あの女を信じるな
台所の水道から流れる水音が、静かな夜の家に響く。
ルーンはコップに水を注ぐと、それをゆっくりと口元へ運んだ。冷たい水が喉を通り、乾いていた口の中が潤っていく。
「……ふぅ」
ルーンは小さく息を吐き、飲み終えたコップを洗って棚へ戻した。
「ふぁ…」
こぼれた欠伸を手で押さえ、眠たげに目を細める。頭の中では先ほどの出来事が引っかかっていた。フィルたちのことだ。
「…………」
一体、あの人たちは何なのだろう。この間からやたらと自分の部屋にやってくる。今日は一応、断りを入れてきたからまだいい。問題はそれ以前のこと。
何の断りもなく部屋へ入ってきたかと思えば勝手に中を調べ始め、挙げ句の果てにはこちらの許可も取らずに押し入れまで開けられた。
無神経にもほどがある。
いくら何かを調べていたのだとしても、普通は一言くらい断るものではないだろうか。
「……はぁ」
ルーンはため息をついた。
フィルは謝ってくれた。
それに、今日はわざわざ許可を求めてきたのだから少なくとも以前の行動を反省しているのかもしれない。
しかし、悪気があったのかなかったのか。そればかりは本人にしか分からない。
もっとも、今さらそれを問い詰める気にもなれなかった。
「…………」
ルーンは、ふと考え込むように視線を落とす。それよりも気になることがある。
どうしてフィルはあの時、押し入れを開けたのだろう。
部屋の中で何かを探していたのだとしても、最初に押し入れを調べるものだろうか。普通なら、まず目に見えるところから確認するのではないか。少なくとも自分ならそうする。
「…………」
ルーンは顎に手を添えた。
もしかして──
もしかすると、フィルはあの子の存在に気づいているのだろうか。
「……いや、まさか」
思わず口に出してから、ルーンは首を横に振る。
まさか。そんなことがあるはずない。フィルは、あの子のことを知らないはずだ。知る機会などなかったはず。
けれど、一つの可能性が頭をよぎる。
「……(シオン?)」
ルーンの表情が曇る。
ジェイクから聞いた話では、シオンはあの子と対峙している。だとすれば、彼がフィルに話していたとしても不思議ではない。
シオンがフィルにあの子のことを教えたのだとしたら。フィルが自分の部屋を調べようとした理由にも説明がつく。
「っ……」
嫌な予感がした。
ルーンは顔を上げると、すぐさま足を動かす。
台所を出て、廊下を進む。
最初は早足だった。自室が近づくにつれて胸の奥がざわめく。
もし、本当に気づかれていたら。
もし、あの子が見つかってしまったら。
「…………!」
その時──。
自室のある方角から、何かがぶつかるような大きな音が響いた。
「……っ!」
ルーンははっとし、考えるより先に体が動く。
廊下を駆ける。胸の鼓動が速くなる。嫌な予感が確信へと変わっていく。
どうか間に合って。
ルーンは祈るような気持ちで走り続けた。
+
「!」
自室の近くまでたどり着き、ルーンは足を止めた。廊下の壁際。そこに、小さな人影が倒れているのを見つける。
黒いワンピース。紫色の髪。
見間違えるはずがない。
「……っ!」
ルーンは目を見開いた。
あの子だ。あの子が傷だらけになって倒れている。
「……お、ねえ……ちゃん」
かすかな声が耳に聞こえてくる。
少女が、うっすらと目を開けた。
焦点の定まらない瞳がルーンの姿を捉える。その声を聞いた瞬間、ルーンの胸が締めつけられた。
「おい…!家、壊すなよ!」
部屋の中から誰かの声が聞こえてくる。
清龍の声だ。
「悪い。手が滑った」
続いて、シオンの声も聞こえる。
ルーンは息を呑んだ。
見つかった。あの子が。彼らに。
迷っている暇などなかった。
「こっちへ……!」
ルーンは咄嗟に手を伸ばした。
「っ……」
少女はその手に気づくと、ゆっくりと顔を上げる。痛む体を起こそうとして、かすかに顔を歪めた。
それでも少女はふらつきながら立ち上がり、伸ばされた手へと自分の手を伸ばす。
「逃がすか!」
その時、シオンの叫び声が響いた。直後、金属が擦れる鋭い音がする。剣を抜いたのか。
「……!」
少女は目を見開いた。
そして、迷わず駆け出す。
ルーンのもとへ。
「早く…!」
ルーンも手を伸ばす。
あと少し。もう少しで届く。
少女の指先がルーンの手に触れた。
その瞬間。ふわりと少女の体が黒い靄に包まれる。
「……っ!」
黒い靄は少女の輪郭を覆い、あっという間にその姿を見えなくしていった。
そして次の瞬間、靄はルーンの体へと吸い込まれる。
「っ、……!」
全身に鋭い痛みが走った。
ルーンは表情を歪め、思わずその場にへたり込む。
「はぁ、……は……っ」
呼吸が乱れる。
胸の奥が焼けるように痛み、体の内側から何かが押し寄せてくる。
ルーンは胸元を押さえ、額に浮かぶ冷や汗を拭う余裕もなく耐えた。
やがて、少しずつ痛みが引いていく。
「……はぁ……」
ルーンは肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には誰もいない。
少女の姿も、黒い靄も、跡形もなく、まるで最初から何もなかったかのように消えていた。
「…………」
ルーンはそっと胸に手を当てる。
その奥に確かな存在を感じる。
小さな体。震える心。そして、止まらない涙。
あの子は、ここにいる。
ルーンの胸の奥で泣いている。
「ルーン!」
名前を呼ばれ、ルーンははっと顔を上げた。
「大丈夫か?」
フィルが駆け寄ってきて、彼は心配そうな表情でルーンの顔を覗き込む。
「きゅう?」
彼の腕の中にいるブルーテイルも心配そうに鳴き声をあげた。
その後ろにはシオンと清龍。二人とも、何かを探すように周囲を見回していた。
「……ええ」
ルーンは小さく頷く。
「大丈夫。ありがとう」
「本当に大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「……誰かさんのせいで眠いからよ」
そう答えながら、ルーンはフィルの手を借りて立ち上がる。
まだ体に力が入りきらない。
けれど、ここで余計な心配をかけるわけにはいかなかった。
フィルは彼女の様子を気にしながらも、そっと手を離す。
その間も、シオンと清龍は周囲を警戒していた。
「逃げられた……?」
「……どうやら、そのようだ」
シオンは答え、手にしていた剣を鞘へと収める。そして、彼の視線がルーンへと向けられた。
「…………」
ルーンは思わず目を逸らす。
今の状況で何も聞かれないはずがない。
あの子は確かにここにいた。
そして、彼らはそれを目撃している。
どう説明すればいいのだろう。
そもそも説明してもいいのだろうか。
「…………」
胸の奥に意識を向ける。
そこでは、あの子がまだ泣いていた。
まるで、何かを怖がるように。
まるで、誰かに助けを求めるように。
「ルーン」
シオンの声に、ルーンは顔を上げる。
「ここに戻ってくるまでに何か見なかったか?」
「……何かって?」
ルーンは首を傾げた。
「先ほど、何かがこの辺りを通ったはずだ。人影でも妙なものでもいい。何か見てないか?」
「…………」
ルーンは一瞬、言葉に詰まった。
けれど、すぐに首を横に振る。
「……いいえ。何も」
シオンは黙ってルーンを見つめた。
その視線は鋭く、まるで彼女の言葉の真偽を確かめようとしているかのようだ。
ルーンは視線を受け止めながら、静かに息を吐く。嘘をついている。そう思われても仕方がない。
「……そういえば、どうしてルーンはここで蹲ってたんだ?」
「……!」
今度はフィルが口を開いた。
ルーンの肩が、わずかに揺れる。
「ええと……」
ルーンはフィルとシオンの顔を交互に見た。
何を話すべきか。どう答えれば、不自然に思われずに済むのか。
考えを巡らせた末、彼女はそっと胸元に手を当てる。
「……ごめんなさい。私にも、よく分からなくて」
「分からない?」
「ええ。急に胸が痛くなったと思ったら途端に歩けなくなって……。気がついたら座り込んでいたの」
ルーンは眉を下げ、困ったように笑った。
「…………」
その言葉を聞き、フィルとシオンは顔を見合わせる。
どちらも、すぐには何も言わなかった。胸の痛みで歩けなくなり、廊下で座り込んでいた。
嘘を吐いているとは思えず、ルーンが何かを隠している様子もなかった。
「……そうか」
シオンはそれ以上追及しなかった。
清龍も、何か言いたげな様子ではあったものの結局は口を閉ざす。
「本当に、もう大丈夫なんだな?」
「ええ。ありがとう、フィル」
フィルが心配そうにルーンの顔を見つめて、それを見た彼女は小さく微笑む。
その笑顔の裏に隠されている真実は、フィルにはまだ分からなかった。
+
結局、その夜はこれ以上の手がかりが何も得られないので解散することになった。
シオンと清龍、桃華は、それぞれ自室へと戻っていく。
桃華は最後まで不安そうな様子だったが、フィルに促されると、渋々ながらも清龍と共に彼のもとを離れていった。
「ルーン」
フィルはルーンを自室へ入らせると、彼女の様子をもう一度確かめる。
「無理するなよ。何かあったらすぐに言ってくれ。叩き起こしていいから」
「……ええ。ありがとう」
ルーンはそう答え、静かに襖を閉めた。
フィルはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて腕の中で身じろぎしたブルーテイルに顔を向ける。
「……じゃあ、オレたちも戻ろう」
「きゅう」
ブルーテイルは小さく鳴いた。
フィルはその体を抱き上げ直し、自室へと足を向ける。
そして、廊下を歩きながら先ほどの光景を思い返した。
「………」
影の中から現れた少女。
ルーンによく似た顔立ち。
どうしてあの少女は、ルーンにそっくりだったのか。
『フィル。あの女の言葉を信じるなよ』
不意に、頭の中で刻印が言い放つ。
フィルは足を止めた。
『あの女が黒なのは確定なんだからな。これからも注意しておけ』
「…………」
刻印の言葉にフィルは眉をひそめる。刻印は完全にルーンを疑っているようで、その言葉にフィルは答えず、黙り込んだ。
「きゅう…」
腕の中でブルーテイルが顔を上げる。
つぶらな瞳が彼の顔をじっと見つめ、心配そうに小さく鳴いた。




