奔走、荒獅子漢之助
満志三年 夏 江戸 愛宕下 奥州蓮臺藩 上屋敷~奥州道中
七月十五日の夜はもちろん満月だった。
蓮臺藩奥向御用の荒獅子漢之助は突然のお召により、愛宕下の上屋敷に参上した。
元々、奥向御用の荒獅子は上屋敷に住まいを持っていたが、發子の懐妊がわかってからというもの、自ら辞して中屋敷の長屋へと居を移していた。大きな火傷の痕がある自分の姿を、妊婦の發子の目に触れさせないという荒獅子なりの心遣いであった。
時刻は既に戌の刻。本来であればこの時間にお召は考えられない。つまり緊急事態ということだ。
ただ一つの可能性。それは待ちに待った蓮臺藩のお世継ぎの誕生である。
荒獅子が中屋敷の長屋から、上屋敷に駆け付けた時には、屋敷内のあちこちに篝火が焚かれ、満月の夜とはいえ、ひときわ明るく、夜とは思えない騒ぎとなっていた。
「荒獅子様、こちらへ」
と、發子付の老女・ちはやが案内に立って、御殿の奥へと足早に招き入れられる。
頭巾を取る暇もなく、荒獅子はちはやの後を追う。
長い廊下のたくさんの曲がり角を曲がるため、ちはやについていかなければ迷子になってしまいそうだ。奥向御用の荒獅子とはいえ、本来であればこんな奥には緊急事態以外には通されることは無いからだ。
そのまま奥の間に通され、狩野派の孔雀の羽がほの暗い中でも光を放つ襖の前に控える。
「荒獅子様にございます」
と、ちはやが声を掛けると、
「入れ」の声と共に襖は両側からすっと開けられた。
部屋の中は屋敷の中とは打って変わって、灯が落としてあり、燭台が一本きりであった。
荒獅子は頭を畳みつけたまま、いざりながら中に入る。
「荒獅子、よく来てくれた、頭をあげよ」
發子の凛とした声が響いた。
「は。頭巾のままでご無礼仕りまする」
荒獅子が上体をやや挙げて、再度、畳に額をつける。
「良い。既に大事は済んだ。頭巾も取るがよい。許す」
荒獅子は躊躇した。
「我が良いと言っているのだ。そなたの顔は誇りにこそすれ、隠すものではないぞ」
發子が優しい声で続けた。
「身に余るお言葉、ありがとうございまする。それでは失礼仕る」
荒獅子が頭巾を取ると、そこには痛々しい火傷の痕が広がっていた。
「我らを助けた時のものじゃ。その痕を見る毎に、我はそなたの忠心を更に心に刻むぞ」
その火傷は先の江戸を襲った大火の折に負ったものだった。
篁藩藩邸にも火の海が押し寄せたが、先代様と主な家臣団は既に鎧甲冑で江戸城に参上した後だった。そんな中、奥向きを守る荒獅子が火の海から、実之助と發子を助け出したのだった。
「勿体ないお言葉ながら…お女中方に、お見苦しいものをお見せして申しわけござらん」
「なんの。我の老女たちはそんな軟ではないわ」
いつもならここで呵々と笑う發子だが、きょうは少し微笑んだだけの様子であった。
「改めまして、御方様にはお世継様のご誕生、おめでとうござりまする」
「うむ。我もこれでまずは安堵した」
ようやく、荒獅子は顔を上げた。
發子は身体を脇息に齎せたまま、荒獅子に相対していた。
出産から七日間は寝ることが出来ない。大変なのはこれからなのだ。
「さて、荒獅子」
そこにいたのは、荒獅子が知っている誇り高い發子とは思えない姿だった。
面窶れし、血の気がひいてしまっていたのであろう、蠟燭の下でもわかるくらい顔色も青かった。娘時代と別れを告げた鉄漿と眉剃りに加えて、からむしで髪を束ねたその様子は、本来の美貌とも相まって鬼気迫るものさえ感じさせる。
「このような姿ですまぬ」
發子は苦笑いをしているようだった。
「滅相もございませぬ。御方様こそ、大仕事を成さった後でございます。私ごときにお気遣いは無用にございます」
今度は何も言わずに、發子はにっこりと笑った。
「他でも無い。そなたに頼みがある」
「は、なんなりと」
荒獅子は改めて畏まり、頭を下げた。
「此度のお世継様誕生の知らせを、お国元の我が殿様と深山に誰よりも早く知らせてくれまいか。もちろん、江戸よりこれから正使は立とうが、万が一の場合、我もお世継様も危ないかも知れぬ、その時は正使もお国元には辿り着くまい。全てはなかったことにされる。つまり、この一日二日が勝負じゃ」
ここまで發子は一気に言って、そして肩を落とした。
荒獅子は發子の言葉に無礼も忘れて、顔を上げ、
「御方様、何を仰います!そんな恐ろしいことを口にされてはなりませぬ。どこで誰が聞いているか、わかりませぬぞ」
荒獅子の言葉を意に介さず、發子はそのまま続けた。
「幸い、今は我が殿様だけでなく、ご親族、御一門、皆様方お国元にいらっしゃる。
この秋の参勤の為に、そろそろご準備されている頃じゃろう」
「それでは、一層、發子様が心配でござります。ここを離れるわけには参りませぬ」
「お前ならそう言うと思うた。我の事は案じるな、荒獅子。この者たちがいる。これらはただの侍女にあらず。すまるめじゃ。この者たちに結界を張らせる」
發子はそう言って、枕元に待機している七人の侍女たちを指し示した。
荒獅子は改めて、七人の侍女たちを見た。皆うら若き乙女たちである。
すまるめというものがいるとは聞いていたが、見たのは初めだった。
すまるめはある種の修行をした巫女たちで、通常は姿を見せないと聞く。
澂子様が将軍家より嫁してきたときに、澂子様を心配した時の将軍家がお供につけた…という話も聞いたことがある。荒獅子自身、澂子様とともに将軍家よりこの篁家にやってきた。あれから長い年月が経つが、実際に存在するとは思っていなかった。
「では、念のため、某が選んだ剛のものを侍らせましょう」
荒獅子は言った。
「荒獅子。そなたの気持ちは誠にありがたいが、それでは尋常ならざることに気づかれてしまうやもしれぬ。大丈夫だ、この者たちは、代々、選ばれしもの。媚術にかけては右に出る者はない」
七人の侍女は一斉に頭を下げ、發子は満足げにうなづいた。
「こたびのお勤めで大切なのは真実を我らが殿様に伝える事である。お世継様の誕生自体が無かったことにされてしまうことを避けねばならぬ。そしてそれを誰が我が殿様に伝えるか、じゃ。それには誰もが信じる誠心誠意のあるものでなければならぬ。故にそなたでなければならぬのだ」
「恐れ多きことにございまする」
荒獅子はよりいっそう、頭を畳に強く押し付けた。
「あずさ、例のものを、これへ」
そう言うと、發子は侍女頭の老女・あずさに盆を持って来させた。
「荒獅子、良いな。これを持っていけ」
そこには銀細工の簪が二本乗っていた。
發子が取り上げた一本には、簪の表側に三羽の精緻な小鳥の細工が施されている。
もう一本も手に取った。そちらには竹笹のやはり精密な細工が施してあるようだ。
「これは二本を併せて使う、特別な簪じゃ。鬼簪と言われるものだ。二本合わせると、篁家の家紋となる」
二本を合わせた様子を發子は荒獅子に見せた。
「良いか、これは私が玲萩院様より、特別に頂いたものじゃ。一本をそなたに預ける」
發子はそう言うと二本の内、三羽の小鳥が細工されたものを荒獅子に手渡した。
荒獅子は自分の頭より高く推し抱き、頭を垂れた。
「玲萩院様の…勿体ないことでございます」
「これを深山に見せれば、私からの使いじゃと信用するはず」
荒獅子は簪を捧げ持ったまま、頭を下げ、そのまま一歩いざり下がった。
「良いな、荒獅子。お前だけが頼りじゃ」
「畏まってござりまする」
懐から袱紗を取り出し、簪を包んで懐に入れると、改めて額を畳につけた。
その様子をみて發子は満足げに頷き、さらに続けた。
「それと、もうひとつ。頼みがある」
今度は固く低い口調で發子は言った。
「御方様のお望みのままに」
「お国許に住まう(すまう)星宮の宮司に会って、お世継ぎ様の星の命を聞いて参れ」
さすがに辺りを憚ったのか、声の大きさを控えて發子は言った。
「そ、それはご禁制では⁉️」
荒獅子は驚いて、發子に問う。荒獅子の問いに發子はにやりと笑った。
「何、構うものか。浩然事件自体がでっち上げだと、我は考えておる。
荒獅子にだけ言える事じゃがの。我が殿様の命も、我の命も、今のところ、星宮は正確に読み解いているのだ。星宮の読んだ『贖捨の葉』の通りなのだ」
『贖捨の葉』(」)とは、星宮が読んだ命を記した文書である。これは星宮からは持ち出すことは出来ず、また星宮の宮司以外は読み解けないとされていた。宮司に『(「)贖捨の葉』を読み解かせ、それを密祐筆に記させて持ち帰らせる…というのが習いだったが、浩然事件により全てがご禁制となってしまった。
荒獅子はぐっと唾を飲み込んだ。
わざわざ、そのためだけに「密祐筆」という職務があったくらいである。
これはお家の大事を知る危険な重責でもあった。
「それでは、某にその大切なお役目を…」
「そうじゃ、そなたにしか出来ぬ。お世継ぎ様の星の命を聞き、その結果次第では…」
發子はぐっと身を乗り出して言った。
「わかっておるな」
發子の気迫に気圧された荒獅子は目を見開いて、
「御方様、それは…私が判断するのでございますか?」
「そうじゃ。難しというならば、結果に関わらず、始末してまいれ」
「それは、いくらなんでも、極端ではありますまいか。お世継ぎ様の次の赤様もお生まれになりますでしょうに、それは早計かと」
「荒獅子、それは無い。ありえないのじゃ」
發子は疲れた顔で言った。
「何をおっしゃいます⁉️
まだまだご当主様も御方様もお若い。これからではございませぬか」
「無い…のじゃ、荒獅子」
發子は再び肩を落として言う。
「我が殿さまと我にはお世継様だけなのじゃ。一度きりの機会に我も賭けた。
故に今後は、我はお世継様を守るために生きる。鬼にもなる。
後顧の憂を無くし、禍根の種は潰す。それが肝要だと我は信じている」
ある種の狂気じみたものが、發子の中に見え隠れした。
「もし、星の命が我らの意に叶うものでない場合には、我が曲げてみせようぞ」
そして、發子は荒獅子をキっと見据えると
「そなたと我はこのご家中で共に邪な謀を乗り越えて、我が殿を守ってきた者同士じゃ。荒獅子、何卒、何卒、頼むぞよ」
發子はなおも身を乗り出して、荒獅子の手を取った。その手は冷たく、汗ばんでいた。
「御方様、承知致しました、荒獅子、命に変えましても」
「それはだめじゃ、荒獅子」
發子は荒獅子の大きな手を両手で包むようにして、
「生きて帰って参れ!きっとじゃ。そなたは、再び生きて我の前に立つのだぞ」
荒獅子は發子の手をそっと發子の胸元に捧げ戻し、
「は、畏まりました。では、このまま、今から参ります」
その言葉に發子は安心して、やっと表情を緩めた。
「ちはや、荒獅子に道中手形と路銀を」
「ここに」
ちはやと言われた老女は、帛紗を荒獅子に渡した。
「ありがとうござりまする。それでは、必ず生きて帰ってまいりますれば、お待ちくださいませ」
「うむ。頼んだぞ」
荒獅子は再び、額を畳にギュッと押し付け、そしてその場を足早に去った。
亥の刻に木戸が締まらないうちに、要所は抜けていかなければならなかったから、時間が惜しかった。
こうして、荒獅子漢之助はそのまま旅支度もせずに上屋敷を出立、旅立ったことを誰にも悟られないように早々とご府内を後にした。
日付が変わる前に、何食わぬ顔をして奥州道中最初の宿場である千住に入って、宿を求めた。翌朝、旅支度に改め、馬を調達、出立した。
そして。
荒獅子は駆けた。
奥州道中を駆けに駆けた。
白川までは二十六宿、白川の北、蓮臺道は四十三宿。
偉丈夫とはいえ、ただ人の身の荒獅子である。
馬上では勿論飲まず食わず、馬の交換の際に立ったまま握り飯を食べる。
疾走する馬から振り落とされないように、荒獅子は身体を馬体に括り付けていた。
馬は一駅で潰れる寸前であったが、すんでのところで交換し、一命を取り留める…の繰り返しだった。
荒獅子はひと馬毎に、
「すまんな、ありがとう」
と声を掛けて労い、また次の馬に飛び乗る。
こうして奥州道中は白川まで行き着き、蓮臺道へと道は変わっていった。
関東の広々としていた明るい空は、次第にそそり立つ山で狭まっていき、白川の関を超えると緑の色は濃く、空の色も澄んだ濃い青となっていく。雲の白すら濃くなった気がする。澄みきった深さを感じさせる濃い色。夏なのに冷たささえ感じさせる色。
それが奥州の色だった。
荒獅子は千住から数えて六十八番目・汝ケ町の宿に入った。江戸・愛宕下の中屋敷を出てから三日目の夕方のことだった。
まずはひとつ前の枡田から乗ってきた馬を汝ケ町駅番屋で返し、宿を求めることにした。
いくら何でも、このまま、泥と汗まみれのままでは蓮臺の街には入れない。これでは夜盗か何かだと思われても仕方がない有様だ。町の中では悪目立ちしてしまうだろう。ましてや、青嵐城に登城するなど、もっての外である。
まずは身支度を整えて、そして徒歩で蓮臺に向かおうと考えた。
荒獅子としても、心が逸るところではあるが、何しろ密使である。異変を気付かれてしまっては元も子もない。また、今までは宿場を飛ばしてきたため、風聞を聞くことも出来なかったが、蓮臺の街に入る前に星宮に関わる噂が流れているかどうかも確認しておきたかった。
馬を返す駅番屋で紹介してもらった宿に落ち着くと、まずは風呂を貰った。今年の東北の夏は雷雨が多く、いつも以上に荒獅子は泥まみれだった。髪を洗い、やっとひと心地がつく。火傷の痕を隠すため、髭はそのままとする。髭はまばらではあったが、長さがある分、無いよりはましだった。
三日ぶりに旅装を解き、ホッとしたが、江戸から持ってきた着替えはぶかぶかになっていた。帯もいつもよりひと巻き多く巻けるほどになっていた。
「さもありなん」
まだまだ往路である。これから大仕事があり、復路が待っている。ここで体力を落とすわけにはいかないので、今晩はしっかりと食事を取ることにした。
「おさむらいさま、ゆうげのおしたくができました」
宿屋の女中がお膳と急須を持って部屋に入ってきた。年の頃は十六、七か。
「このぢきは、清瀬川はあゆのぢきですよ。うまいので、たべてみて」
汝ケ町の宿屋は「もうり屋」といった。清瀬川沿いにあるこのあたりでは大きな宿である。
心づけを弾んでいたので、若い女中は給仕についた。
「お女中、鮎ももちろん頂くが、他に何か精がつくものはないか」
「うなぎ…とかっしゃ?」
「おお、上等じゃ。鰻をお願いしたい」
「うちでは、うなぎは扱ってなくて…申しわけございません、おさむらいさま。蓮臺のご城下にいけば、うまい鰻をたべさせる店がたくさんあるのっしゃ。蓮臺にいってからのお楽しみにされたら、よがっしゃ」
「ふむ、そうか。それは残念だが、そうするとしよう」
「そうだ、蓮臺のご城下の北の端に しまゐや という自然薯を食べさせる家があるのっしゃ」
「ほう、自然薯か」
「んだ。北の端、木汰山というところの手前だっちゃ。そごに行きなさったらいいかと」
「ふむ、良いことを聞いた。そこにも行ってみよう」
「ただ、ご城下の北の端だから、気を付けていってくださいまし。なんでも、追剥が出るとか」
「おいはぎ?」
「んだ。昔は立派な宮司さんだったとか。でも、今は物乞だか、追剥だか…」
「ふむ。追剥と物乞いではかなり違うが…」
荒獅子はハッとした。
「その追剥は、昔、宮司だったのか」
「んだと、ぎいでます。あちこちのおくにから、えらいがたも、だずねでぎでだって、はなしです。でも、いまは追剥だか、物乞いなんですと」
「それは、ご城下の北の端…に出るのだな」
「んだど、ぎいでます。おらはあったことはないけど」
「ご城下の北の端、しまゐやという店の傍、であるな?」
「しまゐやは店じゃなくて、家だ。しもたやだ。大きな看板はねえけど、行けばわかるそうだ」
「かたじけない。よき話を聞いた。礼を言うぞ、お女中」
そう言って、また荒獅子はこの若い女中に心づけを渡した。
「あれまあ、おさむらいさま。ありがどうござります。お銚子でも一本つけましょうか」
「酒はいらん。茶で十分だ」
「あらまあ、もったいない。今日は天光のうめえお酒もあるのに」
「ははは、某は不調法でな。酒は飲まんのだ」
「はあ、だったら、おさむらいさま、天光の甘酒を飲みにいかれたらよがす。ご城下の西、八幡様のところに、栄生茶屋というおおぎなお茶屋がある。そこで頂けますよ」
「おまえは、いろんなことを良く知っておるなア。感心じゃ」
若い女中は得意げな顔で、荒獅子の椀に山のようにご飯を盛った。
いつの間にか、外は夕立とともに雷が鳴り響いていた。
その晩、荒獅子は久しぶりに馬体から落ちる心配をせずに、雷の音も気にならないまま、安心して眠りの中に落ちたのだった。
翌朝早く、日の出前・寅の刻に荒獅子は宿を立った。
昨日までとは打って変わって、身支度はきれいに整えている。
さすがに今までの馬での道行きとは違い、徒歩ゆえ、飛ぶように早くは進むことは出来ない。荒獅子は今にも走り出したい気持ちを辛うじて抑えながら、清瀬川沿いに蓮臺のご城下に向かう。
小田木橋を渡ると、いよいよご城下だ。
蓮臺のご城下は初代お館様がご城下を開いた時のご指示により、碁盤の目のようになっている。その碁盤の目の外側を回るようにして荒獅子は道を選び、ご城下の西から南を蛇行して流れる清瀬川にかかる評定橋をわたり、青嵐城への道を辿る。評定橋を渡ると、もう青嵐城の隅櫓は目の前だ。
「さて。このまま、まっすぐ乗り込んでいくのは得策なのか」
いざ、青嵐城を目の前にして、荒獅子の心に迷いがでた。
汝ケ町でも、また、今日蓮臺に来る道中でも、まだお世継ぎ誕生の話題は出ていない。
橋の袂で思案していると、
「もしや荒獅子ではないか」
と、早速声を掛けられてしまった。荒獅子はビクッとした。
荒獅子は澂子様の嫁入りの際に蓮臺藩に入り、ながらく奥向御用を勤めている。そのため江戸詰めが基本である。荒獅子の顔を知っている者は、ご家中でも限られているのが実情だ。ただ荒獅子はその名が表す如く、大柄で剛毛の癖毛が波打ち、逆立っている。まるで大きな神社の狛犬の様だった。
「私だ、深山だ」
そこには小者を連れた深山が立っていた。筆頭奉行とは思えぬ身軽さで、深山はそこにいた。
「は、深山様。荒獅子でございます。ご無沙汰しておりまする」
「荒獅子、何故、其処許がここに…」
そして深山は何かに思い当たったのか、かえって表情を抑えて
「では、荒獅子、場所を変えてゆっくりと話をしようではないか」
「承知仕りました」
「ふむ…では、このまま清瀬川沿いに西に進むと八幡様の参道の傍に出る。その参道に栄生茶屋と言う大きい茶屋がある。天光という造り酒屋の並びだ。そこで、深山と待ち合わせだと言って待っていてくれ。申の刻には参ろう。其処許は目立つ。あまり歩かない方が良い。万事、栄生茶屋の主人が心得ている」
「承知仕りました」
荒獅子が頭を下げると、何事も無かったかのように深山は御城へと続く坂道を歩いて行った。まだ、他の者が登城するには少しだけ早かったのか、誰にも見られてはいなかったようだ。
(深山様にまずお会いできて、幸いだった。)
栄生茶屋については、昨日の宿屋で女中に勧められたばかりだ。甘酒を勧められたものの、そこに立寄る機会は無いと思っていただけに、不思議な気持ちになった。
(なんと奇遇なことよ)
荒獅子はご城下の中心には足を踏み入れず、そのまま清瀬川の蛇行に合わせて歩を進め、清瀬川にかかる橋の中でも大きい殿橋を渡り、反対側の堤をまた川に沿って歩いた。「はちまんさまごさんどふ」と小さな道標が出ていたからだ。
そうして、荒獅子は鹿追橋の袂に出た。
鹿追橋は殿橋と比べて小さい橋だ。鹿追橋の反対側・右の道は緩やかな登坂になっており、そのまま八幡様の参道へと続いている。その登坂を見上げて、このまま坂を上がってゆけば良いのだな…と荒獅子は思った。
そして、星宮だ。星宮に行かねばならぬ。それも誰にもわからぬように。
確か宿屋の女中は「木汰山」の傍と言った。蓮臺城下繪図であらかじめ確認した限りでは、ご城下を避けて木汰山に行くためには、この八幡様の参道に続く道をあがり、途中から脇の坂道に回り込んで国見を通って行くのが良さそうだった。
だが。
「いや、いかんな。ここは深山様の言う通り、まずは栄生屋に落ち着き、夜を待つのがいちばんかもしれぬ」
今すぐにも星宮に行きたいと逸る気持ちを荒獅子は抑え、緩やかな坂道を登り始めた。星宮に行き、その結果次第では…と發子様の命を受けているだけに、事の順番を違えると大変な事になる。場合によっては、星宮の宮司に会ったその足で蓮臺を逐電しなければならぬ。荒獅子は栄生屋を目指して、夏の朝の道を歩いた。




