訪問者
今宵は満月を迎えるという今日、春の暖かさを思い出させる陽気になった。朝から畑仕事や洗濯、薪割、水汲みと惣右介と小滝とおねずはくるくると働いていた。
午後になって、一息ついた後、小滝は今井堂からの仕立物、そして惣右介は御神籤書きの内職を始めた。惣右介の横ではおねずがちょこんと座って、筆墨の乾いたものから丁寧に小さな手で折り畳んでいる。おねずの手の使い方も上手になってきて、御神籤を折りたたむ手つきも堂に入っている。ただ、きれいに折り畳もうと気張るあまり、一つ畳んでは大きく息を吐く。その繰り返しだ。
「おねず、そんなに根を詰めなくても良いぞ」
と惣右介は声をかけたが、おねずはそれも耳に入らないのか、折り畳み続ける。そんなだったから、その昼下がりにはおねずのため息だけがひたすら量産されていた。
いつの間にか、おねずの大きなため息の合間に別の声が聞こえてくるようになった。それはどんどん、大きくなって惣右介のあばら家に近づいてくる。
「いかけー、いかけ」
はっきりと声が聞こえるくらいに近づいてきたとき、小滝が縫物をしていた手をとめ、顔を上げた。
「おや、珍しい。鋳掛屋が来たようでございますね」
「こんな外れまで来るなんて、確かに珍しいな」
惣右介までそう言った。おねずは二人の会話が耳に入らないのか、思いつめた顔つきをして渾身の力で御神籤を畳んでいる。
「底に穴が開いた鍋がひとつあるけれど…」
小滝は言い淀んだ。鋳掛屋に鍋を修理してもらうには、それなりにかかってしまう。今の暮らしではそんな贅沢は出来ない…と小滝は口を噤んでしまったのだ。小滝のそんな様子を惣右介は感じ取り、
「鋳掛屋に頼んだら良いではないか。昨日、今井堂に埋木を持って行った代金がある。いつもより大きかったから、代金も弾んでくれた。鍋の修理代くらいにはなるだろう」
と言ってやった。こうまで言わなければ、小滝は鍋を修理には出すまい。
「でも、若様がせっかく埋木で得た金子で、そんな贅沢は…勿体ないのうございます」
「なんだ、そんなこと。また、探して持っていけばいいさ。雪解けの水で上流から、新しい埋木が流れてきているから、また行けば済むことだ」
小滝は一瞬、思案顔になったが、愁眉を開くと
「若様、ありがとうございます。…おねず」
突然、自分の名を呼ばれたおねずはびっくりし、顔を上げて目を見開くと同時に口も開いていた。
「おねず、おまえ、外に行って、あの鋳掛屋を呼び止めてきておくれ」
「いかえや?」
「そう、鋳掛屋ですよ。もうし鋳掛屋殿と、声をかけるのです」
「あい」
おねずは素直に返事をすると、また生真面目な顔をしてぱたぱたと外に出て行った。
おねずが外に出ると、荷物を背負った大きな男があばら家と道の境の所で背中を向けて、既に去りかけようとしているところだった。
「もうし、もうし、いかえやどの」
おねずは鋳掛屋の背中に声をかけた。
「へい、お呼びでござんすか」
その男はくるりと振り向いた。そしてその顔を見て、おねずは驚いた。おねずが知っている顔だった。
「だんべえしゃん!」
「へえ、いかにもアタシは團兵衛と申します。お嬢様はアタシのことをご存じで?」
團兵衛はいぶかしげにおねずを見、やがて「信じられない」という表情になった。
「だんべえしゃん、あっちはおねじゅだ」
おねずは胸を張り、自分のことをわかって当然…という顔をして團兵衛に名乗った。
「おねじゅ…さま、で?」
確かに團兵衛はその娘の顔を良く知っていた。だが、声を聴くのは初めてであり、團兵衛の知っている娘は色が抜けるように青白く儚げな風情の娘だった。今、目の前にいる娘は、姿かたちは同じに見えるが、頬にも唇にも赤みが差し、瞳には活き活きとした光が宿っている。いかにも健康そのものという印象を受けた。それに、「おねじゅ」という名には、全く心当たりがない。團兵衛は混乱していた。そんな様子を見て、おねずは続けて
「あっちだ、おねじゅだ!ねずみぢょうどからきて、だんべえしゃんに、たかから
たちゅけてもらった」
「たかから?…ああ、鷹から…ってことは、まさかあの時の」
「ちょうだ、おねじゅだ。このとおりだ、かんちゃちている」
ぺこりと、おねずは頭を下げた。その様子は、ねずみの時の名残を感じさせるものだった。
「これは、これは、あの時のねずみ様でしたか」
團兵衛はまじまじとおねずの姿を見る。
「まさか、あの時のねずみ様がこんなになっていらっしゃるとは…」
團兵衛は言葉が続かなかった。お伽婆様があの時言っていた「言えないこと」とはこれだったのか。團兵衛は(なるほど、そういうことだったのか)と思った。あの滅多に目にすることが出来ないくらい完璧な美しい骸が、今は目の前で動き、話までしている。それも、この身体をあの白い小さなねずみが貰っているなんて…。
その時、あばら家の戸口の方から
「おねず、どうした?間に合わなかったのか」
と、惣右介の声がした。我に返ったおねずは慌てて
「いかえやどの、こたきちゃまがよんでいる」
と、謹厳な顔つきになって用件を告げた。團兵衛も「鋳掛屋」の顔に戻り、
「へえ、ありがとうございやす。失礼いたしやす」
と頭を下げると、あばら家の敷地に足を踏み入れた。意気揚々と前に立って歩くおねずの後ろ姿を見ながら、團兵衛の気持ちは複雑だった。
夕べ、突然、お伽婆様の瓢から團兵衛は呼び出しを食らった。
このところいろいろと取り込んでいたので、しばらくお伽婆様から團兵衛は遠ざかっていた。折あらばあの美しい骸のその後も聞いてみたかったので、即座にお伽婆様の元に馳せ参じた。
「来たね、團兵衛、ちょいとお前、お使いを頼まれておくれでないかい?」
お伽婆様はいつもと同じく暗い部屋の中で、大根や白菜を背に長火鉢の前に座っていた。
ちょっと見ないうちに、少し小さくなったような気がした。
「へえ、お安い御用でさぁ。どこまで行けばいいんで?」
「奥州の蓮臺さ」
「へえ。奥州の蓮臺でござんすね」
「そうだ、明日の晩の満月が中天にあがる前までに行って、帰ってきてもらいたい」
お伽婆様は簡単に言った。それを聞いて團兵衛は慌てた。
「いやいや、品川に海苔を買いに行って来いというわけじゃないんですぜ。それは余りに無理ってもんがござんすよ」
「何をお言いだい?お前には天の厩に栗毛の権多がいるだろう」
「お伽婆様、それは…」
團兵衛は言葉に詰まった。栗毛の権多は確かに團兵衛の愛馬だった。ただ、とうの昔にこの地の上から離れて、今は手元にはいないのに…。そこまで、この婆様が知っていたなんて…團兵衛はいまだにこのお伽婆様には驚かされる。
「栗毛の権多もたまには大いに走らせてやらなきゃ、鬱憤が溜まるってもんだよ。近頃はお前さん、専ら地の上を歩きまわってばっかりなんだろう?」
「お伽婆様、お言葉を返すようですが、栗毛の権多は今じゃアタシの馬じゃないんで。天の厩に繋がれておりやす」
「それは承知だよ。その厩にはコハギがいるだろう?お前の馬子の」
何だ婆様、そこまでご存じか…相変わらず、食えない婆様だ…團兵衛はがっくりと肩を落とした。
「コハギに言って、権多を連れて来させておいで」
團兵衛は半ばあきらめ気分で
「そこまで仰るなら、お伽婆様ご自身が蓮臺に行かれてはいかがです?コハギをつけて権多をお貸ししますんで」
すると、お伽婆様は小さく息を吐いて肩を落とし、珍しく静かな声で
「行けるもんなら行ってるさ」
とポツリと言った。その分、又小さくなった気がした。その様子があまりにも悲しげだったので、つい、ほだされて團兵衛は
「わかりやした。アタシが行って参りやす」
と言ってしまった。そう團兵衛が返事をした途端に、お伽婆様の殊勝な様子は瞬く間に消え去り、いつもの婆様に戻ってしまった。そして跳ねるような話し方で、
「そうかい、ありがとうよ、團兵衛!おまえに行って来てもらいたいのは、蓮臺のはずれ、清瀬川にかかっている鹿追橋の袂にある家だよ。そこにいる者たちの様子を見てきてほしいのさ」
「はあ…鹿追橋の袂でござんすね…お名前はなんて仰るんで」
「家の名はわからぬ。だが、娘の名前はわかっている。おねずだ」
「おねずさんですね。おねずさんの様子を見てくれば良いんでやすね」
「そうだ、頼んだよ。お前もあながち知らない者じゃないからさ」
こんな経緯があって、今、團兵衛はここにいるというわけだ。ここに来るまでには、コハギをなだめすかしたり、いろいろと面倒な手間があったのだが、それはそれとして…。
出会ったのである。
あの美しい冷たい完璧な骸だった娘に。それもさすがの團兵衛も思ってもみなかった姿で。
「こたきちゃま、いかえやどのだ」
戸口から中に入る時のおねずの声で團兵衛は我に返った。
そうだ、今は鋳掛屋に徹しなければ。團兵衛は気を引き締めた。狭い厨の小さな竈の前にしゃがみ込んでいた老婆がすっと立ちあがり、こちらに来る。
老婆は團兵衛の前に立ち、下から見上げた。その老婆の下から、おねずも見上げている。惣右介も六尺近い大男だが、團兵衛はさらに大きく、優に六尺を超えているようだった。
「鋳掛屋、ちょうどよかった。直してほしい鍋がある」
その老婆は、身体は小さいながらも、毅然とした声で言った。團兵衛は(どこの婆様もしっかりしていらっしゃることだ)と心の中で苦笑いした。
「お刀自様、ありがとうございやす。アタシは日本中を流す鋳掛座に属しております團兵衛と申します。これがその御朱印でございます」
と頭を下げ、なおると胸元から折りたたんだ紙包みを取り出し、小滝に両手で捧げ持って渡した。鉄製の鍋釜は貴重品である。それを修理とはいえ、見も知らずの者に預けるのだ。身元をしっかりと証明して見せる必要がある。
「どうか、ご確認くださいまし」
「ふむ」
小滝は堂々としていた。その押し出しに團兵衛は感心した。
(このあばら屋には似つかわしくない貫禄の婆様だ)
「わかりました、團兵衛とやら。そなたにお願い致しましょう」
小滝は御朱印を團兵衛に返し、再度竈の元に戻った。竈の向こうから鍋を取り出し、團兵衛に手渡した。
「へえ、それでは確かにお預かりいたしやす。軒先をお借りして宜しゅうござんすか?」
「ああ、どうぞ。おねず、案内しておやり」
「あい」
「あ、いや、滅相も無い!お嬢様を煩わせずとも大丈夫でござんす」
團兵衛が腰を低くして断ると
「いかえやどの、こっち、こっち」
と、既におねずは戸口で手招きしながら、ぴょこぴょこ跳ねている。その姿は團兵衛が知っていたかつての少女とは天と地との差があった。
團兵衛は軒先を借りて、仕事場を広げると、ふいごで火を熾し始めた。
「だんべえしゃん、これはなんだ?」
おねずは團兵衛の傍に座り込み、興味深そうに聞いてくる。
「おねず様、これはふいごという道具で火を熾しているのでございますよ」
「ひをおこちゅって、なんだ?」
「火をつけて、その火を大きくするのでございます。そして大きくした火に坩堝をかけて、鍋の修繕に使う銅や錫を溶かすのでございます」
團兵衛はおねずに丁寧に説明をしたが、当のおねずはわかっているのか、わかっていないのか微妙な顔つきをしている。
「さあ、これで準備が出来るまで、待つことになりますんで…失礼して、一服点けさせていただきやすよ」
坩堝を火にかけて、團兵衛は懐から煙管を取り出した。
「きちぇるに、ひをちゅけもうちょう」
おねずが煙管を取り上げようとするのを慌てて團兵衛は止めた。
「そりゃあ、いけねえ!それぐらいじぶんでやりまさあ」
心の底から、團兵衛は驚いた。
「おねず様、煙管というものをご存じなので?」
「わかんない…でも、なんだか、かってに、くちとからだがうごいた」
「さようでございますか」
これは…死んだ娘が持っていた記憶が残っているということか。おねずの身体はもともと、吉原の太夫付きの禿だ。禿は煙管に火をつけて、太夫に渡すのも仕事の内だ。團兵衛は感慨深く感じる。
おねずは目にするもの全てが物珍しいらしく、あれこれと聞いてくる。その質問を適当にいなしながら、團兵衛はおねずを観察する。健康的で活き活きとした瞳を持ち、口が回らないとはいえ、あれこれと話をしてくる。どこから見ても、活力にあふれた美しい幼女だ。それも幸せそうな、だ。
「お前様はたくさん良いことがありなすったようだ、よござんしたね」
團兵衛はふーっと一息、煙を吐くと言った。
「たくちゃん、いいこと?わかるの?」
おねずは團兵衛をまっすぐに見て言う。
「そりゃあ、お顔に書いてありますぜ」
「え、ほんと?」
おねずはびっくりして、ゴシゴシ顔をこすり始める。團兵衛は慌てて、
「おっと、いけやせん!その花のかんばせを乱暴に扱って貰ったら、困りやす。くれぐれも大切に扱えと言うように…と、御伽婆様から言われておりやすんで」
「ん、わかった」
おねず自身もお伽様との約束を思い出し、大人しくやめた。
「大丈夫ですぜ。お顔には何にも書いちゃあありやせん。ただ、おねず様の様子で、わかるんでございますよ」
「ちょうか」
おねずはホッとした顔をする。
「しかしまぁ、こちらでも大切にして貰ってるんでござんすね」
「たいちぇちゅ?」
「そうでやす、大切でござんす」
初めて会った時にも、この小さいねずみは背中に大黒様の守りがあった。
「たいちぇちゅって、なんだ?」
おねずは真面目な顔で聞いてくる。
「難しいことをお聞きなさる…」
煙草を一口吸って、團兵衛は少し考えてから、
「それは、美味しいものを食べさせて貰って」(いやそれだけじゃないか)
「暖かくしてもらって」(これだけでもないな)
「…一緒に笑ってくれること…ですかねぇ」(うん、そうだ、これだ!)
「ちょうか」
おねずは素直にうなずいている。
「おねず様は大切にされて、瑠璃のようにぴかぴかに光ってますぜ」
それを聞くと、おねずは満足げな表情で
「ちょれなら、たいちぇちゅにちてもらっている」
と、胸を張って言った。更に鼻を膨らませて、
「あっちだけのぶらぶらもある」
「ぶらぶら?」
「ちょうだ、ぶらぶらだ。ちょうちゅけどんがちゅくった」
「つくった?」
團兵衛が聞き返すと、殊更に自慢するように
「ちゅわって、ぶらぶらちゅるんだ」
「ほう、座って」
「たかくいけるんだ」
「ほう、高く」
「ひとのおおきちゃなんだ!」
最後は立ち上がって、ほぼ絶叫で言った。これはどうも最大級の感激を表現しているらしい。團兵衛には何のことか全くわからなかったが、おねずが嬉しそうだったので、心底、
(良かった)と思う。前に見た時は、冷たい骸だった美しい幼女が、今は目の前で話をしている。それだけでも不思議なものだが、嬉しそうな顔を見ていると、ひょっとして良い事をしたのかも知れないとすら、團兵衛は思った。
團兵衛はこの幼女、美園屋の千輪太夫付の禿・雛菊を生前見知っていた。
この生きていた時に雛菊と呼ばれていた娘は元の名を「うゐ」と言い、その年の最初の雪が降った日に美園屋に連れてこられた。なんでも年老いた祖母と常陸の方で一緒に暮らしていたが、その祖母が病気で亡くなると、借金の形に巡り巡って、江戸の美園屋に連れてこられたとのことだった。
美園屋は新吉原でも羽振りのいい、大勢の華を抱えた店である。團兵衛はちょいとやっかいな、人がやりたがらないような事も生業にしていた。團兵衛自身が、というよりも團兵衛はそういうもの達の取り纏めをしていた。その為、美園屋の主人を始めとして、吉原の旦那衆とも懇意にしていて、いろいろと話を聞いていた。
幼いながらも、人目を引く雛菊の際立った美貌は彼女の値をどんどんと吊り上げ、美園屋に来た時にはその値は途轍もないものとなっていたそうだ。店頭にこの娘が立った時には、あまたの美女を見てきた美園屋主人・宗右衛門ですら、その美貌に瞠目したと宗衛門自身から聞いている。
宗右衛門はその娘を稀代の太夫にするべく、店一番の名妓・千輪太夫の禿とした。
また、その噂が噂を呼び、吉原でも評判となり、中には「雛菊を呼んでおくれ」という酔狂な客まで出る始末だった。千輪太夫という女人が出来た人物で、そういうお客には
「今日はわっちが雛菊の付き添いでありますわいなあ」
と、コロコロと笑い、盛り上げたとか。
ただ、その評判の雛菊も三月ほど経つうちに、別の評判が立ち始めた。
「美園屋の雛菊は人形娘だ」というものだ。
美園屋に連れてこられてから、実は雛菊は全く笑わず、そして言葉を発しなかった。
最初は緊張のためかと言われ、そのうち恥ずかしいのか、在の出だから人慣れしていないから…と言われた。だが、心配した千輪太夫が有名な南蛮医者に診せたところ、声が出ない…ということがわかった。情の深い千輪太夫は南蛮渡来の薬を手に入れてやったり、大陸の薬師や果ては占い師、まじない・祈禱と手を尽くしたが、雛菊の声は出ず、表情も変わらなかった。
もちろん、そんな雛菊の様子を美園屋宗右衛門もどうしたものか…と、悩んでいたが、宗右衛門の姉・美園屋の女将お総は
「なあに構うもんか、この美貌だ。かえって余計な事を言わないだけ、マシってもんだよ」と言って憚らなかった。お総の言葉を聞いて、宗右衛門は困惑して言った。
「だが、これでは人形も同じだ。太夫にはなれん」
するとお総は平気な顔で
「人形なら、とことん人形になって貰おうじゃないか。語らいや歌は無理でも、踊りや楽器はできるだろうよ。和歌だって絵だって、黙ってても出来るだろうし。それに、おいおいこの子ならではの使い道もでてくるってもんだ。高い元手がかかってるんだからね」
とお総は暗く笑った。
「我が姉ながら、嫌な気分になった」
と、一緒に蕎麦がきを食べた折り、美園屋は團兵衛にこぼした。
「旦那、それは鬼の目にも何とかってやつですかい?」と揶揄半分に言ったら、
「俺だって、人の心は人一倍持っているのさ」
と美園屋は泣いているのか笑っているのかわからない表情で言った。
それは去年の暮れのことだった。
「だんべえしゃんは、たまちいのうばいかたをちっているか?」
突然、おねずに聞かれて團兵衛は煙草の煙を吸ってしまい、むせてしまった。
「何を突然、仰いますのやら」
「あっちはちょうちゅけどんのたまちいをうばうために、ここにきた」
「はあ、さようで…」
余りにも話が飛躍して、團兵衛は二の句が継げない。
「ちょうちゅけどんのたまちいをうばって、だいこくちゃまにちゃちゃげる。そちて、ねずみぢょうどにかえるんだ」
じっと坩堝の掛っている火を見て、おねずは言う。團兵衛の顔は見ない。心なしか、声も小さく低い。
「生憎、アタシは不調法でそういうことは…わかりかねますんで」
(いくらでも、どんなやりようでも…)と、いつもなら請け負うところだが、何故かおねずにはそんな自分を知られたくなかった。
「ちょうか」
おねずは肩を落とした。
「お役に立てず、申し訳ござんせん」
「いいんだ、ぢぶんでかんがえなくちゃ、いけないんだ。だから、かみちゃまにきいてみる」
團兵衛は一瞬、それじゃ自分で考えたことにはならないんじゃ…と思ったが、それも黙っていた。
「おねず様は、そうすけ様という方の魂を奪おうと考えていらっしゃるんで?」
「ちょうなんだ。ちょうちゅけどんが、あっちにちゅをかけた。ちょれがあるかぎり、あっちはかえれないんだ。ちょれでおとぎちゃまが、あっちをひとがたにちてくれた」
「ははあ、なるほど」
「でも、たまちいのうばいかたはぢぶんでかんがえるのだと、おとぎちゃまはいった。ちょうじゃないと、だいこくちゃまはおねがいをきいてくだちゃらないんだ。だから、かみちゃまにきくんだ」
おねずは一気に話し、息を吐いた。
「でも、かみちゃまにあえない。だから、まだ、たまちいのうばいかたがわからない」
團兵衛はまじまじとおねずを見た。
「おねず様はそれでここにいらっしゃるんで?」
「うん。ちょうちゅけどんがいつ、ちんでもいいように、ちょばにいる」
「それで、ご自身でなんとかしなければならないんでござんすね?」
「ちょうだ。はやくちないと、あっちのじかんもなくなるんだ」
「それはお悩ましいことで」
團兵衛は(なるほど、お伽婆様はこのおねず様の本願がどこまで進んでいるのかを確認したかったのだな…)と思い至った。
「おねず、おいで」
厨の中から、小滝の声がした。
「あーい」とおねずは立ち上がって返事をすると、
「こたきちゃまがよんでる。だんべえしゃん、またね」
と言って中に入っていった。
團兵衛がはんだ付けを始めて暫くすると、厨の方から豆を煮る良い匂いが漂ってきた。
(小豆でも煮てるのか…貧乏なんだか、裕福なんだかわからないお家だな)
團兵衛はそう思う。なるほど、お伽婆様が「家人を見てこい」と言ったわけだ。
そして、また中では「おねず、若様にお持ちしておくれ」と言っているお刀自様の声がした。コタキ様…というらしい。「あい」と返事をするおねずの声が続き、しばらくパタパタとしていた…と思ったら、戸口からおねずが出てきた。
手には湯気の立った木地椀を乗せた盆を持っている。
「だんべえしゃん、あじゅきだ」
そしてからくり人形よろしく、よちよちと歩いてきて、團兵衛に差し出した。
「あ、こりゃうまそうだ、ごちになりやす」
煮た小豆は團兵衛の好物だ。遠慮なく頂くことにする。
「こたきちゃまがたいた」
「さようで…ありがたいことでござんす」
横に座って、おねずはじっと團兵衛が食べるのを見ている。さすがに気づまりになって、
「おねず様は召し上がったんで?」
「おきゃくちゃんがちゃきだといわれた」
「そりゃ、申し訳ねえ。アタシなんかをお客だなんて…」
團兵衛は慌てて、煮小豆を掻っ込む。瞬間、熱さが口に広がり、
「あちち!」と叫ぶと、
「いま、おみじゅ、もってくる」
と、くるりとおねずが立ち上がり背を向ける。
「おねず様、大丈夫でござんすよ、お構いなく」
團兵衛はなおも慌てた。
「おねず、だから言っただろう。少し冷めてから、持って行って差し上げろって」
今度は中から、大男が湯呑を二つ乗せた盆を持って現れ、團兵衛にひとつを渡した。
「鋳掛屋、すまんな。水だ」
「こりゃ、旦那様、お手ずから…申し訳ないこってす」
團兵衛は恐縮して、水を受け取り一気に飲み干した。
「ちょうちゅけどん!でも、あじゅきはたきたてが、うまい!」
(これがそうすけ様という、件の御方か)
團兵衛は改めて、見ないふりをしながら惣右介を観察した。年の頃は二十代半ばか、背は六尺ほど、物腰は柔らか…武ばった所が見受けられない。若様と呼ばれるからには、このあばら屋の主なのか…、というか侍なのだろうか…。
「おまえはそうかもしれぬが、限られた時の中でやりくりする者には、少し冷めた方が食べやすいのだ」
魂を奪おうとしているものと、狙われているものにしては、余りにも暢気な話をしている。
「鋳掛屋、さ、ゆっくりと食べてくれ。小滝自慢の煮小豆だ。ここに茶もある」
「そんな、ぜいたくな。充分でございます、ばちがあたりまさぁ」
「まあ、そう言わず、一服したらいい」
「はあ、ありがとうござんす」
團兵衛に茶を渡すと、惣右介は横に座った。おねずもその横にちょこんと座る。團兵衛が煮小豆を食べ、茶を啜るのを惣右介とおねずは見ていた。
「こりゃ、美味い焚き物ざんすねぇ…お茶も美味えや」
「そうか、良かった」
穏やかに惣右介は言う。
「こたきちゃまのあじゅきはうまいのじゃ。ちちょまきも、だいこんもうまい。ちゅごいのじゃ」
また、おねずは鼻を膨らましていた。それを見て團兵衛は可笑しくなり、そして温かい気持ちになった。
「あんたは御朱印を持っていたが、ということは日本国中を流しているのか」
坩堝のかかる炉の火を見ながら、惣右介は言った。
「さようでござんす。北から南に流れに流れておりやす」
「そうか、さぞかし自由にいろいろなものを見聞きするんだろうなぁ」
惣右介の言い方が、心底羨ましそうに聞こえたので、團兵衛はおや?と思った。
(この旦那は不思議だ。どうみても町人ではない。だが、お侍にしては気が張っていない)
「まことに失礼でやすが、旦那さんは…お武家様でございますか?」
「うーん、なんだろうなぁ。武士だった時もあるが、今は違う」
「はあ」
「今はなんでもない、ただの惣右介だ」
惣右介は笑顔を見せた。
「だったら、お好きなところにも行けるんじゃ、ござんせんか?」
「うーむ、それがなぁ、それは無理なんだな」
「はあ」
「俺は人別帳には載っておらん。檀家でもない」
「じゃあ、無宿者でいらっしゃるということで?」
「おいおい、無宿者に丁寧な物言いはないだろう」
と言って、今度はあははは!と笑い声をあげて愉快そうに笑った。
「どう見ても、旦那さんはその筋のモノには見えやせんが…」
團兵衛は無意識に煙管に火をつける仕草をしかかり、
「あ、失礼しやした」とやめた。
惣右介は手を振って、
「気にしないで、やってくれ。俺は身分の上下の外に居るから、関係ない」
惣右介は自嘲気味に笑った。
「よくわかりやせんが、それじゃ、ありがたく」
團兵衛は煙管を改めて取り出す。
煙管が陽にきらりと光った。
「あんたの煙管は良い細工物だなぁ」
惣右介が言った。團兵衛の煙管は銀製で、蝙蝠が羽を畳んだ様子の細工が施されていた。
「蝙蝠の細工か。見事なもんだ」
團兵衛は意外に思った。
「旦那も煙管のご趣味があるんで?」
「いや、俺の御爺様が好きで、良く見せてもらった」
「ほうお、旦那の御爺様が。そりゃあ、良いものをお持ちだったんでしょうねぇ」
「俺には良くわからないが…まあ、そうかもしれん」
そして惣右介は心の中で(高値で売れたからな)と付け加えた。
「ああ、そう言えば」
にわかに蘇った記憶に惣右介自身が浮かれるような明るい気持ちになった。
「蝙蝠の銀煙管と言えば、爺様に聞いたことがある。まだ御爺様が若い頃…初代の御館様と一緒に戦場を転々としていた頃の話だそうだが…。六尺を超える堂々とした体躯の野臥と山中で出会ったそうだ。野伏にしておくには惜しい、非常に腕の立つ男だったそうだ」
團兵衛は黙って聞いていた。
「その野伏が次々と篁の味方を倒していき、もう最後は御爺様だけになった時、御爺様と野伏は刀を捨てて取っ組み合いになったそうだ。その野伏と互角で組み合って戦っている時に、御爺様の背後をよその落ち武者が『獲物を山分けしようぜ』と襲ってきて、組み合っている御爺様は手を離せず、あわや!というところで」
「へえ」
團兵衛は気のない相槌を打った。
「なんとその野伏がうちの御爺様を渾身の力で反対側に投げ飛ばし、『卑怯者め!』と叫んで、その落ち武者から救ってくれたんだと…。その時、その刀を受け止めたのが、蝙蝠の銀細工の煙管だったそうだ」
「…ほう、そうなんでございますか」
團兵衛はさも感心したかのように相槌を打った。
「それで、うちの御爺様はその野伏に『そなたに助けてもらった命だ。潔く、そなたに討たれよう』と言ったそうだ。すると野伏は『成り行きとはいえ、せっかく助けた命である。無駄になさいませぬように』と、そのまま去っていったそうだ。とても深い良い声だった…と御爺様は言っていた」
そこで惣右介は一息つくと、
「きっと、あんたのような声だったんだろうな」
としみじみと言った。今度は團兵衛があはははと笑って、
「まさか。私のようなものと一緒になさっては、旦那の御爺様に申し訳がたちやせんや」
「そんなことは無いが…身の丈も六尺以上とのことだったし、顔だちも大陸系だったようだ。まだ御爺様の時代には、渡来人もたくさんいたようだったから、もしかしたら、大陸のお人だったのかもしれぬ。それで、うちの御爺様はその野伏を偲んで、銀細工で蝙蝠の煙管を作らせたんだ」
「ほう。その煙管を旦那はご覧になったんですかい?」
「ああ。いつも御爺様は、『本物には蝙蝠の中央に傷があるんだ…俺を助けた傷がな…』と話してくれた。御爺様が機嫌の良い時には、必ずと言っていいほど、この話をしていたんだ。ひょっとして、あんたの煙管に傷があるんじゃないか?」
惣右介が笑って軽口をたたくと、
「よして下さいよ、旦那。まさかそんなわけがあるはずないでしょうが」
と、團兵衛もカラカラと笑いながら、その実、煙管をそっと懐にしまった。
「ちょうちゅけどん、あっちはもうあじゅき、たべてもいい?」
ここまでじっとしていたおねずが言った。二人の話が終わるのを待っていたようだ。
「ああ、そうだった、お前はまだだったな。すまん、すまん!それじゃ、中に入ろう」
惣右介はそう言って、おねずを立たせ、自分も立ち上がった。
「鋳掛屋、邪魔をしてすまなかった」
おねずは、惣右介の言葉が終わらないうちに、中に飛び込んで行った。その後を惣右介がゆっくりとした足取りで入っていった。
はんだで鍋の穴を塞ぎ、後処理を済ませると、團兵衛は軒下に広げた細工場を片付けた。最後に箒で履いて、すっかり何もなかったかのようにする。
團兵衛は直した鍋と、小豆の椀、湯呑を持って戸口に立った。
「もうし、お刀自様。鋳掛が終わりましたんで、お改め下さいやし」
「はい、ご苦労様」
小滝が手をふきながら出てきた。
團兵衛から鍋を受け取り、表裏とひっくり返して、叩いて音を確かめる。
「ああ、きれいにできている。ありがとう」
「へえ、ご満足いただけたなら、ようござんした。それと、贅沢なものをご馳走様でございました」
と小豆の椀と湯呑を返し、丁寧に頭を下げてから
「まことに美味しゅうございました。お刀自様の味つけはお上品でございやすね。こんなに美味しい小豆は滅多に口にできるもんじゃありませんや。汚れたままで申し訳ないことでござんす」
「ああ、気にしないでおくれ。口にあったならよかった」
小滝はにこにことして
「今日はたまたま、小豆を煮たのだ。若様が今井屋でお砂糖を貰ってきてくださったからね。うちの人たちは小豆が好きなものだから」
團兵衛は(うちの人たち…なんだな)と思った。
小滝は鍋がきれいに直ったこと、小豆の味が褒められたことに上機嫌だった。
「で、お前はおねずの知り合いなのかい?」
代金を支払いながら、何気なく小滝は言った。團兵衛はドキッとしたが、
「おねずさんというのは、あの娘さんのことで?まさか。初めてでござんす」
「そうかい」
「なぜ、そう思われたんで?」
「いえ、なんとなくですよ。変なことを言って悪かった。気にしないでおくれ」
「いやあ、あんなにきれいな娘さんは江戸や京都にも滅多にいないのは、確かでござんす」
團兵衛が心から言うと、
「そうなんだよ。あの子は滅多に無いくらい美しい子だ。だけどその割には、お前はびっくりせずに普通に話していたから…そう思ったのかもしれないね」
「はあ…お客様にいちいち心を動かしていたら、アタシら流しの仕事は務まりませんので、慣れているんでございます」
「ああ、それはそうだ。忘れておくれ」
團兵衛は小滝に深々とお辞儀をすると、戸口にまとめておいた荷物に手をかけ、深く息を吐いた。
(ああ、びっくりした。どこのお婆様も油断ならねえ…)
気持ちを立て直して、團兵衛が荷物を肩に背負うと
「あ、だんべえしゃん!」
おねずの声がかかった。
あばら家の裏の方から、おねずと惣右介が連れ立ってやってきた。
「いかえや、おわった?あっちのぶらぶらみる?」
「はあ、こりゃあ、おじょうさま。ありがとうございやす。ですが、アタシはそろそろお暇しませんと、次の所に行きますんで」
「ちょうか」
あからさまに、おねずはがっかりした。
「おねず、鋳掛屋は忙しいのだ」
「旦那さん、ありがとうございやす。お世話になりやした。皆さま、お達者で」
團兵衛は少し腰をかがめて会釈し、八幡様に上がる坂道の方に去って行った。坂道を曲がるときに、もう一度團兵衛は振り返って会釈した。惣右介も会釈を返し、おねずは手をぶんぶんと振りながら
「だんべえしゃん、またねー」と叫んだ。
「ご城下にはいかないのだな。それとも、もうご城下を回った後だったのか」
惣右介は團兵衛の去っていくのを見ながら
「自由というのは良いものだな」
と言った。おねずと言えば、口の回りに小豆の甘さの名残を見つけ出し、ご機嫌でぺろぺろと嘗め回していた。その様子は、高い値をつけられた絶世の美少女というよりも、ただただ甘やかされて育った幸せな子どもの姿だった。
團兵衛は募者町の坂からそのまま八幡様のわきに繋がる坂道に回り込み、だらだらと続く登坂を八幡様の裏手に上がって行った。そこはご縁の日には市が立つ場所だったが、今日は市は立っておらず、遠目にも大きな馬と馬子が一人いた。馬子は所在なさげにしていたが、團兵衛の姿を認めると大声で
「羊、遅い!」と叫んだ。
「人前で羊と言うなと言っているだろうが」
「オレも権多も、待ちくたびれた」
「懐かしくて、ちょっと真面目に鋳掛屋をやっていた」
「何ふざけたこと言ってんだ!お前はこれで江戸に帰るだけだが、オレはその後、権多を連れて天の厩に帰るんだ。それも見つからない様に権多を戻さなきゃならねえんだ!」
「いつも、悪いなあ。まあまあ、お伽婆様の依頼だ。堪忍してくれよ」
「オレは関係ない!」
「コハギよお…あんまり、うるさいと、また羽を抜くぞ」
それを聞いて反射的にコハギは両脇を両手で抑える。
「やめろよ!それをやって、困まんのは、羊だからな」
「だから、その名を言うな。團兵衛と言え」
「はいよ、團兵衛さん!」
栗毛の権多も待ちくたびれたのか、前足でしきりに地面を叩き、催促をし始めている。
「すまんな、権多。そうだな、行こうな」
團兵衛は深い声で言って、優しく栗毛の鼻面を撫でてやった。そして懐から出した風呂敷で鋳掛屋の道具一式を覆って消してしまい、今度はその風呂敷を再び畳み、それを懐に入れた。身軽になると、團兵衛はひらりと馬の背に飛び乗った。
團兵衛が馬の背に収まるのを確認して、
「それじゃいくぜ!」
とコハギは権多の手綱を持って走り出した…と思いきや、宙に階段でもあるかのように駆け上り、権多も手綱を引かれてそのまま宙を駆け上がる。
そして…二人と一頭は、薄く紫色に徐々に暮れていきつつある空に消えた。
コハギと権多が、夕方と夜の境目の国を目指して宙を駆け上がっていくのを見送って、團兵衛は一息ついた。そして、背筋を立て直すと、
「さあ、お伽婆様のところに報告に行くか」
と独り言ち、常とは違い足音を立てずに静かに歩き出した。
夕暮れに向かい、大川端の歓楽街は人も多く出ているが、人の間を縫って團兵衛は影のように歩いていく。
團兵衛が極楽店についた時には、未だ辛うじて夕暮れの名残がそこらに残っていた。
極楽店の奥、どん詰まりには「大黒堂」がある。名前どおり、その中には大黒様が祀ってあり、お伽婆様はその堂守でもあった。今日はそのお堂に灯が燈っている。
(婆様はお堂の方だな)と、團兵衛はまっすぐ長屋の奥へと向かった。
團兵衛が大黒堂の前に立つと
「お入り」と中から声がした。お伽婆様の声だ。
「お婆様、ただ今帰りやした」
「お帰り、團兵衛。よく行っておくれだったね。それに約束通り、満月の上がる前に帰ってきておくれだ。本当にありがとうよ」
お婆様は珍しく、團兵衛を優しい声で労った。
「まあ、まずはゆっくりと一服」
御伽婆様手ずから、お茶を出してくれる。
「頂きます」
と言いながら、團兵衛は小滝のことや惣右介のことを改めて思う。
「さて、團兵衛。話をしておくれ。募者町の家には行ったかい?」
「へえ。まあ、文字通りのあばら屋でございやした」
「ほう。そこにおねずはいたのかい?」
「へえ。おねず様は呪敵の男と、お刀自様と三人で住んでおりやした」
「ふむ。その男は何という?」
「募者町の惣右介と言っておりやした」
「ふうん。どんな男だい?」
「うーん、つかみどころのない、お侍らしくない元お侍でやした」
團兵衛がそう言うと、お伽婆様は顔をしかめたのか、顔に映った蝋燭の灯の影が揺れた。
「そうかい…なんで、そんな鰻みたいな男に呪をかけられちまったんだろうねえ、あの子は」
「そういう割には、おねず様は幸せそうでしたぜ」
「幸せ?」
お伽様は眉根を寄せた。
「いったい、どういうことだい?」
「ご一家で大切にしてもらっているようでございやした。ご一家と言っても、惣右介様とお刀自様のお二人ですが、顔の血色も良かったですし、仕立て直しとはいえ、良いべべも着せてもらってました。おやつは小豆を甘く煮たのでしたし…」
團兵衛は小滝の煮小豆の味を思い出した。
「なんだって!」
お婆様は「小豆の甘く煮たの」に過敏に反応した。
「そんな贅沢なものを食べさせてもらってるのかい?」
「へえ。あとは、アタシにはなんだかわかりやせんでしたが、自分のぶらぶらがどうとか…豪くご機嫌でした」
「自分の呪仇に骨抜きにされてるというわけかい?」
「まあ、そんなところで」
「大黒様に立てた誓いをなんだって思ってるんだろうねぇ!まったく。これだから」
この後、お伽様は口をもぐもぐさせてはっきりとは言わなかった。團兵衛は(これだから)の先がとても気になったが、決してお伽婆様は口にしないだろうともわかっていたので、そのまま流した。
「ですがねえ…アタシはなんか久しぶりに良いものを見させて貰った気分になりやした」
「あんたまで、何を言ってるんだい!仏心でもうまれたってえのかい?」
「そんなんじゃありやせんが」
(でも、この世の片隅でああいう光景があることだけでも、救われる…)
と團兵衛は思った。芯から思ったのである。
團兵衛は今まで長い時間を過ごして来て、見たくないものを余りに多く見て来たのだ。
「ふむ。幸せかどうかはともかくとして、あの子の本当の望みは果たされてないわけだ」
「へえ。まだ魂を奪う方法がわからないとお悩みでしたよ」
「まだ、そこなのかい!」
御伽婆様は深いため息をついた。
「先月の満月から一か月、あの娘はひと月を無駄にしたってことだ」
「無駄?」
「ああ、無駄、だよ。あの子があの子でいられる時間は限られている。そうそう浮かれてばかりいるわけには行かないんだよ」
(そうさね、あの身体が駄目になってしまわないうちに、何とかしてもらわないと)
お伽様が心の中で思ったであろうことは、なんとなく團兵衛にもわかったが、だが何故かその通りにはなって欲しくない…と團兵衛は思った。それが何なのかは、團兵衛自身にもわからなかった。




