フィルとサクヤ
夜の城は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
廊下には灯りが等間隔に並び、静かな橙色の光が石の床を照らしている。外の喧騒は遠く、城の中には穏やかな静けさだけが満ちていた。
「………」
フィルは、城の廊下を一人で歩く。
三年前まで自分が使っていた部屋へ向かう途中だったが、ふと声が聞こえて足を止めた。
「兄さん」
振り返るとそこに立っていたのは、弟・サクヤだった。
昼間と同じ騎士団長の装いだが、どこか肩の力が抜けている。
「少し、いいかな」
サクヤがそう言うと、フィルは小さくうなずいた。
二人は近くの窓際へ移動する。
窓の外には、王都の灯りが広がっている。まるで地上に星が落ちたみたいに、街は静かに光っている。
「…………」
しばらく沈黙が続く。
やがてサクヤが口を開いた。
「……兄さん」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「この三年、何をしていたんだ?」
フィルは窓の外を見たまま、少しだけ考えた。
そして、簡潔に呟く。
「…オレって運が良いみたいでさ、王都を出て、大陸を渡ったあとすぐに恩人に会ったんだ。その人に助けられて、探求者ってやつをやってた。…で、今は旅をしてる」
「旅?」
「…その恩人と、依頼人と一緒にね」
「………」
サクヤは、玉座の間にいた顔ぶれを思い出した。
水色の髪の少女。
紫色の髪の少女。
大柄な青髪の男。
紺色の髪の男。
それから、もう一人。
サクヤは小さく笑った。
「そうか。一応、元気にはしていたんだね」
その声には、ほんの少し安堵が混じっていた。
三年前。
フィルはすべてを失ったまま城を去った。
たった一人でどこかへ消えていく姿を、サクヤは今でも覚えている。
その時はまだ子供で、兄がどうして城を出ていかなければいけないのかを理解していなかったから、兄が出て行ったあと、母の前で泣きじゃくったのも鮮明に覚えていた。
「……」
フィルは何も言わない。
ただ、窓の外の街を眺めている。
サクヤは視線を落とし、少しだけ迷うように息を吐いた。
「兄さんは、これからも旅を続けるの?」
「…そのつもりだよ。まだ依頼が終わってないからさ」
「……あのさ。兄さんに、お願いがあるんだ」
「?」
フィルの視線が、わずかにサクヤへ向く。
サクヤはまっすぐ兄を見た。
「ここに、残ってほしい」
静かな言葉だった。
「ここって、城に?」
「うん」
サクヤはうなずく。
「…父さんの病気さ、もう…治療の術がないんだ」
「え?」
言葉の端が少し重くなる。
「兄さんが出ていって半年くらい経ったあとかな。父さんが突然倒れたんだ。…医者が言うには、父さんは肺の病気を患っていて、長い間苦しんでいたらしい。……薬を飲んでいたけど、その薬ももう効かないところまで病は進行してて、もう長くない」
夜風が窓から入り、カーテンをわずかに揺らした。
「……」
フィルは黙っている。
「父さんが死んだら、この王都には王がいなくなる。そうなってしまえば、ここは終わりだ。……僕には痣がないから、王位継承の資格はない」
サクヤは続けた。
「でも兄さんなら…。兄さんにはあの痣があるから父さんの跡を継げる。この時に兄さんが戻ってきてくれたのは幸運だった」
フィルはサクヤの言葉を聞いて、服に隠れる痣を見つめる。
左腕の二の腕に螺旋状に浮かび上がった痣。王都アーバンの王となる人物にのみ、その痣は浮かび上がる。
「だから兄さん。お願いだ。ここに残ってほしい。ここに残って、父さんの代わりにこの王都を治めてほしいんだ」
サクヤは軽く肩を竦めた。
「それに、これは私情だけど、…三年ぶりに兄弟が揃ったんだ。すぐいなくなられたら、ちょっと寂しい」
冗談めかした声だったが、その奥に本音が混じっているのは明らかだった。
フィルは少しだけ目を細める。
「……恩人たちと旅をしてるって言っただろ」
「うん」
「オレの一存で決められる問題じゃない」
それに。
「それに、……オレには父さんの跡を継ぐ資格なんてないよ」
言いながら、フィルは右手を見る。
銀色の輪の下で悶える刻印。
それを見て、彼は眉尻を下げた。
「この刻印がある限り、オレは普通にはなれない。…そんな普通じゃないヤツが王になったって、意味ないだろ」
その言葉に、サクヤは少しだけ黙る。
そして、ゆっくりうなずいた。
「……そっか」
だがすぐに顔を上げる。
「でも、少しだけでもいい。考えてくれないかな」
真っ直ぐな視線だった。
城の廊下に静かな時間が流れる。
フィルは、しばらく何も言わなかった。




