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時来たる

 夏の陽がややかげり始める申の刻ごろ、深山は言っていた通りに栄生屋の店先に現れた。

「これは、これは、深山様」

 栄生屋の主人は満面の笑みで深山を迎える。

「八幡様に殿の名代で参ったついでに寄らせてもらった。少し休ませてもらうことはできるか。暑気あたりか、少しめまいがするのだ」

「それはいけませぬな。すぐに奥の間をご用意させます」

「うむ、かたじけない。他の者には、好きなものを取るよう言ってやってくれ」

「かしこまりました」

 栄生屋の主人は女将にその旨を伝え表に行かせると、自らは先に立って、深山を奥へと案内した。

「どうぞ、こちらの部屋をお使いくださいませ」

 障子を開けずに、廊下で栄生屋は言った。

「半時ほど、休ませてもらうぞ。気遣いは無用じゃ」

「心得てございます」

 そして深山は自分で障子を開け、中に入った。

 障子越しに西日が射している部屋の中で、荒獅子が下座にて頭を畳にしっかりとつけ低頭していた。

(あいかわらず律義者よ)

 深山は心の中で苦笑した。荒獅子のことだから、いつ深山が来ても良いように、気を抜くことなく待っていたに違いない。

「待たせたな、すまぬ。頭をあげてくれ」

 荒獅子は深山の配下ではなく、玲萩院様の御付の者である。また一時期、深山は玲萩院の意を受けて動いていた時期があり、深山は荒獅子に対して朋輩のような感覚を持っていた。そして何より…深山も荒獅子も、篁家の生え抜きの家臣ではなかった。

「深山様には」

 荒獅子が真面目に言上しようとするところを、深山は手を振って押しとどめ、

「良い良い、荒獅子。其処許(そこもと)と私の仲ではないか。そのような格式ばったものはいらぬ。して、此度は…いつ江戸を発たれた?」

「一昨昨日(さきおととい)にてござる」

「何?一昨昨日だと!では速馬で参られたか」

「千住の宿(しゅく)から、馬を乗り継いで参りました。昨日の夕方、蓮臺のひとつ前、汝ヶ町(ながまち)の宿に入り申した」

 深山はあきれ、そして感じ入った。

「其処許をそこまで駈けさせるとは…發子様の御遣いか」

「は、こちらを」

 荒獅子は懐から袱紗を取り出し、そのまま深山に捧げ渡した。深山は黙って、それを受け取り、袱紗を開いて中を吟味すると、

「ふむ、確かに發子様じゃな。玲萩院様から賜りものの鬼簪の片割れじゃ。ということは、其処許は密使というわけでござるな」

「さようでござる」

「それでは、聞こう」

 深山は下座にまわり、居住まいを正した。篁家の奥殿からの正式な密使だ。發子は正室ではないとはいえ、実之助に正室がいない今、發子は正室も同じだった。

「發子様…御方様に於かれましては、一昨昨日の七月十五日、みごとお世継ぎ様となる男子御誕生にございまする」

「めでたきことかな」

 深山は決まり文句で言祝いだ。そして、

「やはりな」

「やや、もう正使が御到着でござったか」

「いや…發子様のお遣いとなれば、今の時期はお世継ぎ様のご誕生であろう。そして、發子様に、誰よりも早くそれをご当主様に伝えよ…と、其処許は託されたのだな」

「さようでござる」

「ふむ。發子様らしいな。ぬかりないものだわ」

 深山は感心した。

 実之助がお国許にいる今は、江戸表で起こることは何があってもおかしくはない。今までも、数度、命を狙われている実之助である。ましてや、実之助の男子、お世継ぎ様となれば、早くに亡き者にしてしまうに限る、と考える不埒者がいてもおかしくない。そして、不埒者にとって、一番の好機は生まれたばかりの今である。赤子は死産、發子様は産褥にて助からず…となれば、そうそう珍しい事でもない。現に実之助の生母・舜子は実之助を生み落とし、そのまま産褥にて身罷ったのである。何一つ不思議なことは無いのだ。

「承知仕った、其処許のお役目、深山が引継ぎ、ご当主様にお伝え致す」

「よろしくお願い致しまする」

 荒獅子は再び、頭を畳に押し付けて低頭した。

「して、荒獅子、本当は何を發子様に託された?」

 荒獅子は心臓が口から飛び出るかと思うくらい、驚いた。だが幸い、低頭していたので、驚愕の形相を深山に見咎められずに済んだ、と思った。

「深山様、他にはございませぬ。御方様から仰せつかったのは、お世継ぎ様誕生のことのみでございます」

 深山の眉がピクリと動いた。だが、それも一瞬で消え、何事も無かったように

「ふむ、さようでござるか。承知した」

 深山は大きく息を吐くと、

「私は今からお城に上がり、ご当主様にご報告致し申す。其処許は、今宵はこちらでゆっくりと休まれるが良い。ここは茶屋だが、近隣の鰻屋から旨い鰻を調達してくれるのだ。精をつけて、江戸に帰られよ。主人に申し付けておこう」

「深山様、ありがとうござりまする。だが某はお役目を果たしたからには、すぐに戻らねばなりませぬ」

「發子様から、生きて戻れと言われたのではないか」

 またもや、荒獅子は驚いた。驚きのあまり、返事が出来なかった。

「發子様なら、そう仰ることであろう。そして、やはり、休んで精をつけよ、とも仰るはずだ、荒獅子。其処許の愚直さ、律儀さは好ましいが、まっすぐ猪ばりに進むだけが、忠心ではないと思うぞ。其処許の御身を大事にしてこそ、いざという時にお役目を果たせるというものだ」

「は」

 荒獅子は、何も言えない。

「まあ、悪いことは言わぬ。今日は休まれよ。大事の前の御身だ。大切になされ」

 では、と言って深山は障子を開け、静かに出て行った。夏の夕暮れはまだ尾を引いて、荒獅子一人が西日の部屋の中に取り残された。

(深山様は確かに「大事の前」と仰った。それは果たして偶然か、それとも…)

 荒獅子は悩ましい思いを抱きながら、今宵の出立について思いを巡らせた。

 遠くでゴロゴロと雷の音が聞こえ始めた。


 深山が青嵐城に再び登城した時には、既に時刻は酉の刻をまわっていた。折からの雷雨の中での登城だった。

 実之助は金野の給仕で遅い夕餉をとっている最中だった。取り次ごうとする金野に対し、わざと大事では無いというふりをして「お待ち申す」と深山は言った。

 深山は実之助の食事が終わるのを控えの間で待ちながら、腕を組み、瞑目して荒獅子のことを考えていた。

 深山は今でこそ、筆頭奉行だが先代の治世では六人の奉行衆の中で一番格下であった。その頃から、誰よりも朝早く登城し、その日の準備をして上役方を迎えるという習慣がついていた。またもともと格下であったが故、駕籠や馬で登城するという習慣も無く、筆頭奉行になった今でもそれが続いていた。今朝はその習慣が功を奏した。

 荒獅子は「發子様に託されたことは他には無い」と言ったが、それは嘘だ。荒獅子の動揺が言葉に出たのを深山は聞き逃さなかった。

 發子様が荒獅子に託したこととは何なのか。

 念のため手は打ったが、豪胆で抜かりない發子様のことだ、それは常人には為しえないことであろう。澂子様絶対である荒獅子ならやってのけるだろう、と踏んでの無理難題に違いあるまい。

(よりによって、あの愚直な正義漢に)

 深山は暗い気持ちに沈んだ。

 己であれば、いくらでも汚れ仕事を引き受ける。それをわかっていた玲萩院こと澂子様は実之助を三代当主にするために、深山を己が手先としたのだ。

 だが世の中には、汚れ仕事をさせてはいけない者もいる。汚れ仕事に手を染めることで、己の魂が死んでしまう者がそうだ。そして荒獅子はそういう男だった。

(發子様も酷い事を…これも澂子様仕込みということか)

 深山は玲萩院澂子様の玲瓏然とした面差を思い出す。表情を崩したことを見たことがない…とまで言い切れるくらい、冷静で感情を表に出さない女人であった。

 澂子様に比べると、發子様には激しさがあるだけ体温を感じる。一体、「実之助を守る」というあの情熱はどこから来るのか。深山に面識はなかったが、実之助の乳母だったという烈婦の叔母譲りなのか。それとも男女の情というものなのか。

(男女の情というものに縁のない私には、わからぬものなのかもしれん)

 深山がため息とともに暗い気持ちを吐き出した時、襖が開き、金野が控えていた。

「ご当主様がお呼びでございます」

「うむ。すまんが、金野、人払いをしてくれぬか」

「承知いたしました」

 金野をそのままそこに残し、深山はひとりで実之助のいる奥の間に入って行った。

「深山、かような時間にどうした?緊急ではないとのことだったが」

 実之助は素直に深山に問いかけた。深山は居住まいを正して、低頭すると

「ご当主様に言上いたします。江戸表のお方様に於かれましては、去る七月十五日の夜半に、男子をご出産されてございます」

 と抑えた声で言った。

「なに!」

 実之助の表情が強張った。

「お世継ぎ様、誕生でございます。おめでとうございまする」

「…江戸より、正使が参ったのか。それにしても早いが」

 信じられないという表情で実之助が言う。

「發子様よりの密使が、玲萩院様の鬼簪を携えて参りました」

「發子からの密使、ということは、發子は無事なのだな」

「さようでございます。御自ら密使を仕立て、ご当主様にお伝えするようにとご下命されたとのことでございます」

「そうか、發子は無事か。…良かった」

 やっと、実之助の表情が柔らかくなった。

(お世継ぎの安否は口にされないのだな)と深山は心の中で思った。

「お世継ぎ様、御方様ともにご無事でございます。御方様はこの後七日間の不寝見(ねずみ)に入られますので、急ぎ密使を仕立てられたのかと存じまする」

「不寝見…か。發子が大変なのは、今なのだな。私の生母は、それで身罷ったのだ。まだまだ無事とは言えないか…」

 実之助の方が参っているような表情で言った。生母・舜子を思うと不安になるのだろう。

「して、深山」

「は」深山は低頭したまま、受ける。

「私はどうすればよいのだ?」

 実之助は不安げな目をして、深山に問いかけた。

(来た!)

 深山はこの時を待っていた。雌伏九年、ただこの時が来ることに賭けていた。

「ご当主様、いろいろと為さるべきことは御座いますが」

(焦るな。ゆっくりと、だ)

 深山は己が心に言い聞かせた。

「そうであろうな」

 実之助は既にげんなりした顔を見せている。

 深山はあえてその様子に気づかないふりをして、

「めでたきことにございますれば、主君として領民にお振舞いをなされては、いかがでしょうか」

「お振舞い?米や酒を、か」

「さようでございますな。または、調べてみてのお話にはなりますが…税の一時免除もよろしいかと思われます」

「そうか。税の一時免除であるか。それはわかりやすいな」

「または徳政ですとか」

「徳政か。だが、借金の棒引きは商人が困るのではないか」

(ほう、わかっているではないか。まんざら…でもない)

 深山は心の中で思う。江戸表にいる時にはわからなかった実之助の一面を、蓮臺に来てからは垣間見る瞬間がある。そしてそれは深山の心の中にさざ波を起こすのだった。

「そうですな。では…思い切って恩赦などはいかがでしょう」

「恩赦?」

「さようでございます」

 実之助は戸惑った表情になっていた。まだ頭の中で肝心な事が結びついていないらしい。

「はい、恩赦でございます。罪状にもよりますが、ご先代様の治世の仕置きで罪人となっております者で、恩赦に値するものがおりますれば、良き機会になることでございましょう」

「ご先代様の時か…」

 深山は息を止めて待つ。

 と、次の瞬間、実之助の目が見開いた。

「深山、それは惣右介にも恩赦を与えることができるということか」

「ご当主様の御心次第でございます」

 実之助の顔に満面の笑みが広がった。

「それは良い。恩赦!恩赦にしようではないか」

「さようでございますか。それでは、恩赦に値する者の洗い出しをさせましょう」

「うむ、まずは惣右介じゃ。まずは惣右介から始めよ、じゃ」

 実之助はすっかり舞い上がった様子で、常日頃の気鬱な様子もどこかに吹き飛んでいた。

「惣右介が恩赦に値するかどうかは吟味次第でございます、早急に決めてはなりませぬ」

 深山は敢えて、反対する。深山が反対すればするほど意固地になって、実之助はことを進めようとするだろう。深山はそれを狙っていた。

「深山は冷たい奴だな」

 実之助が今度は恨みがましい目をして、深山を見る。あまりにも子供じみている様子に、深山は先ほど見直した己の目はやはり節穴だったか…とまで思う。

「ご定法とは勝手をすることとは相いれませぬ。筋は通さねばなりませぬ」

「先程は私の心次第といったではないか」

「それは恩赦を与えることは、でございます。誰に恩赦を与えるかは慎重に臨まねばなりませぬ。ご当主様にしか出来ないことだからこそ、でございます。軽率なお言葉は…ご当主様にではなく、恩赦を与えられた惣右介に矛先が向けられますぞ」

 その言葉を聞いて、実之助は我に返ったようだった。

「あいわかった。それでは改めて吟味しようではないか。それも早急にな」

「かしこまりました。明日一番で吟味が始められるように、内々にて準備を致します」

「頼むぞ、深山。私の治政での最初の大仕事だ」

 実之助の顔は紅潮し、年相応の若者らしい溌溂さに溢れていた。

 深山が部屋を退出しようとした時に、

「深山、領民に振る舞う米や酒の手配をよろしく頼むぞ。税の免除についても検討せよ」

 実之助がしっかりとした声で言った。

「承知致しました。正使が到着致しましたら、すぐに対応できるようご準備致します」

 実之助の最後の言葉に、深山は意外な思いを抱いた。

(なかなか、君主然としてきたではないか)

 深山としては予想外の展開であった。かねてからの目論見通り、「恩赦」の言葉を勝ち取ることができたが、実之助の予想外の言動に複雑な思いを頂きながら、深山は雷雨の青嵐城を後にした。


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