はじまりのそのつづき
天賞十三年十二月 奥州志信郡 追栄・吾多々良山
奥州は本格的な冬を迎え、戦を休む季節になった。
藤次郎は笹葉松鶴介だけをつれて、再び陣鳥橋に立っている。
大黒ねずみの長、黒脛巾との約束を果たすためである。
既に雪は積り、山の獣も皆眠りに入る時期だ。白く静かな世界の中、藤次郎と松鶴介だけがそこにいた。
当初、藤次郎は自分一人で百足退治に臨まんと腹を括っていた。
(百足と言えば、俵藤太の古来より、まずは弓だろう)
と、人知れず弓の稽古に励んでいたが、それを笹葉松鶴介に気付かれてしまったのである。
「お館様、何を一人でこっそり、弓の稽古に励んでおるのじゃ?」
松鶴介が不思議そうな顔をして尋ねてきた。
藤次郎はバツの悪い思いとともに、「こっそり」と言われたことが腹立たしく、
「その言い草は失敬にもほどがあろう。こっそりではない。武士が弓の鍛錬に励むことの何が悪い?」
と松鶴介に返した。
だが松鶴介は頓着せず、がはは!と笑い、
「悪いとは言っておりませぬよ。ですが、あれほど、ご一緒に弓の稽古を…とお誘いした昔には、既に弓の時代ではない、鉄砲の時代じゃ…と突っぱねられたではありませぬか。そのご当主様が何故、突然…はて、面妖なこともあるものよと、思い申した。御腹立ちなら、お許しくだされ」
松鶴介は邪気の無い顔で明るく言った。
つい腹を立ててしまったことに、藤次郎も後悔し
「すまぬ、お松。これは藤次郎の癇癪じゃ。許せ」
「ははは!お館様の癇癪玉には慣れっこでござる」
「全く、お松には敵わぬな」
藤次郎は苦笑いをする。
「それで、お館様は何を仕留めるおつもりであるか?」
頓着しない…とは言っても、松鶴介は濃やかな男であった。藤次郎の常ならぬ様に、ただ事ではあるまいと気をまわす。
松鶴介は藤次郎が五歳の折にお傍仕えとして選ばれてから、今日までいつも影のように付き添ってきていた。どのような修羅場も一緒に潜ってきている。藤次郎が目を怪我した際にも、松鶴介が駆け付け、藤次郎が我が目を抉るのを一番近くで見ている。実の兄弟よりも深い契りで結ばれており、藤次郎の弟・小次郎よりも近い仲であった。
そして、何よりも松鶴介はご家中のみならず、当代きっての弓の名手であった。
今時の戦では弓は流行らず、時流は大砲に銃といった飛道具である。勿論、松鶴介はそちらも遣い手であるが、弓については那須野流免許皆伝の腕前で、その名は弓遣いの中では今与一として恐れられていた。
「お館様、弓のことであれば、お松に言って下さればよいものを。それを一人でなんて…水臭い。なんでも一人で抱え込むのは、お館様の悪い癖じゃ。それともお松では役に立たたないとお思いか?」
「そうではない、お松。これは…私の約束なのだ。約束を果たさねばならぬのだ」
「どなたとそんな約束をなされたのだ?お松は何も聞いておらぬぞ」
一瞬、藤次郎は躊躇した。
大黒ねずみの黒脛巾の話を、お松は信じてくれるだろうか。
だが、お松は藤次郎と一緒に、あの陣鳥橋での光景を実際に目の当たりにしている。
お松なら…信じてくれるかもしれない。
「お松、先日の陣鳥橋の戦を覚えているか」
「ああ、あの不思議な戦のことでござるか。敵方三万の兵が一晩のうちに消えた…あれでござるな」
「そうだ。あれはな、黒脛巾という大黒ねずみが助けてくれたのだ」
「今、なんと申された?」
松鶴介は目を剥いた。あまりに意外なことだったので、思わず聞き返してしまった。
「うむ。藤次郎の気がふれたと思うかもしれぬが、あの戦はねずみが勝たせてくれたのだ」
「なにゆえ?どうやって?」
矢継ぎ早に、松鶴介が聞く。
「うむ。あの前日の雨の中、私の前に黒脛巾と名乗る大黒ねずみの長が現れたのだ」
「ほう、大黒ねずみの長が…それは『くろはばき』と名乗ったと」
「そうだ。黒脛巾は私にこう言ったのだ。三つの願いを聞いてくれるのであれば、血を流さずにこの戦を収める…とな。私は自分が思いつめて、幻を見ていると思った。それで、願いを聞く…と、つい、言ったのだ」
「つい…で、ござるか」
「まさか、まことのものになると思わなかったのだ。お松だって、この話を聞いてまさかと思うだろう?」
「さようではござるが…それで、そのねずみは何を望んだのでござるか?」
「うむ。まずは藤次郎の統べる地に住まわせてほしいと。大黒ねずみは住んだ地に豊穣を約束するとのことだった。であれば、勝手に住んだらよい、遠慮はいらんと言った」
「確かに、それは喜ばしいことでござるな」
「すると、その為にはこの地に住まう大百足を退治して欲しいと言ったのだ」
「三万の敵を倒せるねずみが、いくら大きいかは知れぬが百足を倒せぬと?」
「三万の敵は知恵で倒せるが、大百足は知恵では倒せないとのことだった」
「そのくろはばきというのは、なかなか乙なことを言うねずみでござるな、愉快なり」
松鶴介は面白そうに笑った。
「お松もそう思うであろう?私もそう思ったのだ」
「それで、見事におねず様が三万の敵を追い払い、お館様と篁家御家中を助けてくださったというわけだ」
「信じるか?お松」
「信じるも信じないも、お松はこの目であの誰もいない戦場を見た。あれを見たら、信じるしかござらん」
松鶴介の返事を聞いて、藤次郎は今度こそ心から安堵した。
「お松が信じてくれて、良かった」
「それで、大百足退治のために弓の稽古をなされておったのか?」
「そうだ、大百足退治には弓を使うと古来から決まっている」
藤次郎の言葉を聞いて、松鶴介は大きくため息をついた。
「お館様、それこそ、お松に命じることであるよ。お館様はご自身の立場をわかっておらぬ。よいか、うかうか生半可な腕で大百足退治に出かけて、万が一、御命を落とされたら、どうされるおつもりだったのか?大殿様からお預かりした篁家ご家中は混乱の極みとなりまするぞ」
松鶴介の余りの正論に、藤次郎は返す言葉も無かった。
「こういう時の為に私ども御家来衆がいるのでござる。この大百足退治、このお松に御命じくだされよ」
「お松、気持ちは有難いが、お前が死んでは私が困る」
「何を仰いなさる。お松は大百足如きでは死にませぬ。お任せあれ」
そうして、また、松鶴介は「がはは」と笑った。
そして、今日になった。
藤次郎は
「お松、ついて参れ!」
と、朝それだけ言い、陣屋から馬を走らせてきた。奥州で育った馬は雪にも強い。
途中、水辺で馬をやすませながら、
「お館様、何処にいるのでござるか、大百足は?」
松鶴介は藤次郎に聞いた。
「私にもわからぬ。もう一度、黒脛巾と会った陣鳥橋に行ってみようと思うのだ」
藤次郎はそこに行けば、解決すると考えているかのようだった。
一方、松鶴介はここに来る道中も、おいおい考えていたが、実はまだ信じきれない。
だが確かにあの朝、敵軍は完全に消えていたのだ。
自分もそれをこの目で見た。
あれが、ねずみのおかげというのか。
事実はともかく、まだ腹に落ちてはいないが…。
だがお館様が言うからには、己が道はただひとつ。
藤次郎から託されて、松鶴介は篁家先祖伝来の大弓を持ってきていた。
お館様の名代として、この弓を使って大百足を成敗するのみだった。
藤次郎と松鶴介が陣鳥橋に立ち、程なくして
「もうし、もうし」
と、突然、声がした。
藤次郎達の前方、橋の向こうに小さな影がある。
藤次郎は、その声を聞いてすかさず
「その声は黒脛巾殿か?私じゃ、藤次郎じゃ。約束を果たしに参った」
藤次郎は大声で言った。
「わかさま、お待ちしておりました」
小さな影は橋を渡って近づいてくる。
果たして、それは壮年の小男だった。鼠色の羽織に鉄甲、脚絆の旅支度の装いをしている。そして何よりも黒い脚絆が全体の中でも印象的だった。福々しい顔をしていたが、やはり、どこかねずみを思わせるその小男はにこにことしながら、二人の前に立った。
「やや!今日は人型でのいでたちであるか」
藤次郎は感心していた。
「わかさま、わざわざのお出まし、ありがとうございまする」
小男は両手を膝に置いて、少し身を屈め、より小さくなりながら、ぺこりと頭を下げた。
その仕草はまさしく、大黒ねずみの長・黒脛巾であった。
「まずは、礼を言わねばならぬ。此度の仕儀、誠に感服仕った。ねずみ殿、この藤次郎、心より礼を申す。この通りじゃ」
藤次郎は両手を膝上に揃え、ねずみに向かって深く頭を下げた。
藤次郎の様子を見て、慌てて松鶴介も真似て頭を下げる。
「わかさま、滅相も無い事でございます。頭をあげてくださいまし」
黒脛巾は武人というよりも、福々しい商家の旦那衆という感じだった。こんな商人を以前、太閤様のお膝元・堺の町でよく見かけた、と松鶴介は思った。
「ああ、ねずみ殿、これにあるは」
「笹葉様、笹葉松鶴介様でございましょう?」
藤次郎が遅まきながら松鶴介を紹介せんとした時に、黒脛巾は松鶴介の名を言い当てた。
「私は大黒ねずみの長・黒脛木と申すものでございます」
「笹葉松鶴介である。お館様のお傍仕えでござる」
「そして、当代随一の弓遣いでいらっしゃいます」
如才なく黒脛巾は言った。まるで本物の商人のようだ。
「なんと、そんなことを存じおるか?」
「そりゃあ、もう。わかさまのそばに常にお松様ありと」
「そうじゃ、ねずみ殿。お松が来たからには、大船に乗ったつもりでおったら良い」
「ありがたいことにございます」
また、黒脛巾はぺこりと頭を下げる。
「ところで、ねずみ殿。あの陣鳥橋でのこと、種明かしをひとつお聞かせ頂きたい。どうやって三万の敵を一晩で消したのだ?」
「大百足にでも喰わせたのか?」
松鶴介が滅茶苦茶なことを言う。
「いえいえ…皆さま方、御自ら、あの場から去られたのでございます」
「え?自ら、と?」
藤次郎と松鶴介は意図せず、声が重なってしまった。あまりにも予想外のことだったからだ。
「はい。私共…あの時、この謀のために大黒ねずみは皆、奥州中から集まってきておりました。三百匹ほどでしょうか…それが、皆、人型になり」
「戦ったのか?」
松鶴介が前のめりに聞いた。
「いや、そうではないな。血は一滴も流れておらなんだ」
藤次郎は戦場の様子を思い出していた。
「はい、私共は戦などは致しませぬ。皆さま方と一緒に飲み食いし、世間話をしただけでございます」
「は?どういうことだ?」
「はい…恐怖と疑心暗鬼、そして里心。これらをついたのでございます。
皆さま方は、遠く故郷を離れてこちらに出張っておられました。夏に故郷を離れられてから、お時間も経っております。また、今回の戦は冬が近づいておりました。
そんな中で、故郷の話を…背後から敵が狙っておるらしい…、留守の間に攻められて、陥落したそうだ、とか。冷害、飢饉に夜盗、女、子どもは攫われて売り飛ばされている…とそのような話とともに、どうも皆様方の大将ご自身は出張るつもりはなく、最後まで日和見されると聞いている…とか。
戦功についてもお身内に厚くされると話をしていらした…と言えば、疲れと飢えと里心で一気に疑心暗鬼になりまする。
もともとが、その場の損得で集まって繋がられた皆様でございます。わかさまとお松様との仲というようなわけには行きませぬ。あっという間にほころび崩れ、皆様、ご自身のご領地が心配になり、我が軍ぐらいはいなくても困るまい…と、一隊が帰りましたら、次々と帰って行かれたのでございます」
藤次郎と松鶴介は唖然としてしまった。
「本当にそれだけか」
「はい」
黒脛巾は涼しい笑顔で言った。
「それは…藤次郎には思いもつかない戦の方法である…」
藤次郎は目からボロボロと鱗が落ちていくような心持になった。
「…そんなことが出来るとは」
「はい。ですが、これは三百の大黒ねずみが各地から持ち寄ってきた情報を基に噂話をした結果。あながち、うそ偽りではないところが、この謀の勝敗の分かれ道でございます。嘘と真の配分の妙と言えましょう。今回、わかさまが大黒ねずみ達の願いを聞いてくださると仰ってくださったからこそ、三百の大黒ねずみは気張ってその網を使い、これらの元を仕入れております」
「ふむ。より一層、感服いたしたぞ、ねずみ殿。『素っぱ』というのは、そのようにも使えるのだな。藤次郎も学ばせてもらった」
『素っぱ』というのは、篁家では間諜、斥候のことだった。
「わかさま、我らねずみは小さく弱いものでございます。ですが、だからこそできるということもございます」
「なるほど」
松鶴介も藤次郎と同様、二の句が継げなかった。これは一種の奇襲戦法であるが、いつでも、誰でも使えるというシロモノではない。
「さて、それではねずみ殿、次は藤次郎の番じゃ。どうすれば、大百足と遭い見えるのか」
「わかさま、ありがとうございます。ここより北に行きますと、追栄という地がございます。吾多々良山の入り口でございますが…その地に大百足は巣くっておりまする」
「ふむ。念のため聞くが、何故、ねずみ殿はその大百足を退治したいのじゃ?」
「はい。その大百足は我らが大黒ねずみを喰い散らかすのでございます…それも特に若い娘ねずみがあやつの好物なのでございます。あやつのせいで、一族のねずみがどれだけ喰われてしまったことか…」
そこまで言うと、黒脛巾は黙ってしまった。
「もしや、ねずみ殿の娘御も…」
藤次郎は思い切って聞いた。松鶴介はじっと見守っている。
「私の娘は十一匹おりましたが、残るはあと一匹となりました。それでも残っているだけ、幸せ者でございます」
「なんと…その最後の娘御が、藤次郎の嫁に、という娘御であるか?」
「さようでございます。世の中で一番強い方のお嫁様にして頂きたく、お願い致しました。若様なら、大黒様の御守護がございます」
「そのような仔細であったか…あい、わかった。嫁のことはともかく、その大百足の無体については見逃すわけにはいかぬ。藤次郎とお松が其奴を退治してくれようぞ!」
藤次郎は松鶴介を振り返り、
「なあ、お松?」
「おうよ、お館様!やらいでか!義を見てせざるは勇無きなり、とはこのことじゃ!」
松鶴介も吠えた。
「わかさま、お松様、ありがとうございます」
「では、その追栄という地に行こうではないか」
こうして三人、いや二人と一匹は雪の積もりつつある山道を北に向かって歩き出した。
一刻ほど歩いたころ、そろそろ追栄というあたりに辿り着いた。
朝早い出立の上に雪道を歩いたこともあって、藤次郎の腹がぐうと鳴った。
すかさず、松鶴介が
「ああ、腹が空き申したなあ…」
と言う。半分笑いを含んだ声ではあったが、これも松鶴介の藤次郎思いの表れである。
黒脛木は恐縮して、
「わかさま、お松様、これは私のお二人へのお気遣いが足りず、申し訳ございませぬ」
「いやいや、ねずみ殿、気にするでない。腹は鳴ったが、ひもじうない。藤次郎は大丈夫じゃ」
何せ、雪の山道である。人通りですらない道であり、茶店などは望めそうにない。腹ごしらえという、肝心なことを怠った己の不覚を藤次郎は後悔した。
その時、バサリ、バサリと音がした。積もっていた雪が叢から落ちる音だった。そして
「弁当をもってきた!」
と、声がした。三人は声のした方に振り向いた。雪の叢の中に若い女が立っていた。
「ばっち!お前!」
いつも穏やかな黒脛巾が叫ぶ。その声には驚きと怒りが混じっていた。黒脛巾の驚きに反応して、雪がどさりと木の上から落ちた。
「おとさま、おふたりさまの弁当じゃ。温かい茶もある」
その娘は、整った顔立ちをしており、黒目勝ちの大きな眼が光っている。黒髪を頭の上でぐるぐるに巻き上げ、動きやすそうな恰好をし、背負い籠を背負っていた。日焼けした肌は無駄な肉が無く、白い前歯が印象的だった。
(これが、ねずみ殿の娘御か。野趣に満ちていて、活き活きとしている)
と、藤次郎は感心した。正直、「人型なら…」とは言ったものの、ねずみの娘とは想像もつかなかったのである。
「美しい娘御であるなぁ」
と、藤次郎の心中を知ってか知らずか、松鶴介が漏らした。松鶴介は黒脛木の言った三つ目の願いをまだ知らない。
「ばっちよ、何故、来た!」
黒脛木は怒っている。娘は雪の叢を掻き分け歩いてこちらに来、藤次郎の十歩ほど前でぴたりと立ち止まった。
「もちろん、弁当を届けに」
娘はにこりともせずに言う。
「馬鹿な。弁当は追栄に届けるように、五穀に申し付けたはずだ」
「五穀様より、預かってきた。おふたかたは、我らと違って体が大きい、追栄まで、お腹は保つまいと思うて…そうでございましょう?藤次郎さま」
「気安く、わかさまをお名前で呼んではならぬ!」
黒脛木が今度は叱りつける。
そして、藤次郎に向き直り、消えいりそうに身体を小さくして、
「わかさま、とんだ醜態をお見せしまして、申し訳ございませぬ。これが…申し上げにくくなってしまいましたが、我が娘の『ばっち』でございます」
藤次郎はそれを受けて、笑いながら
「ばっち殿、藤次郎でござる。お気遣いを忝い。確かに腹が鳴ったところであった」
ばっちは、視線を藤次郎にしっかりと合わせて、物おじすることも無く
「それは間に合って、良かった。五穀様の弁当じゃ。きっと、人のお口にも合いましょう」
「遠慮なく、馳走になろうぞ」
それを聞くと、ばっちは背負籠の中から包みの二つ取り出して、藤次郎と松鶴介に手渡す。
藤次郎が受け取ると、その包みはまだ温かかった。
「なんと、まだ温かいではないか!」
つい、嬉しさが声に出た。温かい飯自体、今の藤次郎と松鶴介にはご馳走である。
「ああ、温かいものは温かいうちに…というのではないか?人の世界では。だから、出来立てを五穀様より貰い受けてきた。茶もある」
そう言って、今度は松鶴介に竹筒を渡した。松鶴介は軽く会釈をして受け取った。
「これ!お前が注いでお渡しするのじゃ!」
またもや、黒脛巾が叱る。
「よいよい、ねずみ殿。自らの方が、我らも気楽だ。ばっち殿、お気遣いは無用じゃ。それに我らは黒脛巾殿に助けて頂いた身ゆえ、本来はこちらが気遣わねばならぬ、すまん」
「ふうん…なかなか、おわかりでいらっしゃる。よき殿御でございますな、藤次郎さまは」
ばっちは今度こそ、にこりとして言った。
「これ!」
と、黒脛巾は泣きそうな顔だ。
「あははは!黒脛巾殿、安心召されい!お館様は、変な女人がお好みでござる」
破顔して松鶴介が言った。今度は藤次郎が慌てた。
「お松、変なことを申すな!ばっち殿に失礼であろう」
「変で結構。ねずみを嫁に貰うなど、余程のもの好きであるからには、お互い様じゃ」
ばっちは「変な女人」と言われたことを意にも介していない様子で言った。
藤次郎と松鶴介は雪を払って座り、弁当包みを開けた。そこには温かい大きな握り飯がふたつと小さなわっぱに入れられた大根の煮物、大蒜と煎り酒で焼いた魚の切り身が入っていた。そして、わっぱの端の方に己が好物の紫蘇巻を見つけ、藤次郎は嬉しくなった。
「おお、これは美味そうじゃ!頂き申す」
早速二人は文字通り、食らいつく。
「さあ、お使いは終わったのだ。おまえはさっさと帰るがよい」
黒脛巾は冬なのに、汗をふきふき言った。
「おとさま、何を言っている。あたしの役目はこれからじゃ」
有難く弁当を食べていた藤次郎、松鶴介は、ばっちに目を遣った。
「あたしが行かなければ大百足は出てくるまい。あたしが囮になる」
「なんだと!」
黒脛巾は、今度こそ卒倒しそうな勢いだった。
「馬鹿な…おまえは私の最後の娘だ。お前がいなくなったら…」
「おとさま、何を言う。あたしは黒脛巾の娘だ。今、あたし以外に誰が大百足の前に立てる?二河様、三国様、四海様、五穀様、六合様の娘様達をこれ以上、犠牲にはできぬ。それで、おとさまは姉さまたちを囮にされたのであろう?であれば、次はあたしだ。そして、あたしで終わりだ。その為に、藤次郎さまにお願いした。そうじゃろう?」
「…ああ。だが」
黒脛巾は逡巡していた。
ばっちの言うとおりであり、それ以外方法がないことも本当はわかっていた。大百足を確実に誘き出すには、ばっちが囮になることが一番である。大百足には娘ねずみは匂いでわかるのだ。ばっちの姉たちも自ら大百足と相対することで、他の大黒ねずみを守ってきた。だからこそ、ばっちを囮に使うのだけは避けたいと思い、今日は自らが囮になると腹を括ってきた。他に餌の豊富な季節ならばいざ知らず、この冬の時期なら、年老いたねずみですら、あやつにはご馳走であろうと踏んでいる。
すでに息子の一天には後のことを言い含めてある。自分が死せば一天が後を継ぎ、そして六匹の大黒ねずみの代表から次の黒脛巾が選出されることだろう。心残りはひとつ、このばっち娘のことだけだったが、藤次郎がこの娘を嫁に貰ってくれると言ってくれた時から、腹は決まった。
「案ずるには及ぶまいぞ、ねずみ殿」
藤次郎は立ち上がって言った。
「ばっち殿の心意気には、藤次郎、いたく感じ入った。藤次郎とお松が命に代えてもばっち殿のことはお守り致す」
藤次郎が胸を張って言うと、すかさず、松鶴介が立ち上がり、
「お館様!それはならぬ!お松がお館様とばっち殿のことをお守り致す」
「わかさま、お松様…」
まだ黒脛巾は迷っている。
「ほれ、おとさま、おふたりも、こうおっしゃっている。それに、あたしにとっては、おとさまの犠牲で生き永らえるより、大百足に喰われるほうが、ずっとマシじゃ。それこそ、黒脛巾の娘に生まれた甲斐もある。ましてや、おとさまを囮にすることを許したもののお嫁になるなど、まっぴらごめんじゃ」
ばっちは、きっぱりと言い切った。
(いや、大黒ねずみとは言え、見事にあっぱれな娘御だ。これだけ気骨のある娘は、人であってもなかなかおるまい)
藤次郎は目の覚める思いがした。藤次郎には正室も側室も既にいたが、このような気質の女人はいなかった。母の斧姫も強い女子ではあったが、また気質が違う。
(本当に人でないのが惜しいものじゃ)
藤次郎にとって、やはり、ばっちは「ねずみ」なのだった。
藤次郎、松鶴介、ばっちに半ば押し切られた形で、黒脛巾は渋々、ばっちの申し出を了承した。もともと藤次郎を見込んでの話である。藤次郎と当代一の弓の遣い手・松鶴介を信じて臨むしかなかった。
「それでは、皆で追栄に参りましょう」
黒脛巾は気を取り直して二人と一匹を連れ、前に進むことにした。
一行は追栄についた。追栄は日本武尊も湯治したと言われる湯のある地でもある。そんな地に大百足が巣くうなんて、藤次郎も松鶴介も当初は信じられなかったが、
「大百足は硫黄の気を好むのでございます」
との黒脛巾の言葉に納得したのだった。
「ふむ。では、大百足をさっさと退治して、追栄の湯にでも浸かりましょう」
と、松鶴介はにこやかに軽口をたたいた。そんな松鶴介を横目でちらりと見て、ばっちは
「頼もしい事じゃ」
と皮肉っぽく言った。
藤次郎はそんな二人に気がつかないふりをして
「さて、ここからが肝心じゃ。とにかく、大百足にお出まし頂かなければ始まらぬな」
「ねずみとはいえ、若い女子が好きで、温泉好き、と。…ときたら、やはり、酒か?酒盛りでも致しまするか?」
松鶴介がいうと、
「我らが酔ってしまっては、退治どころではなくなってしまう。祝杯まで慎め、お松」
「残念…」
と、本当に残念そうに松鶴介は答える。
「だが、酒は良き考えかもしれませぬ。あたしが酒樽ともに、追栄の山を登っていくというのはどうか?」
「だが、大百足というからには、一樽ぐらいでは、間に合わないのではないか」
「それなら、五穀に樽酒を十樽ほど調達させよう」
黒脛巾はそう言うと、瓢を胸元から出し口を開け、それに向かって
「五穀よ、追栄の坂上まで木天蓼を一樽と、ねずみ酒を九樽持ってまいれ」
と言った。その様子を藤次郎は興味深く見る。
すると、今やってきた道の向こうから、がらがらと荷車がやってくる音がした。二台の荷車に樽が五つずつ積まれ、それを屈強な人足が前に二人後ろに二人、四人ずつで引いている。
「やや!仕事が早いでござるな」
松鶴介が感心していうと、
「それは大黒ねずみでござるからな」
と、ばっちは(当たり前だ)という顔をして言った。
荷車の後ろから、雪の中だというのに黒紋付を着込んだ男がついてきていた。荷車が止まると、黒紋付は藤次郎の前に進みでて、ぺこりと頭を下げた。黒脛巾よりずっと若い。
「わかさま、お初にお目にかかります。大黒ねずみの五穀と申します。お目にかかれて、こうえいしごくにぞんじます」
最後は棒読みになっていた。慌てて覚えてきたのかもしれない。
「これは五穀殿。丁寧なご挨拶を忝い。先ほど弁当も馳走になった。とても美味であったぞ!握り飯の米の炊き具合、大根の煮つけ、煎り酒で焼いた魚、全て美味かった。そなたは我が陣に連れて帰りたいくらいの料理上手である」
「お褒めに預かり、ありがとうございます。紫蘇巻はいかがでございましたでしょう?」
「おお!とても美味であった!紫蘇巻は藤次郎の好物である」
「そう伺っておりましたので用意させました。お気に召して頂き、ようございました」
五穀はまたぺこりと頭を下げた。そして、黒脛巾に改めて向き合い、
「黒脛巾様、ご所望の酒を持ってまいった。木天蓼の量だけ、お気をつけて頂きたい。特にわかさまやそちらの『人』の方々には」
「承知した。五穀、感謝する。これから、あやつを誘き出す。早く皆を連れて帰られよ」
ちらりと五穀はばっちを見て、
「ばっちも残るのか?」
「ああ!あたしは残る。黒脛巾の娘だからな」
心もち、ばっちは胸を反らして、鼻を膨らましたように見えた。
藤次郎は
(面白い女子だ)
と愉快に思った。ばっちの答えを聞いた五穀は諦めたような顔をして、
「そうか、ばっちの決めたことだ、そうするがいいな…わかさま、どうか、ばっちを守ってやってくださいませ」
今度は深々と丁寧に頭を下げた。
「承知仕った。ばっち殿の命は藤次郎とお松が引き受けた、安心なされよ」
五穀はまた無言で頭を下げ、それでは、と荷車と人足を連れて帰って行った。
黒脛巾と松鶴介が樽の中を確認している間に、藤次郎はばっちと二人になった。
「大黒ねずみは仲間思いなのだな。ばっち殿のことをあんなに心配するなんて」
「ああ、あれは元、あたしの許嫁だ」
「許嫁!良いのか?」
藤次郎が驚き、聞き返すと
「ああ、いい。ねずみの娘はたくさんいる。だが、黒脛巾の娘、一天の部族の娘は、今はあたし一匹だ。それに五穀様はもともと姉様達の許嫁だ。一匹ずつ死んで、順繰りに番が回ってきただけだ」
いや、あの五穀というのは、ばっちに気持ちが残っているように見えた…と、藤次郎は言おうかと思ったが、すぐに思い直してやめた。この娘の心構えと、あの五穀という大黒ねずみでは釣り合わない様に思えた。
「わかさま、酒の確認が出来ました」
黒脛巾がこちらを振り向いて言う。
「藤次郎さま」
ばっちがこちらを向かずに名を呼んだ。
「なんだ?」
「必ず、大百足を仕留めてくだされ。生贄は、黒脛巾の…われら一天のものだけで、十分じゃ」
「おうし、約束した」
藤次郎はばっちの凛とした背中に答えた。
朝早く出立した…と思っていたが、既に日は陰り、夕暮れ時になっている。
二樽ほどの酒を周囲に撒き散らし、かぐわしい香りでそのあたりを一杯にした。残りの酒樽の口は大きく開けられ、それらの酒は撒き散らしていないものの、香りだけで酔っぱらってしまいそうだった。
冬の日入りは早く、まだ申の刻頃だというのに、既に真っ暗になりつつあった。
「きたぞ、あれだ!」
と、ばっちが吾多々良山の山頂に向かって指さした。
それはまるで松明が二、三千本も連なって動いているかのようだった。二列の隊列を組んで、松明はぐねぐねと蛇行しながら山を降りてきている。実際に火が燃えているのか、そこだけが異様に明るくなっていく。
藤次郎も、松鶴介も、黒脛巾も息を詰めていた。
ばっちはひとり、真ん中に置かれた木天蓼の酒樽を前にして腕を組み、厳しい顔をして仁王立ちしている。
大百足が酒の匂いを嗅ぎつけたのか、松明の隊列の動きが早くなり、まっすぐにこちらに向かってくる。どんどん辺りが明るくなり、ずりずりと地を這う音も大きくなってきた。
そして、道の向こうにそれは現れた。
大百足だ!
皆の息をのんだ音が聞こえた気がした。
胴体は酒樽を三つも重ねたほどであろうかという大きさ、長さは松明の隊列が未だ山頂で輝いているのではないかという状態だ。思っていた以上の大きさだった。
松の助は大弓に矢を番える。
大百足は酒と…ばっちを見つけて
「おおお!」
と咆哮を上げ、まっすぐにこちらに向かってきた。
ばっちはキッと大百足を睨みつけたまま、仁王立ちしている。
大百足がすぐ目の前まで突進してきて、大口を開いた瞬間。
ばっちは、その口に木天蓼の酒を樽ごと突っ込んだ。
思ってもみなかったばっちの馬鹿力に、藤次郎は驚愕する。
大百足は樽をそのまま飲み込み、大きく横に倒れこんだ。
すっくと松鶴介が立ち上がり、
「いまじゃ!」
と、一の矢を放った。それは「びゅん!」と強い音を立てて、大百足に向かっていったが、かん!と高い音を立てて、跳ね返された。
すかさず、
「今度こそ!」
と二の矢を射掛けたが、二の矢も「かん!」と跳ね返されてしまった。
大百足は木天蓼の酒に酔ったのか、ふらふらしている。だが、それでもじりじりと右に左に胴体をくねらしながら、ばっちとの距離を詰めてきている。大百足が近づくにつれ、辺りはどんどん熱くなり、酒の香りも高く、雪は解けていく。夏どころではなく、灼熱の炉の前に立っているようだった。
松明と見えたのは大百足の足であり、その足は燃えていた。大百足の目も真っ赤に燃えている。その燃える火の照り返しで、ばっちの姿は赤く明るく輝き、特にばっちの両の目はきらきらと輝いているようだった。
ばっちはそのまま、そこから動かず、大百足を睨みつけ仁王立ちしている。
「喰えるものなら、喰ってみろ!」と態度で挑発していた。
(なんと、美しい…藤次郎も負けられぬ)
藤次郎も刀の柄に手をかけ、構える。
(次の矢が最後じゃ…迷信なれど)
松鶴介は、三本目の矢に「降魔の力がある」といわれる唾をつけて、大弓に矢を番える。
ずりずりとなおも大百足はばっちに近づき、ばっちの頭を呑み込もうと上体を持ち上げたところに、
「南八幡大菩薩!」
と、松鶴介が三本目の矢を射った。
「ごす!」と鈍い音を立てて、矢は大百足の眉間を射抜いた。
「ぎゅわあん」
と、大百足は咆哮してのけぞる。大百足の咆哮は吾多々良山の山間に響き渡った。
そして、どすん!と音を立てて、力なく倒れた。
「でかした、お松!次は藤次郎がまいる!」
藤次郎は大きく勢いをつけて大百足の口に刀を横に入れると、そのまま山を駆け上って水平に切り裂き、上下二つ身にした。縦に切ると、百足は数が増えるだけだ…と聞いていたからである。最後の『開き』によって、大百足は絶命し、ぱちぱちと音を立てていた足の火もぷすぷすと消えていった。
辺りは再び静かな夜となった。
山の上から、藤次郎が大股で戻ってきた。
「わかさま!ありがとうございました」
黒脛巾は藤次郎に駆け寄り、地面につくのではないかと思う程、深く何度も頭を下げた。
「いや、ねずみ殿、今回はばっち殿とお松のおかげである。藤次郎は後始末をしたまでよ」
藤次郎は苦笑いで、黒脛巾の礼に応える。
藤次郎は本当にそう思っていた。
(此度、自分だけだったら、このように首尾よく運ばなかった…)
今回のことで、藤次郎は仲間の大切さというものを深く感じていた。
いつも自分は「大将たるもの毅然として、ひとりで全てを背負わなければならぬ。負けてはならぬ、侮られてはならぬ」と肝に銘じていた。だが、自分の弓の腕では到底、大百足に命中させることは出来なかっただろうし、何よりも、ばっちの存在が無ければ大百足退治は無理だった。
(自分一人で…とは、とんだ藤次郎の思い上がりだったのだな…恥ずかしい)
そう思いながら、藤次郎は山道を降りてきたのだった。
「お松、ばっち殿」
藤次郎は声をかけた。
「お館様、ここに」
「ばっち殿は、お怪我は無いか」
「はい、ございませぬ」
ばっちは何事も無かったかのように、ぴょんぴょん跳ねながら闇の中をやってきた。
「それは、良かった。此度は、お松の弓とばっち殿の勇気があってこその勝利である。藤次郎、まことに心から感服致した。藤次郎は良き友を持って幸せ者である」
「お館様、勿体無いお言葉でございます。お松は、自分の得意なことをしたまでのこと。まずはお館様とばっち殿をお守りできたことに安堵しております」
「いや、お松は藤次郎には過ぎたるものよ、礼を言うぞ」
いつもと違う藤次郎の柔らかく殊勝な物言いに、松鶴介は戸惑った。だが、それは悪いものでは無かった。
「そして黒脛木のねずみ殿」
「はい、わかさま」
「そなたは、まことに強く美しい娘を持って、三国一の幸せ者じゃな。人にもこんな良き女子はいない」
「わかさま、ありがとうございます」
黒脛木は泣いていた。
「藤次郎さまも、人にしては信に値する良き殿御じゃ」
ばっちは笑顔で言った。白い歯が月明かりに光った。
「これ、また、そのような物言いをして!」
黒脛巾が慌てる。藤次郎と松鶴介は笑った。
「もう今日はこれで、ひとまず仕舞としよう。藤次郎も疲れた。黒脛巾殿も,お里で皆様が心配して待っているのではないか。早く帰って、安心させてやるがよい」
黒脛巾は、父親の顔から大黒ねずみの長の顔に戻り、
「わかさま、お気遣いをありがとうございます」
そう言って、いつものようにぺこりと頭を下げた。
「本日はお言葉に甘えさせていただきます。お二方にはここを少し下ったところに佐波古という湯治場がございます。そちらにて今宵はお休みくださいませ。五穀が酒とお召し上がりものをお持ち致します」
「なんと、五穀殿が!それは楽しみじゃ、また美味いものが食えるのじゃな!」
藤次郎の目が輝いた。
「まったく、お館様は色気より食い気でござるな」
松鶴介が笑った。
ふたりの様子を、ばっちはじっと見ていた。
後日、改めて挨拶に参上致します…と頭を下げて、黒脛巾とばっちは闇に消えていった。
次の日、藤次郎と松鶴介は朝早く目が覚めてしまった。夕べの興奮が冷めきれず、眠りが浅かったせいもあった。それで、五穀の御馳走の残りを朝飯代わりに腹に入れると、昨夜の戦場の後を見に行くことにした。
一晩経ってみると、まるで何事も無かったかのように静かであった。だが、戦場に近づくにつれて、まだ酒の香りの名残と、野火の後の様な匂いが漂っていた。冬の夜のせいなのか、その後、誰も通らなかったと見えて、全てはそのまま…ではなかった。
肝心の大百足の死体が無いのである。
「お館様、大百足の骸が見えませんぞ」
あれだけの大きな死体である。
一晩で誰かがどこかに持っていくとして、それは大仕事であろう。
「さては、ねずみ殿たちが片付けたのか?」
藤次郎はそう考えた。であれば、酒樽なども片付けるだろうに…。
「お館様!」
先に大百足が倒れた辺りを見に行った松鶴介が、向こうから藤次郎を呼んだ。
「どうした、お松!」
「お館様、ここに!」
「え?」
藤次郎は駆け寄った。
すると松鶴介が地面を指さした。
そこには二つ身になった大百足が、干からび、すっかり縮んで大人の片腕ほどの長さに小さくなってしまっていた。二つ身ゆえか紙のようにペラペラだった。
「これは…あの大百足か?」
「さようでございますな。二つ身でございますからな」
「なんと…誰かが、夕べ通っていたら、そこの酒のつまみにしてしまったかもしれぬ」
藤次郎がとぼけたことを言ったのを聞いて、松鶴介は、
「そんなことをするのは、お館様くらいでございましょう」
と言って、二人で笑った。
「変わり果てた姿になってしまった…ふむ、本当にスルメのようじゃな」
ひとしきり笑った後、藤次郎がしんみり言うと、
「お館様、お願いがございます」
突然、松鶴介が膝まずいて言った。
「お松、なんじゃ、申して見よ。此度の働き、見事であった。褒美を取らす故」
「では、この百足を頂きとうございます」
「あ?このスルメをか?」
藤次郎は気が抜けた。
「はい。これを頂きとうございます。今日の証に笹葉の家の前立てに致します。
お館様とともに妖と戦った証でございます。
これから、数多の勇猛な武将と戦う機会が参りましょう。
その時にこの百足を見て、勇気を奮い起こしまする。
また、お館様にも思い出していただきとうございます」
真面目な顔をして松鶴介は言った。
「そうじゃな。私の前立てはもう皆が存じおる。旗頭として、変える気はない。
そなたの前立てとは良い案じゃ。よし、お松、そなたにこのスルメ…ではなく、大百足の干物と、此度、我が名代として扱った大弓を遣わす」
「はは、ありがたきこと、笹葉の家宝に致しまする」
「ははは!笹葉の前立てはスルメか!おもしろいのぉ!」
藤次郎は楽しそうに腹の底から笑った。
松鶴介はそれを見て安堵した。緊張が続いていた藤次郎が、陣取橋の時以来、心から楽しそうに笑ったのを見たからだ。余裕が出てきたのであろう。
(此度の大百足退治にて、お館様は変わられたかのかもしれぬ、良き方に)
幼き時から藤次郎に仕え続ける松鶴介にとっても、それは嬉しい事であった。
松鶴介は元・大百足の干物を拾いあげ、大切に油紙に包み持ち帰った。そして、領地に帰ってのち、膠で固め、その上から金泊を貼ったものを前立てとした。
それからというもの、戦場で一際光輝く金の百足を「あれが篁の昇百足よ、笹葉の昇百足が来よったわ!」と恐れられるようになるのは、これから後の話である。
「それでは、お松、我らも陣に帰ろう。皆が心配しているに違いない」
藤次郎はそろそろ憂き世に戻る頃合いかと、松鶴介に言った。
「さようでございますな。思ったよりも手間がかかりましたからな」
松鶴介もねずみ酒に心残りはあったが、そろそろ帰るころ合いかとは思っていたので、藤次郎の言葉に従った。
二人が追栄の道を降っていくと、道の真ん中に人影が見えた。
「藤次郎さま、お松様、お待ちしておりました」
それはばっちだった。旅支度をしている。
「ばっち殿ではないか、どうした?黒脛巾はどこにいる?」
「おとさまはいない。あたし、ひとりだ」
「ばっち殿、ひとり?どうした?」
藤次郎が問うた。松鶴介は二人のやり取りを黙ってみている。
「あたしは、藤次郎さまの嫁になることに決めた」
「ああ?」
藤次郎と松鶴介は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「あたしは藤次郎さまの嫁になる。おとさまにそう言って出てきた。だから、お二人と一緒に行く」
「嫁になるとは…意味が分かっているのか?黒脛巾にきちんと話を聞いてきているのか」
「ああ、聞いている。おとさまが、三つ目の願いとして、藤次郎さまにお願いしたことも知っておる」
「あまり乗り気ではなさそうだったが…」
藤次郎は昨日のばっちの様子を思い出して言った。別に藤次郎も無理やり嫁にする気も無かったので、本人にその気がなければ、この三つ目の願いにこだわるつもりはなかった。
「そうだ。それに昨日までは大百足に喰われてやろうと思っていたから、この話は無いと思っていた。でも」
「でも?」
面白そうに松鶴介が挟んだ。
「昨日一緒に戦ってみて、良き殿御だと思ったのだ。だから、嫁になろうと思った」
藤次郎は困った顔になった。
だが松鶴介は、これは良い縁なのではないか、と思った。この娘は、藤次郎に今まで欠けていたものを思い出させてくれるのではないかと思えたからだ。藤次郎の良き面を知って、嫁になる…というのは滅多にあることではない。そして、藤次郎自身もこの娘の良さを既に十分知っている。問題があるとすれば、実はねずみだ…ということくらいであろう。
「お館様、一緒にお連れしていったらよろしいのでは?お松は良き縁かと思いますぞ」
「ふむ」
藤次郎は煮え切らなかった。
この野趣に満ちた娘がお城の中で大人しくできるとは思えなかったからだ。
「それは、ばっち殿にとって、本当に良きことなのだろうか」
それを聞いたばっちは、
「それはあたしが決めることだ、藤次郎さま。藤次郎さまが悩むことではない」
ときっぱり、言い切った。
「ばっち殿は、いつでも言い切るのだな…」
「ああ、あたしはなんでも自分で考えて、自分で決めたことしか言わないからな」
藤次郎はばっちの言葉に眩しいものを感じて、
「わかった、それでは、一緒についてまいれ」
藤次郎はお伽噺の中の娘を連れて、現世に戻っていった。




