惣右介の命(さだめ)
おねずが星見屋の爺様に話を聞いていた間、惣右介と荒獅子はお互い距離を取って杉木立の根元に座っていた。ずっと黙ったきりで、この気まずい時間は永遠に続くのではないかと、二人ともに感じていた。
「ちょうちゅけど~ん!かみちゃまが、ちゅぎはちょうちゅけどんだって!」
二人の緊張した均衡を破るかのように、おねずの声がした。
おねずは胸に手を当てたまま、不格好に走ってくる。
「なんだ、おねず、胸がどうかしたのか?」
「かみちゃまに、むねにてをあてて、あっちのこころをきいてみよっていわれた」
「お前、星見屋の爺様に言われた意味はわかってるのか?」
「わかんなかった!でも、たまちいをうばったら、ゆがんで、うちゅうをちゃちゅらって、かげのうちゅいおんなのひとになるって」
「なんだそれ?」
「かみちゃまが、ちょういった。ひどうのことをちゅるなっていった」
「ふうん」
惣右介は思案顔になった。
「ちょいでねぇ、かみちゃまはおとちゃまのことをちってた!」
と言うと、おねずは嬉しかったのか胸に手を当てたまま、くるくるとその場で旋回った(まわった)。
「そうか、良かったな」
おねずには優しくそう言い、惣右介は荒獅子の方に向かって
「荒獅子様、どうぞ行かれてください。私はこのまま、おねずを連れて帰ります」
「いや、笹葉殿、それは」
荒獅子が固辞しようとした時、すかさず、おねずが
「かみちゃまが、ちょうちゅけどんの ははちゃまのことを、おはなちちゅるからっていってた」
「母上の話?本当に爺様はそう言ったのか、おねず?」
「うん。だから、ちょうちゅけどんのばんだよ」
惣右介は地面を見て考え込んでしまった。自分の事であれば、今まで通り、そ知らぬふりをして帰ってしまえばよかった。だが、母の事というのは、聞き捨てならない。一体、今更なんだというのだ。母の不審死の事でも、教えてくれるとでもいうのか。
「笹葉殿、これは行かれた方が良いのではないか。其処許の母君は、あの時…」
荒獅子が心底、心配している声で言った。惣右介はこの時初めて、荒獅子をしっかりと見た。荒獅子は何も言わずに、ただ頷いた。
「わかった。おねず、ここで待っていてくれ」
「わかったでごぢゃる」
おねずは胸を押さえて言った。
「あ、でも、たか…」
惣右介もアッと思い、
「そうだった、荒星が辺りにいたな…」
二人の様子を見た荒獅子が(これは出番!)とばかりに、
「笹葉殿。おねず殿、安心されよ。おねず殿は某がお守り申す。さ、笹葉殿も疾く行かれよ」
「あらぢちちゃま、ありがとうでごぢゃる」
「荒獅子様、忝い。それでは」
惣右介はおねずを荒獅子に託して、急ぎ足で杉木立の間に向かって行った。
惣右介が去り、おねずが不安そうに空を見上げるのを荒獅子は見ていた。
(この娘御は笹葉殿の親類なのか。確か、あの時に笹葉家はご当主の左馬之助殿も奥方の志津様も亡くなられたはず…。ご親類も無く、惣右介殿だけだったはずだが)
おねずは相変わらず胸に手を当て、首が折れてしまったのか思うくらい、頭を後ろに倒し、ぽっかりと口を開けて空を凝視している。だが、肝心の鷹は影も形も無かった。
「おねず殿は鷹が嫌いなのか?」
「たかはこわい で ごぢゃる」
「鷹が怖いのであるか。何か、怖い思いをされたのか?」
「たかは、あっちをちゃらって、たべようとちゅるんだ。ちょれでいちゅも、あっちをねらって、どこかでみてるんだ」
「おねず殿を攫って食べる?それはかなり大きな鷹ということでござるか?」
「ちょうでごぢゃる。まえにちゃらわれて、ちょらのたかいところまで、いった」
「なんと!それでは、鷹が怖いというのも、さもありなん」
荒獅子には信じがたいことだったが、今日はライのこともあったので、なんでも信じられるような気がした。
「おねず殿は幼き身でありながら、怖い目にあったのでござるな」
「ちょうでごぢゃる」
荒獅子の言葉に、おねずは大まじめに答えた。
惣右介は叢を抜けて、星見屋の御堂前に立った。
「母のこと」と言われて来てしまったが、今更、何の話があるというのか。半信半疑な気持ちが御堂の扉を開けるのをためらわせていた。
母・志津の最後については、惣右介自身も釈然としないものをずっと持ち続けている。あの日、志津は三珠橋を渡り、鹿越坂を上がっていったのは、一体何のためだったのか。そして、崖から落ちるような何があったのか。何よりも、何故、藩主・篁家の血筋につながる母の死が、詳しい吟味無しに「事故死」として扱われて終わったのか。父や無極先生の死と繋がり無しには、実際のところは考えられない。だが、全ては封印され、惣右介は存在しないものとなった。
惣右介が御堂の前で逡巡していると、中から扉がゆっくりと開いた。
「どうした?入って参れ、惣右介よ」
御堂の中から、星見屋の爺様の声が響いた。外からは逆光になって中は見えない。まだ胸の内にはグズグズとしたものを抱いていたが、惣右介は御堂の中に足を踏み入れた。
「母の話をきかせると聞いた」
惣右介は固い声で言った。星見屋の爺様もおねずの時とは打って変わって、真面目な声で
「うむ、そうじゃ。もっと早うに話したかったが、お前はわしの言葉を受け付けなんだからな」
(そりゃ、そうだろう、てほ語りの爺様め)
と、心の中で惣右介は毒づいた。
「扨と。どこから話したら良いかのう。お前には伝えなければならぬことが一杯ある」
「母のこと、と聞いた。母のこと、とはなんだ?」
「そこから行くか。仕方がないのう。まずは扉を閉めて中に入れ」
星見屋の爺様はそういうと、おねずの時と同じように神像の前に座った。扉が閉まり、外の光が無くなると、御堂の中は明るくなった。
「惣右介、そこに座れ」
渋々と惣右介は言われた通りに座った。
「単刀直入に言うが…惣右介、そなたの母上、笹葉志津様は事故死ではない」
(やはりそうであったか)
と惣右介は思った。薄々は感じていたので、星見屋の爺様に言われたところで、今更驚きも無く(やはりな)と思うだけだった。
「そうだろうと思っていたが…事故死でなければ、何なのだ?」
「謀略である。蓮臺藩の存続にまつわる謀略のため亡くなられたのだ」
「母は巻き込まれた…ということか?」
「いや、志津様本人が狙われたのだ。巻き込まれたのは、お前の父・左馬之助殿や五溺塾の埜口無極殿の方じゃ。そして、左馬之助殿や無極殿は、お前を生かすために亡くなられたのだ」
惣右介は、星見屋の爺様の言っている意味がわからなかった。
母と自分を無きものにして、何が得られるというのか。
無極先生や父ならば話は分かる。人々への影響力は多大であり、いろいろと思惑のある方々には目障りな事もあっただろう。だが翻って、あの頃の自分はただの前髪だてだ。そして、母は確かに初代お館様の血を引くとはいえ、すでに臣下に嫁したただの夫人である。母を無きものにせんとする謀略とは、いったい何が目的なのか?
「俺や母を亡き者にしたところで、何が為せるというんだ?」
「蓮臺藩の今の姿…じゃろうな」
「…実之助が三代目藩主となることか」
「ふむ、それも入っておろうな」
「では、実之助を三代目にするために、母や父、無極先生は亡き者にされたというのか」
惣右介はそうは言ったものの、それは前から噂されていることでもある。
「ことはそう簡単なことではない。いろいろなもの達のいろいろな思惑が絡んでおる。特に実之助殿については、通常の理の中では生きてはおらぬ」
(え?)と惣右介が思った瞬間、爺様は強い口調で
「聞け、惣右介。お前の父や母には、再三、申し伝えておったことがある。お前はこの先、名を遺す。約束の時が近づいておるのだ」
「約束の時?」
惣右介は眉根を寄せた。
「今までお前は表舞台からは退かされていたが、いよいよ、その時が来ているようだ。ただ、お前が名を遺すのは、良き名ではないとされている」
「良き名では無い?では悪名か?」
「そうかもしれぬ」
「そうかもしれね?明確ではないのか?」
「そうじゃ。何と言っても、ここで読めぬ駒が現れたでな」
「読めぬ駒?」
「いや、ねずみというべきか」
「…おねずのことか?」
「そうじゃ。おまえの許に大黒ねずみが、それも黒脛巾の娘が現れた。この意味するものは、この蓮臺の土地では明白じゃ。だが、それではお前自身の贖捨の葉の予言とは相容れなくなる」
「おねずが現れた事と、俺の贖捨の葉の予言?」
今まで、ひたすら星見屋の爺様の話を拒絶してきた惣右介だったが、ここに来て俄かに興味が出て来た。
「爺様、俺の贖捨の葉の予言とは何なんだ。おねずがうちに来たことに何の意味がある?」
「やっと、聞く気になったか」
星見屋の爺様は深いため息をついた。
「もっと早くに聞いておれば、こねずみが現れた時にいろいろとわかったであろうに」
「おねずは、俺が呪を掛けたせいで、ねずみ浄土を追放になってしまった。それでねずみ浄土に戻る為に、俺の魂を奪いに来たのだ。それに一体何の意味がある?」
「ふむ、そうだな。それはわしもこねずみから聞いた。こねずみはどうも黒脛巾と篁家のかかわりを知らぬようだったのう」
「おねずはねずみ浄土から外に出るには、まだ小さすぎたようだ。大黒ねずみたちの言う選択の年齢というやつにもなっていなかったらしい」
(可哀そうなことをした…)
改めて、惣右介は思った。毎日、おねずがいる生活にすっかり慣れてしまい、それが普通になってしまっていたが、おねずはねずみ浄土に帰りたいのだ。何とかしてやりたいとは思うが…小滝がいるうちは、惣右介も自由に魂をおねずにやってしまうわけにはいかない。
「惣右介、そなたの乳母殿からは何も聞いておらんのか」
「小滝から?何を、だ?」
「初代お館様と黒脛巾の話だ」
「蓮臺や篁家、そして笹葉の家にとっては、大黒ねずみは特別であり、大切にしなければならないとは聞いている。初代お館様が…俺にとっては、母方の爺様になるが…若い頃、絶体絶命のところを黒脛巾に救われたとか…」
「そうだ。して、その後のことは?」
「黒脛巾は褒美として蓮臺の土地に住まうことを許され…」
いや、大黒ねずみたちは蓮臺の土地ではなく、今はねずみ浄土にいるではないか。ねずみ浄土とは蓮臺なのか?惣右介はこの事実に初めて気づいた。だが、それを振り払うように
「だが、しょせん、大黒ねずみの話はお伽噺なんだろう?爺様」
「では、おねずの存在は何とする?」
「それは…」
「ライの存在は?お前も今日、その目で見たじゃろう?」
「ああ…」
「良いか、惣右介。全ての世界はひとつではない。いくつもの世界が重なり合っておるのじゃ。それを同時に見ることもできる者もおれば、己の見たい世界だけを見ているものもおる。そして、自分の見ているものだけを信じているということに気づかん」
「爺様、それはどういう事なんだ?」
「昔の惣右介であれば、すぐに分かったであろうに。すっかりさび付いてしまったな」
爺様は哀れんだ口調で惣右介に言った。
「まあ、怒りも悲しみも感じなければ、身の内も熱くならぬ。そうなれば、頭の内の油も凝固し、血のめぐりも悪くなる。頭も回らなくなるというものじゃ。使わなければ錆びるということじゃな。この年月、お前は父・左馬之助殿の刀こそ手入れしてきたが、お前自身の手入れは何もしておらんのではないか?惣右介」
惣右介は言葉を返せなかった。
「惣右介、お前に至ってはお前が見るべき世界すら見ておらぬ。お前の命のことである」
「…そんなものを知らなくても、生きてはいける」
「惣右介、本当に今のお前は生きていると言えるのか」
爺様は冷静に言った。
「…」
「お前、わしにこんなことを言われて、本気で腹が立たないのか。悲しいことだ。今のお前にとって、わしへの怒りなぞ、自分の中に押し込めてしまえるくらい小さなものになっておる。それくらいではお前の心は動かないくらい錆びついてしまっておるのじゃなぁ」
惣右介は、ただただ爺様を睨みつけた。睨みつけることで精いっぱいだった。
「よしよし、怒ることは今のお前には良い事じゃ。おまえは気を抜くと、すぐに死んでしまうからのう」
「…爺様、肝心な事はひとつとして、話していない」
「確かにそうであったな。こちらに参るが良い」
星見屋の爺様は立ち上がり、惣右介を誘いつつ、神像の裏側へと回った。
惣右介が自分の脇に立ったのを確認すると
「今から、惣右介、おまえの贖捨の葉を取り出す」
と、そこに置いておいた三叉の槍を手に取り、「ソ」の掛け声とともに、神像の台座の裏側を再び槍で突いた。パンと台座の上部が跳ね上がり、その中に暗闇が広がっているのを惣右介は見た。
「惣右介、覗いてみよ」
星見屋の爺様は言った。惣右介は爺様の言うことを聞くのは本意ではなかったが、その中を覗き込んだ。
中には、先ほどおねずが見た時と同じように「宇宙」が広がっていた。暗闇かと思う世界に、星が瞬き、霧が渦巻いては流れていく。音は無く、暗闇の底の方では、彗星が尾を引いて走っていった。そうか思うと、小さな花火のような爆発もそこかしこに見える。
「これは…一体」
「これは、宇宙というものじゃ。うにばあすとも言うな」
「宇宙とは昔、渋川先生の淮南子のご進講の時に出て来たが…こんなところにあるものなのか?」
惣右介はわが目を疑った。
「こんなところ、だからだ。お前のこねずみは宇宙を知っていたぞ」
「え、おねずが?」
思いがけない星見屋の爺様の言葉に、惣右介は爺様の顔を正面から見てしまった。
「そうじゃ。こねずみはのう、この中をたったひとり…一匹で歩いて、この世界に来たそうだ。小さな生き物ながら、立派なもんじゃ」
「宇宙を歩いて?」
「うむ。ねずみ浄土とこの世とは宇宙の中の坂道でつながっていたと言っていたぞ」
(こんな中をおねずは一人で歩いてきたのか)
惣右介は改めておねずが歩いてきたという宇宙を見やった。
「では、肝心なことに取り掛かるぞ」
再度、星見屋の爺様は槍を逆手に持ち、
「笹葉惣右介の贖捨の葉よ、そこにいるならば、上がってまいれ!ソ!」
という掛け声とともに、槍を宇宙の中に突き入れた。すると霧のようなものが槍にまとわりつき、爺様はそれを槍でかき混ぜる。槍の動きに従ってぐるぐると白い霧が動く様子は、
(まるでしまゐやのとろろのようだ)
と惣右介は思った。いつの間にか、爺様は槍を両手で持って
「よっこらしょ」
と言いながら、大儀そうにかき混ぜている。
「爺様、大丈夫か。俺がやったほうが良いのではないか?」
「うむ、お前にしては殊勝な心遣いは有難いが、これだけはわしがやらねばならんのじゃ。これが出来なくなる時は、わしのこの役目がおしまいの時じゃ」
爺様はぐうるぐうると槍を回しながら、「お!」とか「ん?」とか言っていたが、
「よし、これか!」
と言うと、「ソ!」の掛け声とともに槍で改めて霧の渦を突いた。
「ほうれ、これじゃ。おまえの贖捨の葉じゃ」
白い霧の渦の中から槍を引き合あげると、その三叉の刃先にはやはり先ほどと同様に朴の葉が刺さっていた。
「わしも久しぶりに見るが…果たして昔見たままだろうかのう」
ひとりごとのように爺様は言った。
爺様が朴の葉を取り上げると惣右介は上から覗き込んだが、小さな文字が並んでいるのがわかっただけだった。
「爺様はこれが読めるのか?」
「そうだな、これでも星宮の宮司だからな。これは理史の文字という。理史の文字は他の者には読めん…」
爺様は惣右介の贖捨の葉をぶつぶつと言いながら、目で追っている。それを惣右介は居心地の悪い思いをしながら見ていた。
長年、拒否してきたものだが、今、目の前でそれが告げられようとしている。
それも、この贖捨の葉のお告げのせいで両親も恩師も亡くなり、自分は全てを失った。自分の運命を知りたがり、それを聞いて歩く人々がいることは知っている。それを否定するつもりは無い。だが、自分自身の今の状態を振り返ると、この状況を幼い時に知ったところでどうだったというのだ。かえって、将来こうなることがわかっていたら、何もかも投げやりになってしまったのではないかとも思う。浩然三年を迎える前までの自分には世界が輝いて見え、明日を迎えるのが楽しみだったような気がする。今は全て遠い思い出になってしまったが、両親が幼い自分の耳に入れまいとしてくれたのは有難いことだったのではないか…などど、惣右介はぼんやりと考えていた。
「ふうむ、なるほどな」
星見屋の爺様は読み解き終わったようだった。
「惣右介、それでは聞かせるぞ。そこへ直れ」
爺様はそう言って、改めて惣右介に向き合った。惣右介も一応、姿勢を正して爺様に相対する。
「本来ならば、密祐筆が書き留めることではあるが、今日は直接に解いて聞かせる。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
一つ咳払いをして、爺様は始めた。
「歓永十五年
登百足の家に両面のもの生まれるなり
時に鬼
時に仏
または時に破壊
時に再生
そのどちらの顔を見せるかは時のみぞ知る
彼の者 生まれ出ずる国の為に
名を残せしこと 生まれし時より約されしことなり
然れども
時満ちるまでは長き冬を眠ること蝉の如し
約束の時来たりなば、彼の者の命さだまれり
約束の時とは
生まれ出ずる国に天命に背きし王生まれる時なり
彼の者 本願を達成せんと願いし時
贄により
大黒天の守護得られずんば
光り輝いて果てるなり」
星見屋の爺様は一気に読み上げて、そして大きく息をついた。
「それだけか、爺様?」
肝心の惣右介は狐につままれたような気分になった。一体、これの何が笹葉の家を崩壊させるに至ったのか、理解に苦しんだ。いつもなら、わからないことがあれば
(ああ、俺はほでなすだからな)
で済ますところであったが、今回はそれで済ますわけにはいかない。
「そうじゃ、これで十分じゃ」
爺様は澄ました顔で言う。
「いったい、何を言ってるんだ?蝉の如しとかなんとか」
「うむ。まず、笹葉の家の兜の前立ては何だ?」
「笹葉の爺様の兜は天に向かって上る百足だ…登百足の家は笹葉のことだとわかるが、その後がさっぱりわからん。両面とはなんだ?」
「ここに書いてある通りじゃ。仏であり、鬼である。それは破壊であり、再生でもある。つまりそれだけの力があるものが、生まれるということであるな。惣右介、お前のことだ」
惣右介は馬鹿馬鹿しくなった。
「今の俺を見て誰がそう思うか、爺様。そんな力があるならば、こんな体たらくにはなってないと思うが…」
「その力を見せるのは約束の時が来た時だ…と書いてあるではないか。それまでは地中に埋もれる蝉の時期ともな」
「だが、このお告げのせいでそうなったんだろう?それって本末転倒ではないか」
「それも内に含めての贖捨の葉じゃ。このお告げを知ったものが我が利を得んために利用し、あの騒動を起こしたのだ」
「実之助を三代様にするために?」
「実之助殿はあのままでも三代様になっておったであろうよ。焦点はそこではない。約束の時が来た時、おまえは仏になるのか、鬼になるのか、破壊をもたらすのか、再生に努めるのか、と書いておろう。まだ、未知のものであるのだ。そして、どちらであってもお前の為すことは、後世に残るのだ」
「こんな…募者町の惣右介ごときに何が出来る?俺には何も無い。存在自体が無いのだからな。良くて、己が命をおねずにくれてやって、おねずをねずみ浄土に返してやることくらいが関の山だ」
「惣右介よ、取り違えるな。こねずみが欲しがっているのは魂である。命ではないぞ」
(どんな違いがあるというんだ。俺にはどちらも同じで無用の長物だ)
心の中で惣右介は毒づいた。
「で、そのおねずだ」
「おねずがどうした?」
「あのこねずみは黒脛巾の娘だ」
「くろはばき?」
「黒脛巾をおまえは知らないのか」
「知らん」
そういえば、自分はおねずのことを良く知らないのではないか…と惣右介は気がついた。
「黒脛巾とは若き日の初代お館様の窮地を救った大黒ねずみだ。笹葉の家にも縁が深い話であるぞ。おねずの父はその何代目かではあろうが…後ろ足の膝から下が黒いため、黒脛巾と呼ばれておる」
惣右介は(あ!)と思った。
「そのねずみなら、俺は見たことがある」
「何!黒脛巾がお前の前に現れたか?」
「俺と言うか…俺と実之助の前に、だ。俺と実之助が野火に遭難した時に、その脛の黒い大黒ねずみが現れて、俺たちを助けてくれた」
「助けてくれたじゃと?それはいつのことじゃ?」
「今年の御野初の時だ。その時におねずにも出会った」
「助けてくれたとは、お前を、か?それとも実之助殿を、か?」
「どちらも、だ。野火に囲まれてもうおしまいかと思った時に、大黒ねずみの大群が歌をうたって地中に洞があることを教えてくれた」
「ふうむ。まさに大国主尊の故事じゃな」
「ああ、まさかとは思ったが…そして、その脛の黒い大ねずみが去り際に小さく畳んだ皮を落としてくれて、それを頭から二人で被って穴の中で火をやり過ごすことができた」
ああ、そういえばそうだった。
惣右介は改めて、あの日にあったことを思い出した。あの日は不思議なことばかりだったではないか。通信凧のことといい、大黒ねずみのことといい、何よりもあんなお狩場の端に実之助が倒れていることですら、不思議と言えば不思議だった。そして半年が過ぎた今でも、何も解明されていないのだ。不思議なことはあの日から始まり、人外のおねずがやってきて、一緒に暮らしている。そして今日はライだ。
(いつの間にか俺は常の人の世ではない世界に生きているのではないか)
ふと、そんな気がした。
「そうか、黒脛巾がのう…それはお前がもっているのか?」
「ああ。土間にほかしてあるが…」
「罰当たりな。それは火鼠の皮衣じゃ」
「ひねずみのかわごろも?」
「お前、古事記は読んでも、物語は読まぬのか?」
「古事記は矩長先生の御進講で学んだが…」
「この日の本のものがたりの祖と言われておる、なよたけの姫の話にでてくるじゃろう?火鼠の皮衣とは、表は火に焼けず、裏を返せば姿を隠せるという代物じゃ。武家の身であれば、教養のひとつとして嗜んでいただろうが…」
(そういえば…)
蓮臺藩のお国許で行われた雛の節句に妹の田鶴と招かれたことがあった。なんでも西の御方ご直々のお招きとのことで、小滝が大騒ぎで田鶴を飾り立てていたような覚えがある。
田鶴は確かもうすぐ七つという時だったであろうか。
西の御方というのは、西の丸御殿におすまいの初代お館様の御長女であり、惣右介と田鶴の母・志津にとって年が離れた姉君でいらっしゃる大為爾様のことだった。つまり、惣右介達の伯母にあたる方だ。その西の御方から、物語の絵巻物を雛の節句の折に田鶴が頂いた。あれが確か「なよたけの姫のものがたり」だったかと思う。田鶴にせがまれて読んでやった。美しい絵の記憶はあるが、話の内容の詳細は覚えていない。ひとりの姫を巡る話で、最後に姫は去って行ってしまう…という話だったか。あの絵巻物も確か今井堂に買い取ってもらったはずだ。
「惣右介、大黒ねずみたちの宝である火鼠の皮衣がおまえのところにあるというのは、なかなか意味があることだと思わないか」
星見屋の爺様の声で惣右介は我に返った。
「俺にはわからぬ」
惣右介はそっけなく言った。
「そうか。だが、今年の正月に黒脛巾がお前の前に現れたということは…そしてライが現れたということは、やはり、約束の時は今のようじゃ」
爺様は惣右介の様子には頓着せず言った。
「でも爺様、『生まれ出ずる国に天命に背きし王生まれる時なり』と続いているではないか。将軍家や朝廷の天子様のところに、そんな大層なことが起こるのか?」
惣右介は贖捨の葉の文言を繰り返して見せる。
星見屋の爺様は黙って、しばし惣右介の顔を見た。そうして目を伏せ、
「そうじゃのう。これから何が起こるのか…よく、目を開けて見ておくのだ、惣右介。そして、口は閉じておくのだぞ。これが肝心じゃ。何が起こっても、お前の本願は良きにつけ、悪しきにつけ叶うはずだ…大黒様が助けて下さる限りは。特にあのおねずがお前の傍にいるということは重要じゃぞ。大切にせよ」
「ああ。爺様に言われなくても、わかっている」
「ふむ」
かなり長い時間が経ったような気がした。
荒獅子をすっかり待たせてしまっていることに、惣右介は気がつき、立ち上がった。
「爺様、そろそろ荒獅子様に代わって差し上げなければならない時間かと思う。母のことは事故死ではなく謀略だということはわかった。あとはよくわからなかったが…」
惣右介自身は、最初からたいして星見屋の爺様の話に期待していなかった。
「惣右介、お前の問題は『お前は何者なのか』ということだ。これが全ての肝なのじゃ」
爺様の言葉に返事はせず、目礼だけして惣右介は御堂から光の中に出て行った。
その姿を見送りながら、
「まあ、良い。わしの『贖捨の葉』こと、贖罪はお前のことじゃ。お前は天帝がわしに与えたもうた『使命』じゃ」
星見屋の爺様は独り言ちた。
時間にすればそう長い時間ではないはずだが、光の中に戻ると一気に自分が老け込んだような気がした。惣右介は気持ち速足で、荒獅子とおねずのもとに戻る。叢を抜けて、すぐ木立の道に戻ると、荒獅子は惣右介が去った時と同じ格好のまま座っていた。律儀な性格そのままだ。おねずと言えば、荒獅子の隣に座って、やはり胸に手を当てたまま、こっくりこっくりと舟を漕いでいた。
「荒獅子様、申し訳ありませぬ。すっかりお待たせしてしまった。おねずのこともありがとうございます」
荒獅子は惣右介をみて、安心した様子になり、表情が緩んだ。
「惣右介殿、お気遣いはいらぬ。それより、おねず殿は先ほどまで元気に飛んだり跳ねたりしていたが、疲れたのかすっかり眠ってしまわれておる。…鷹の方は大丈夫でござった」
「さようでございましたか。それでは、私はおねずを背負って帰ります故、荒獅子殿は星見屋の爺様のところへ」
「忝い」
荒獅子は立ち上がり、二、三歩歩くと立ち止まった。そして
「惣右介殿、今日、ここで其処許と出逢いしこと、其処許と一緒に為したことども、奇遇なご縁でござった。本来であれば、ぜひとも旧交を温めたきところであるが…某と会ったことはお忘れ下され。他言無用にござる。某も其処許との今日のこと、全て忘れる所存である」
荒獅子は背を向けたまま、惣右介に言った。
「申し訳ござらん」
惣右介はそこまで言うのも不思議に思ったが、
「承知仕った。私も今日あったことは忘れまするので、ご安心を」
「うむ。惣右介殿。重ね重ね忝うござる」
荒獅子は惣右介に背を向けたまま頭を下げた。そして、御堂に向かって歩いていく。惣右介はすっかり眠って重くなったおねずを背負い、募者町のあばら家への帰途についた。
おねずを背負った惣右介は、国見峠の辺りに差し掛かった。ここからは蓮臺の町が一望できる。夏の日は長いとはいえ、そろそろ夕暮れの気配が広がりつつあった。
「ちょうちゅけどん」
「なんだ、起きたのか、おねず」
おねずは惣右介の首に手をまわしたまま、
「きょうはとってもいいことがいっぱいあった」
「そうか、よかったな」
「うん」
そして、少しの間、おねずは黙っていた。
夕暮れの蓮臺の町に烏の鳴き声が響き始める。
「ひとのちぇかいはきれいだね、ちょうちゅけどん。あっちはここからのながめが、だいちゅきだ。おてんとちゃまも、よくみえる」
「そうか。俺もここの眺めは好きだ。おねずと一緒にお天道様を初めてみたのはここだしな」
「ちょうだ」
ゆっくりと蓮臺の町が茜色になっていく。
「ちょうちゅけどんのちぇなかからみる、おてんとちゃまがいちばんだ」
「ははは、そうか。じゃ、ずっと負んぶしてないといけないな」
「ちょうだ、じゅっとだ…」
おねずは何だかよくわからない気持ちでいっぱいだった。それは温かく、何が来ても怖くない気持ちだった。今だったら、烏も怖くない。鷹が来ても大丈夫だ。
(ちょうちゅけどんのちぇなかにいるから、あっちはだいぢょうぶだ)
そうおもうと、またおねずは安心して眠りに落ちていった。
「おい、おねず、眠ったのか?」
惣右介が声をかけたが、返事はない。
「なんだ、また寝たのか」
惣右介も背中の重みを感じながら、温かい気持ちで峠を下っていった。
その夜半、ご城下の北が突如として明るくなった。
ご城下から北に向かう木汰山の杉木立の辺りで起こった火事だった。にわかに火の手が上がり、白煙と灰が夜の闇の中、蓮臺の町に降った。青嵐神社の手前ということもあり、城火消、町火消総出で木汰山に向かい、蓮臺の町は一晩中、半鐘が鳴り響いたのだった。辛うじて杉木立は無事だったが、街道脇の叢奥にあったボロボロの御堂は焼けてしまった…と、惣右介は次の日、鶴賀谷に向かう途中に知った。




