

「少しは慣れたようだな」と言った。

 惣右介は黙っていた。

 深山に対して複雑な思いを抱いていた。

 父や無極先生と同じく「知行学」を学んでいたのに、一人だけ生きている深山。

 その上、深山は五溺塾の取り壊しまでやったと言う。

 惣右介に対し「無刑」という謎の刑罰を科し、今、生き恥を晒しているのは、元は言えば深山のせいだともいえる。

 一体、「無刑」というのは何なのだ。

 深山の考えがわからない。

「ふむ。今日はお務めを伝えに来た」

「お務め?」

 惣右介は訝しんだ。

 いないはずの自分にいったい何をやらせるつもりなのか。

「御狩場検分の務めを、此度、募者町外の惣右介に任せることとなった。これは月に四回、お狩場を隅から隅まで検分して歩く務めである。多くはないが、扶持米が出される。このお務めを果たすように」

 深山の命令だった。全く収入の当てがない惣右介には否の返事はなかった。この一か月、小滝が仕立物をして、細々と食べることができてきた。惣右介も清瀬川で埋木を拾い、今井堂に持ち込んだりしているが、小遣い程度にしかならない。これから冬を迎えるにあたり、どうしようかと思っていた。一度返してもらった志津の懐剣をもう一度、今井堂に持ち込もうかと考えていたところだった。

「承知いたしました」

 お礼は言いたくない。惣右介は思った。何故か深山もそれは望んでいないような気がした。

「うむ。詳しくは鷹数寄者の矢作鷹仕に聞くように。おぬしのことは伝えてある」

「承知いたしました」

「うむ」

 深山はしばらく黙って家の外の畑を見ている。山鳩が鳴いていた。

「邪魔をした。小滝殿によろしく」

 と言って去って行った。深山は供もつけずに、一人で来たのだった。

 帰ってきた小滝に深山が来た旨を伝え、

「深山様が、小滝によろしく…とのことだった」

 と伝えた途端、

「あの()()()()め!」

 と小滝は憤慨した。

 小滝はどこで覚えてきたのか、「てほ語り」という土地の言葉を覚えていて、深山に対してだけ、それを使った。「うそつき」という意味だそうだ。

「だが、小滝、これで少しとは言え、扶持米が入る…冬が来る前に…良かった」

 と惣右介が言うと、小滝は

「こんなことで…こんなことで…」と悔し気に泣き崩れた。

 そして、惣右介の何の変哲もない判で押したような生活が始まり、今に至っている。

 町人たちは「無刑」に対し意に介さず、どこから聞いてきたのか、いろいろな内職を持ち込んだ。お守り作りに人形づくり、代筆・代書に本の写し書き。蓮台という土地柄なのか、町人も学問を求めるのに盛んで、惣右介の所にはいろいろな書物の写し書きが持ち込まれた。それも表立っては出来ないが、こっそりとやってきては頼んでいく。それで何とか糊口をしのいでいた。

「生きること」が良いことなのか、それともそれ自体が罰なのか。貧乏にあえぎながら過ごす日々に、惣右介は考えることもいつしかやめてしまい、ただただ死なないから生きているだけだった。両親や無極先生に合わせる顔が無いと思っていたのも最初の内だけで、いつしかそれも薄れていった。


 雪が降ると物思いに耽る時間が多くなる。それは実之助も同じだった。

 雪慣れしていない中で、お城のある青嵐山の中を歩くなんて飛んでもないと深山に止められ、実之助はお城の中からぼんやりと雪に埋もれたご城下を見ていた。

 白い雪が眼下に広がり、先日、御野初が行われた鶴賀谷の方までずっと続いている。今、雪はやんでいるが、出歩く者もいない為か、静かだ。

(發子を連れてくればよかった。發子がいてくれたら、いろいろと相談もできたし、こんな日も楽しく過ごせたかもしれない)

 実之助は遠い江戸に置いてきた發子のことを思った。

(發子はこのような雪を見たことがあるのだろうか)

 雪が積もり、こんなに静かな世界にいると、自分しか世の中には居ないような気すらしてくる。いや逆か。自分の存在など、無に等しく、いなくても何も問題がないのではないかと思うのだ。雪や雨が降ると実之助は少々気鬱の質が出てくる。

「気弱なことをおっしゃいますな!發子がついております!」

 いつでも気力充分な發子が力強く言う声が聞こえた気がした。常に發子は傍にいて、影になり、日向になり、実之助を鼓舞してきた。

 実之助と發子、そして惣右介は幼馴染だった。

 もの心ついた時から、發子は養母の玲萩院様の傍に控えていたし、惣右介はご近習候補として実之助の傍にいた。この頃の実之助の世界はこの二人に占められていた。蒲柳の質の実之助に代わって、惣右介が外の世界に行って見聞きしたものを話してくれる。惣右介は実之助にとって、己が耳目と同じだった。惣右介が学ぶものは実之助も学ぶ…という事から、実之助も「知行学」の学徒と言えた。()()()以来、知行学は禁止されてしまったので、表立っては口に出せないが、日頃、実之助は「知行学の何がいけなかったのか」も考えていた。

 そして發子だ。

 發子は…なまじ眉目秀麗、才気煥発だったが為に、実之助の養母・玲萩院、当時の澂子様に幼き頃より見いだされ、先年、実之助の側室になった。

 發子は実之助の乳母である麻裳(あさも)の姪である。

 麻裳は本名を見澤(みさわ)鞆子(ともこ)と言い、京都の名家の出である。もともと幕府に仕えていたのが、縁あって澂子様が篁家に御輿入れされるときに一緒に降ってきたのである。

 麻裳はさすが發子の叔母だけあって、見事な女丈夫であった。実之助自身は幼かったのであまりよく覚えていないが、乳母である以上に実之助の鬼番を務めていた。いわゆるお毒見役である。それは「そもそも」の出来事から始まった。

 実之助が五歳になろうとしていた頃、おやつに頂いた饅頭を池の鯉に分けてあげると言い出した。実之助は幼き頃より、心優しく、分け隔てなく、惜しみなく人にわけあたえるような子供であった。

 御殿の軒よりとことこと庭を走り、実之助が池の端に立つと鯉たちはバシャバシャと跳ね音を立てて勢いよく集まってくる。そして、実之助の目の前で大きな口をパクパクと開けて、おやつをねだる。その様は少し怖くなるくらいだ。

 実之助が饅頭をちぎって、投げ与えようとした瞬間、中でもひときわ大きい「おとらさま」と呼ばれる鯉が跳ね、実之助の手から饅頭を丸ごと奪っていった。

 その拍子に実之助は池に落ちそうになったが、老女の麻裳が慌てて実之助を抱きかかえ、そのまま後ろに倒れた。

 すんでのところで実之助は池には落ちずに済んだ。

「実之助さま!」と一斉に腰元やお女中、お付きの者たちが駆け寄る。

 幸い、実之助に怪我はなく、麻裳を始め、皆がホッとした時

「麻裳さま、あれを!」

 とひとりの腰元が悲鳴のような声で池を指さした。

 池の中央に白いものが浮いている。

 鯉の腹だった。

「おとらさまじゃ!」

「おとらさま」と呼ばれる鯉は、数十匹いるこの池の鯉の中でもひときわ大きく、金と黒の模様が美しい、腹の白い部分との兼ね合いが他には無い立派な鯉だ。間違えようがない。

 すわ!一大事じゃ!と周囲が騒ぎ出すのを

「騒ぐでない!落ち着け!」

 と、麻裳が一喝した。

「よいか、この事は他言無用じゃ。他の者にお前たちは絶対に話してはならぬ。私から奥方様に報告し、今後の事を相談する。よいな」

 有無を言わせず、麻裳は厳しい声で言う。

「今後、実之助さまが召し上がるものは全て、水や茶に至るまで、この麻裳がまずはお毒見を致す。決して、これを違えるな」

 今回の「おとらさま」の一件から、麻裳はひたすら実之助の鬼番に努めた。また、このすぐ後、麻裳が実家の見澤家より澂子様の部屋子見習いとして連れて来たのが、当時五歳だった發子だ。發子は麻裳の兄の娘だった。実之助のことをより近くで守らせるためであった。

 そして、実之助が七歳の折、再び盛られた毒にあたり、麻裳は死んだ。

 死ぬ間際に

「これからは魂魄となって実之助さまをお守りします故、麻裳の葬儀はしてくださいますな。成仏するわけにはまいりませぬ」

 と、澂子様に言い残し、絶命した。そういう経緯もあり、ことさら養母の澂子様は發子を可愛がった。ただの部屋子としてではなく、わが娘のように育て、他家に篁の姫として嫁に出しても恥ずかしくない程に養育したのであった。長じて、かねてからの思惑もあり、実之助の室とした。だが、元々、發子は由緒ある京都の公家の血筋にも繋がる家の出である。發子の実家・見澤家では正室での輿入れを望んだ。ご家中において幕府に届出をするかどうかの合議の最中に、先代様が突然亡くなってしまい、そのまま婚姻の届出を出していない。今は正室扱いの側室だ。記録上、実之助には正室はいなかった。

 実之助も幼馴染の發子は嫌いでは無い。いやむしろ、お互いに良く知っているので安心だ。また、發子の気性もあって頼りになる。御家門・御一家の中で、果ては幕府・幕閣に自分が周囲からどのように見られているかを、実之助は承知しているつもりだ。

 だが。

 実之助は發子の本当の想いは別のところにあるのではないか…と、思っていた。發子が聞いたら、「何を仰るのかと思いましたら」と一笑に付すことだろう。

 そして、いつも言うのだ。

「実之助様、茜胡(せんこ)を弾かれてはいかがですか」

 と。

 茜胡。そうであった、茜胡!茜胡があるではないか。

「たれかある!茜胡を持ってまいれ!」

 実之助の声が青嵐山の御殿の奥で響いた。このところの特訓が功を奏したようだ。

 茜胡は胡琴の名器で、篁家の家宝だ。実之助の生母・舜子が京都より降ってきたときに、ご実家の櫛司家よりお持ちになられたもので、元々は帝の御持物と聞いている。

 本体は応仁の乱の前に隣国の玄から齎され(もたらされ)、我が国に至って、帝の命により胡琴の名手・天竺丸(てんじくまる)という弾き手を得た。この天竺丸がいっそうの響きの良さ・音の深さを求めて胴体の皮を張り替え、今の音に辿り着いたそうだ。壮大な異国の砂漠の夕暮れを思わせる音色…というのが、「茜胡」という名の由来になっている。実之助の母・舜子はこの胡琴という楽器の弾き手であったため、時の帝が舜子ともに篁家に下賜されたのだった。そのため、「茜胡」は篁家の家宝として幕府・朝廷に届出をしている。天下の御行事で胡琴が披露される…というようなときには、この茜胡は篁家から幕府・朝廷に貸し出されることが常である。

 茜胡を久しぶりに手に取る。

 この一年近くは、いろいろと身辺が騒がしく、茜胡を手に取る機会がなかった。

 今、久しぶりに爪弾き、その音色を感じると、もっと早く茜胡を手に取るべきだったのだ、と思った。幼少のときより、実之助はこの茜胡に親しんできた。決して上手い弾き手ではないが、茜胡を弾いているときは現世の憂鬱から離れることが出来る。

 胡琴を実之助に手ほどきしてくれたのは、誰であろう惣右介である。惣右介もどこで覚えてきたのか、ある時、胡琴を携えて現れ、実之助に弾いて見せてくれた。

 それを見た發子が

「それは胡琴でございますね!篁家には茜胡という、名器がございます」

 ああ…と実之助は思った。そう言えば、あったような。まだ幼かった実之助は家宝に全く興味が無かったので、その時までそのようなものがあることを忘れていた。

「惣右介、私も胡琴を弾いてみたい」

 そう言って、茜胡をご近習頭の荒獅子に持ってこさせた。そして、惣右介に茜胡を弾いてもらい、実之助は初めてその茜胡の音色を聞いたのだった。茜胡を弾いた惣右介はその音色に感動し、ぽつりと「あの方にも弾いていただきたい」と言った。それを実之助は覚えている。

 実之助は一向に上手くはならず、いわゆる「下手の横好き」というものだったが、惣右介はなかなかの上達ぶりだった。毎回、弾くたびにうまくなっていくように、実之助には感じられた。

 実之助は、惣右介が胡琴に夢中なのは他にも理由があるのではないか…とも思ったが、それで惣右介の演奏に陰りが出るわけはないので、詮索はするまい…と思った。

(おお、そうだ!惣右介に茜胡を下賜するのはどうだ)

 一瞬、我ながら良い案だ…と実之助は思ったが、茜胡は家宝だ。簡単にはいかない。だが、自分の命というものを助けてくれた家臣に家宝を下賜するのは問題ないのではないか…とも思う。深山に確認せねば…深山は反対するだろうか。

 するだろうな。

 だが、わが家中にあればよいのではないか。茜胡がどこにあるかが明確になっていれば、幕府や朝廷からのご所望の時にも問題なかろう。

(よし、雪が解けたら、自ら出向いて惣右介に茜胡を渡そう)

 そう考えたら、久しぶりに実之助の気分は浮き立ち、明日を楽しみに待つ…という滅多に味わえない嬉しい気持ちを味わった。


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