おねず、宣言する
小滝が逝ったのは、一面白く光り輝く静かな新年の朝だった。
大晦日の夜に、蓮臺に積もる雪が降った。年の暮れに笹葉の家の玄関に飾られた念願の門松に涙して感激し、ひととき、調子が上向いたが夕刻に容体が急変したのだった。
小滝が亡くなった時、惣右介は新年の挨拶の為にお城に上がっており、傍にいたのはおねずだけだった。
「おねずや」
微かに目を開けて、小滝はおねずを呼んだ。おねずは小滝の意識がなくなってからずっと、傍についていた。小滝に呼ばれたおねずは、嬉しさのあまり飛び上がって、
「こたきちゃま!いま、みず、もってくる!」
と立ち上がろうとした。それを小滝は制した。
「よい…おねず、どこに」
小滝は手を伸ばして、おねずを探していた。
「こたきちゃま、あっちはここだ!」
おねずは小滝の手を掴んだ。小滝は安心したのか、微笑んだようだった。
「ああ、おねず、そこにおったか」
おねずは小滝の手を両手で握った。
「おまえには楽しませてもらいましたよ。お前が来てからの月日、なんと楽しかったことか」
「こたきちゃま!」
「若様とふたりになってからは、望むべくもないと思っていた笑いに満ちた日々であった。お前のおかげだ。おねず、ありがとう」
小滝の声がだんだんと弱っていく。小滝の手の力も弱くなっていった。
「こたきちゃま!そうちゅけどんが、もうすぐかえってくる!まってて!」
おねずはどうしたら良いのか、わからなかった。
「もう、私はよいのです、お前がいるから。私は安心してゆけるというもの。人生の最後にこんなに大きな喜びがあるとは思っていなかった」
「こたきちゃま!だめだ!」
「わか…さま、をよろしく…た、のみ…ます…よ、かわいい、おねずや」
小滝の身体の力がふっと抜けて、ふわりとやさしくあたたかいものが、おねずの頭上を通り過ぎていった。
「こたきちゃま!こたきちゃま!こたきちゃま!」
おねずは必死になって叫んだ。だが、黄泉の国へと旅立ってしまった小滝の魂には、届かなかった。
そして、人から魂が去っていくということはどういうことなのかを、おねずは初めて目の当たりにしたのだった。
惣右介が帰宅した時には、おねずがひとり声を上げて泣いていた。
今朝、お城に上がる前に意識の無い小滝に挨拶をして、
(死に目には会えないかもしれぬ)
と惣右介は覚悟を決めていた。だから、おねずの声が玄関の外に聞こえてきた時には
(ついに来たか)
と覚ったのだった。
「ただいま、帰った」
惣右介はわざと何でもない風を装って、家の中に入った。
惣右介の姿を見るなり、おねずは走り寄ってきて
「そうちゅけどん、こたきちゃまがいっちゃったぁ!そうちゅけどんがかえってくるまでまって!っていったのに、いっちゃったぁ!」
泣きじゃくりながら、惣右介に噛り付いてきた。泣きすぎて声が掠れていた。
「そうか、おねず…小滝はいったか。お前はひとりで小滝を見送ってくれたんだな」
おねずの背中をとんとんと叩いてやりながら、
「おねず、ありがとうよ。小滝も寂しくなかったろう、お前がいてくれて良かった」
惣右介の本心だった。小滝を一人で逝かせなくてすんだ。もう、惣右介にはそれだけで十分だった。
最初に、惣右介は玄関の門松を片付けた。
「そうちゅけどん、こたきちゃまがたのしみにしていたのに、とっちゃうの?」
「ああ、悲しいことがあった家には、これは飾っちゃいけないんだ」
「そうなんだ…ねずみじょうどのいりぐちは、いつもかざってあるよ」
おねずが言った。
「ねずみ浄土の入り口には門松があるのか?」
「うん、そうだ。いつもある」
「そうか。ねずみ浄土には悲しいことがないのだな…」
惣右介は力なく微笑んだ。ひとしきり泣いたおねずも、やっと落ち着いてきたので、のろのろと惣右介を手伝った。惣右介もおねずもその日はどうやって過ごしたのか覚えておらず、ただただ、小滝のそばに二人とも座っているうちに日が暮れ、夜は更け、次の朝が来た。
翌日、蓮臺のご城下は正月の初売りで賑わっていた。今年はご当主様が参勤で江戸にいらっしゃるので、御野初は無い。元旦に御国詰めのご重役と簡単なご挨拶がお城であったぐらいで、去年とは打って変わってのんびりとしたお正月である。
初売りがひと段落したところで、と、二日の夕刻に今井堂の番頭・新左衛門が今井堂の代理で年始の挨拶にやってきた。新左衛門は途方に暮れたようになっている惣右介とおねずの姿を発見して、慌てて人の手配をし、葬式の準備を始めてくれた。
惣右介自身はおねずと二人でこじんまりと供養するつもりだったのだが、募者町の家でやるとはいえ、思いがけず大掛かりなものとなってしまった。新左衛門が今井堂の肝煎として心配りをしてくれたからだった。
次から次へと弔問の客が来るので、喪主の惣右介は慌ただしく対応している。こんなに知り合いがいただろうかと思うくらいの弔問客の数だった。
その間、おねずは今井堂から来た女中たちに
「お嬢様はどうかお部屋でお休みください」
と言われ、体よく追い払われてしまった。だが、部屋といっても、元々が大きい家ではない。おねずがひとりぼんやりできるような部屋はなかった。
ひとりになったおねずは、久しぶりに裏のぶらぶらに乗っていた。小滝が寝込んでからというもの、ぶらぶらに乗ることもなかった。久しぶりのぶらぶらは、何故か小さくなった気がした。
今日は雪は降っていないものの、一面に昨日の雪が残っており、ぶらぶらにも最初、雪が綿帽子のように積もっていた。
おねずはそれを素手で払い落とし、腰掛けてみた。ぶろぶらを漕ぐには、周りの雪もかかなければならない。だが、今はそんな気になれなかった。
だから、ぶらぶらに座ってぼーっとしていた。
綿入れや藁沓を履いていたが、氷室の中にいるようだった。
(いつも)
おねずは思った。
(いつも、あっちがぶらぶらにのっていると、こたきちゃまが、みにきた。そうちゅけどんがいないときには、ないちょでいっちょにのった。こたきちゃまは、とってもたのしそうだった)
今にも、その家の裏木戸から、小滝が出てくるような気がして、おねずは一生懸命、想像した。想像出来たら、小滝が戻ってくるかもしれない…そんな祈りにも似た思いだった。
(こたきちゃまはいうんだ、おねず、あじゅきがたけましたよ!って)
小滝が優しくも凛とした声で、おねずのことを呼ぶ。それを想像したら、涙が自然とぼろぼろとこぼれてしまい、止まらなくなった。
(ここにきてから、あっちはあんまりなかなくなったのに…)
おねずはため息をついた。
(また、あっちはなきむしになっちまった…)
そうして、小滝の葬儀はおねずの知らないところで始まって、終わった。やっと解放された惣右介がおねずを探しに来た時には、おねずはぶらぶらに座ったまま眠っていた。
おねず、と声をかけようとした惣右介は、おねずの頬に涙の痕を見つけた。そして、そのまま黙って、おねずを抱き上げた。おねずの身体はすっかり冷え切っていて、
「おねず、かわいそうなことをした、すまん」
それは、一年前におねずがここにやってきた晩を惣右介に思い出させた。
「あ、そうちゅけどん」
惣右介の声でおねずが目を覚ました。
おねずは惣右介が抱き上げてくれていることに気を良くした。
惣右介の着物からは、葬儀の香の匂いがした。
「すまん、おねず、寒かったな。早く中に入って温まろう」
「あっちは、そうちゅけどんがあったかいから、だいじょうぶだ」
おねずは嬉しそうに笑った。思いのほか、おねずが元気だったので、惣右介は安心した。
「おねず、あとは小滝をお墓に入れてやったら、それで終わりだ。あともう少しだ。あともう少しで、お前はねずみ浄土に帰れるからな。あと少し、待っててくれ」
「うん」
惣右介の言葉を聞きながら、おねずははっきりとわかった。
(あっちは、ねずみじょうどにかえりたくない。そうちゅけどんとずっといたい。やっとわかった。それがあっちののぞみだ、かみちゃま!)
神様はおねずの望みを叶えてくれると言った。
(かみちゃま!どこにいるんだ?あっちののぞみをかなえてください!)
おねずは心の中で叫んだ。
「そうちゅけどん、おねがいがある」
「なんだ、言ってみろ」
「かみちゃまのところにつれていってほしい」
惣右介は困ってしまった。
「おねず、どうもお前の言う神様…星見屋の爺様は、星見屋のお堂が火事で焼けた時から、行方知れずなんだ」
「ユキカタシレズ?」
「ああ、どこにいるかわからない。ただ、火事で死んだという証拠も無い」
「ちょうか」
おねずは眉を寄せて考えていたが、
「きっと、かみちゃまは、ここでのやくめがおわったんだ」
「やくめ?役目か?」
「ちょうだ、やくめだ。だいこくねずみもやくめがおわると、いなくなる」
「でも、ねずみ浄土にはいるんだろう?」
「ねずみじょうどはだいこくねずみがうまれて、かえっていくところ。やくめがあるときは、そのとちにいるって、ととさまにきいた」
「そうか…」
では、初代お館様の前に現れた黒脛巾たちが蓮臺に住まず、ねずみ浄土にいるのもそういうことなのだろうか。蓮臺での役目は終わったということか?
「そうちゅけどん、あっちはかみちゃまをさがす!」
きっぱりとおねずは言った。そこには、小滝が寝込むようになってから、久しく見ることのなかった鼻を膨らませたおねずがいた。
その勢いに気圧されて、惣右介は
「そうか」
というので精いっぱいだった。
小滝を埋葬したのは、お焚き上げの日を明日に控えた一月の十四日だった。
この日は惣右介とおねずの二人だけで、蓮臺のご城下からは遠く離れた笹葉家の旧領・三杉にある笹葉家の菩提寺に小滝を葬りに来た。
この墓所には、惣右介の祖父・笹葉不曲、父の左馬之助、早くに亡くなった妹の田鶴、そしてもちろん、母・志津も眠っていた。
一月にしては暖かく、山の上の寺から、笹葉家の墓地に向かう参道に鳩が二、三羽降りてきたが、おねずは鳩を構わなかった。おねずはさすがに涙が枯れ果てたのか、この日は涙を一粒もこぼさなかった。
笹葉家の墓地に小滝が葬られるとき、おねずはぎゅっと惣右介の手を握り締めた。全てが終わって、寺男もいなくなった時、ようやくおねずが口を開いた。
「そうちゅけどん、これはなんだ?」
「お墓だよ、笹葉家のだ。ご先祖様や、御爺様、父や母、妹が眠っている」
「こんななかにねてるの?」
「うーん、寝てないな。死んだ後、入っている」
「そうか、だから、こたきちゃまもここにはいるのか」
おねずは納得しているようだった。
「そうちゅけどん、いもうとってなに?」
「兄妹だよ。自分より小さいきょうだいのことだ。いもうとは女の小さいきょうだいだ」
すると、おねずの顔が輝いて、
「あ、じゃあ、あっちもいもうと?」
「うーん、それは違うなぁ。父と母が同じなら、きょうだいだ」
「なんだ、いもうとなら、ここにいっちょにいられるのに」
お根津ががっかりしたのをみて、
「なんだ、お前ここに入りたいのか?小滝は血がつながっていなくても、一緒にいる」
「え、そうなの?じゃ、あっちは?」
「お前が入りたいなら、入れてもらえる様にお願いしておこう。妹、ということで」
そう言うと、惣右介は懐から紙を取り出し、書き付けた。
「さあ、これをこの寺のご住職に渡せば万事取り計らってくれるだろう」
惣右介は書付をおねずに渡す。
おねずはじっと、惣右介のくれた書付を見つめて、
「そうちゅけどんのいもうとは、もう、しんだの?」
「そうだ」
「そうちゅけどんより、ちいさいのに?」
「そうだ…田鶴は七つになる前に、突然、死んでしまった」
珍しく、惣右介がしんみりした声で言った。
「おとさまも、おかさまも?」
「そうだ」
「だれがいきてるの?」
「誰も生きていない…小滝も死んでしまったからな」
「だれも?…そうちゅけどんも?」
惣右介は「ん?」と思ったが、
「…そうだなぁ、まあ、生きているような、死んでいるような…そんなところだ」
「そうなんだ」
お根津は眉根を寄せていた。
「じゃ、これからはあっちがいるよ」
「お前、その気持ちは嬉しいが…」
惣右介は一瞬、考えてしまった。
だが、意を決して
「おねず、明日でちょうど、お前が現れてから一年だ。お前をねずみ浄土に帰してやる時が、やっと来た。長い間、待たせてしまった。すまん」
「そうちゅけどん…」
おねずは、一瞬、おびえたような表情をした。
惣右介はそこに蹲踞の姿勢で座り込み、まるで今から切腹でもするかのように
「さあ、お前の好きにしていいぞ。俺の魂を持っていけ!」
と目をつぶっておねずに言った。おねずは答えない。
「どうすればよいか?俺が切腹すればよいか?」
おねずは困った。
結局、魂の奪い方はわからないままだったのだ。
それに…。
おねずは言葉に詰まってしまった。
「どうした、おねず?この日の為に、お前は俺のそばにいた。俺にしてみれば、お前には、本当に世話になった。特に小滝の最後については、感謝してもしきれん。ありがとう」
惣右介はおねずに頭を下げた。惣右介の姿を見て、おねずは後ずさりした。
「あっちは…」
惣右介は黙ったままでそこに直り、おねずの指示を待っている。
「あっちは、そうちゅけどんのたまちいなんかいらない!」
おねずは叫んだ。
「おねず、何を言っている?」
「そうちゅけどんのたまちいはいらない!」
惣右介はあまりのことに呆気にとられた。何を突然、言いだしたのか。
「いらないっていったら、いらないんだーっ」
おねずが叫ぶ。
「お前、そこまで言わなくても…」
惣右介は何だかよくわからなかったが、おねずの剣幕に開いた口が塞がらなかった。
「あっちは、かみちゃまをさがして、ねがいをきいてもらうんだ。そう、やくそくしたんだ!」
雪の林の中に、おねずの叫び声が吸い込まれていった。
どこかで、木に積もった雪がどさりと落ちる音がした。
惣右介は深いため息をついた。
「そうなのか…。わかった、お前の好きなようにしたらいい」
蹲踞の姿勢から立ち上がって、惣右介は袴をはたきながら言った。
「お前がまた、俺の魂が必要になったら、そのときは言え。俺の魂はお前のものだ」
惣右介がせっかくそう言っても、おねずは蛸のように赤く膨れたまま、口を尖らしていた。
「そうちゅけどんのたまちいはいらない、それじゃ、だめなんだ」
とだけ、おねずは言った。




