眠れなくて
サクヤと別れ、自分の部屋の前まで戻ってくると、フィルは足を止めた。
扉の前。
そこに、ひとつの影があった。
膝を抱え込むようにして、床に座り込んでいる少女。
廊下は薄暗く、窓から差し込む月明かりだけが床を淡く照らしている。
窓際の近くに座る彼女の横顔を、その青白い光が静かに縁取っていた。
「ルーン…?」
フィルは少女の姿を見て、呟く。
靴が床を打つ小さな音が廊下に響き、その少女…ルーンは顔を上げた。
フィルの姿を見つけると、ぱちりと目を瞬かせ、すぐに立ち上がる。
「…あ…」
少し慌てたように服を整え、口元にぎこちない笑みを浮かべた。
フィルは彼女に歩み寄りながら、首を傾げる。
「ここで何してるんだ?」
ルーンは一瞬言葉を探すように視線を揺らし、それから小さく答えた。
「眠れなくて……」
その顔には、どこか疲れが滲んでいる。
「騎士の人に部屋の場所を聞いたの。それで、ここに来て……」
ルーンは扉の方をちらりと見た。
「ノックしたんだけど、いなくて」
肩を竦める。
「仕方ないから待ってた」
そして、すぐに言葉を足した。
「待ってたって…」
「あっ、安心して。そんなに長くは待ってないわ」
フィルはそれを聞いて、短く息を吐く。
廊下で話し続けるのもどうかと思い、彼は扉を開けて、ルーンを部屋の中へ招き入れた。
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部屋は思っていたよりも簡素だった。
広さはそれほどない。
ベッドと小さなテーブル、壁際のクローゼット。置かれている家具はそれだけだ。
窓は開いていて、夜風がカーテンを静かに揺らしている。
ルーンは部屋に入ると、ゆっくりと周囲を見渡した。
「……」
フィルは窓の方へ視線を向けながら言う。
「ここに戻ってくるのも久しぶりだよ」
三年。
その時間が、言葉の奥に沈んでいる。
ルーンは何も言わず、静かにベッドへ腰を下ろした。
フィルもその隣に座る。
「……よかったわね」
「ん?」
「無事に故郷に帰ってこれて」
「……ああ。うん。まさか普通に帰ってこれるとは思ってなかった…」
眉尻を下げて、笑う。
「えと…それで、どうしてオレのところに?」
フィルは少し首を傾げて聞いた。
「フィラーラは?」
「フィラーラなら早々に眠ったわ」
ルーンは答え、小さく笑う。
「シオンとジェイクも、雪山登山での疲れが出たみたい。三人ともぐっすり」
そして、肩を竦めた。
「話し相手が欲しいからって起こすのも忍びなくて。…それで、貴方のところに来たの」
「オレも眠ってるかもしれないって考えなかったの?」
ルーンは少しだけ視線を逸らした。
「考えたけど……」
小さく息を吐く。
「考えるより先に体が動いていたのよ」
そう言って、困ったように眉尻を下げた。
その表情を見て、フィルは少しだけ目を細める。
「眠れない理由、聞いても?」
何気ない調子で尋ねる。
ルーンは少し考えるような仕草を見せて、フィルの右手へ視線を落した。
「色々考えていたら、目が冴えちゃって」
「色々?」
「そう。色々」
それ以上は言わない。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。
その静けさを破ったのは、窓から入り込んだ風だった。
夜の空気は冷たい。
防寒着を脱いだままのルーンには少し厳しい寒さで、冷たい風が肌を撫でると、ルーンは小さく体を震わせる。
その様子に気付いたフィルは立ち上がって、窓がある方へ歩いていった。
「……」
開いたままの窓枠に手をかける。
おそらく、誰かが開けてそのままにしていたのだろう。
母か。弟か。あるいは使用人か。
そんなことをぼんやり考えながら、窓の取っ手に触れる。
「――――」
その時、ふと、いつの日か思った疑問が頭に浮かんだ。
フィルは自分の右手を見る。
刻まれた刻印。
それから、ゆっくりとルーンの方へ振り向いた。
ベッドに座る彼女は、寒いのか腕をさすっている。
窓を閉めて、フィルはルーンのもとへ戻った。
「あのさ、ずっと思ってたんだけど…」
「なに?」
隣に座り、口を開く。
「……君は、この刻印のことをどこまで知ってるんだ?」
その言葉を聞いた瞬間、ルーンの視線が再びフィルの右手に落ちる。
見えない刻印を見つめ、そして眉尻を下げた。
「…………」
やがて、顔を伏せる。
「詳しくは知らないわ。貴方のように…刻印を持った人を知っていた。ただそれだけ」
「! オレの他にも、こいつを持ったヤツがいるのか?」
「いる、というより、いたって言った方が正しいわ。…その人たちは、既に死んでしまったから」
「………」
ルーンは言う。
フィルは息を呑んだ。
「死んだのは、刻印のせいで?」
謁見の間で言っていたホワイトの言葉を思い出す。
刻印に寄生された者は、やがて意識を乗っ取られ、死に至る。
問えば、ルーンは静かに頷く。
そして、少しだけ間を置き、フィルは言った。
「……もし、話せるなら…その人たちのこと、教えてくれないか」
その声は穏やかだった。
「教えるって、」
「なんでもいい。知りたいんだ、その人たちのこと」
「…………」
ルーンは、すぐには答えなかった。
視線を落としたまま、しばらく黙っている。
部屋の中で、カーテンがかすかに揺れた。
「私が、あの人たちのことについて話せるのはひとつだけよ」
ルーンの口調が、少しだけ強くなる。
「聞いて、後悔しないのなら…教えてあげるわ」
「大丈夫。聞かせて」
「………はぁ」
ルーンは、小さく息を吐く。
「長くなるから、途中で眠らないでね」
そして、彼女はゆっくりと顔をあげて口を開いた。




