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学び舎の授業が終わり、ルーンとフィルは家へ帰ってきた。玄関の扉を開けた途端、ぱたぱたと軽快な足音が近づいてくる。
「おかえりなさーい!」
元気いっぱいの声とともに、フィラーラが二人を出迎えた。
「ただいま、フィラーラ」
「ただいま」
二人が挨拶を返すと、フィラーラは嬉しそうに笑う。
二人はそれぞれの部屋で着替えを済ませ、客間へ向かった。客間に入ると、テーブルの前で唸りながら腕を組む依千蔵の姿が目に入る。
彼の視線はテーブルの上に置かれた一枚の紙に注がれていた。
「……何してるの?」
ルーンが不思議そうに声をかける。
依千蔵はゆっくりと顔を上げた。
「あ、おかえり」
「ただいま。それで、何してるの?」
「……これだよ、これ」
依千蔵はため息交じりに、テーブルの上の紙を指で叩いた。興味を引かれたフィルが近づき、紙を覗き込む。
そこには、大きな文字で『サクラ祭のお知らせ』と書かれていた。
「……さくらさい?」
フィルは文字を読み上げ、首を傾げる。
聞き慣れない言葉ではなかったが、それが何を意味するのかすぐには思い当たらなかった。
「サクラ祭って?」
「年に一度、学び舎でやる祭りのことだよ」
依千蔵は説明しながら、再び紙に目を落とす。
「……はぁ。まためんどくせぇ時期がやって来た」
心底うんざりしたようなため息が客間に響いた。
「めんどくさいお祭りなの?」
「祭りそのものが面倒ってわけじゃねぇよ。問題は、その準備だ」
依千蔵は額に手を当てる。
どうやら、彼にとってサクラ祭は楽しい行事というより、厄介な仕事が山ほど舞い込んでくる行事らしい。
ルーンはその様子を眺めたあと、フィルの隣に立った。
「…………」
二人は顔を見合わせる。
サクラ祭。年に一度、学び舎で開かれる祭り。
それがどのような催しなのか、二人にはまだよく分からなかった。
その時、客間の入り口から足音が聞こえてくる。
「おう、帰ってたか、二人とも」
襖の奥から姿を現したのはシオンとターナだった。声をかけられ、ルーンとフィルはそちらへ顔を向ける。
「ええ。ただいま」
ルーンが答えたその瞬間、フィルの右手の掌に刻まれた刻印がぶるりと震えた。
「……っ」
フィルはわずかに目を見開き、右手へ視線を落とす。
『フィル、話すなら今だ』
頭の中に、低い声が響いた。
「……今?」
『事は早い方がいいだろう』
刻印とやり取りを交わし、フィルは眉尻を下げる。
確かに、こればかりは先延ばしにできない。
フィルは意を決したように立ち上がると、シオンのもとへ歩いた。
「……シオン。ちょっといいか?」
「ん?」
フィルは声を潜め、シオンにだけ聞こえるように告げる。そして、返事を待たずに客間を出ていった。
向かった先は、自分の部屋がある廊下の奥。歩いていくフィルの背を見て、シオンは眉をひそめた。何か事情があるのだろうと察し、彼は黙ってフィルのあとを追う。
その様子を、ターナは腕を組みながらじっと見つめた。
「……フィル、どうしたの?」
ルーンが尋ねる。
「さあな。私にも分からん」
ターナは肩をすくめた。
フィルが何を考えているのか、彼女にも見当がつかなかった。
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自室にたどり着いたフィルは、襖を開けて中へ入った。シオンも続いて部屋に入り、背後の襖を静かに閉める。二人きりになったところでフィルはシオンへ向き直った。
「それで、こんなところまで連れてきてどうした?」
腕を組み、真っすぐに問いかける。
聞かれて、フィルは首の後ろに手を当てた。
「うーん……。何から話せばいいか」
いざ説明しようとすると、思った以上に言葉がまとまらない。どこから話せば、最も分かりやすく伝えられるのだろうか。
『とりあえず、最初から話せ』
「……そうだな」
頭の中で刻印が告げ、フィルは小さく頷く。シオンは訝しげに眉をひそめながら彼の言葉を待っていた。
フィルは一度息を吐き、ゆっくりと口を開く。
話の始まりは子供の泣き声が聞こえてきたあの夜。フィルはあの夜の状況を思い返しながら、なるべく分かりやすく説明する。
夜中に聞こえてきた幼い子供の泣き声。その声は、どういうわけかルーンの部屋から聞こえていた。
不審に思ったフィルは部屋へ向かったが、部屋に足を踏み入れた途端泣き声はぴたりと止んでしまった。
ルーン本人に尋ねても、そんな声は聞いていないという。その後も調べてみたものの、声の正体を突き止めることはできなかった。
あの声は何だったのか。
なぜ、ルーンの部屋から聞こえてきたのか。そして、どうして突然聞こえなくなったのか。
いくら考えても答えは見つからなかった。
だからこそ、フィルはシオンに助力を求めることにした。
「……と、いうわけなんだ」
一通り話を聞き終えたシオンは訝しむように表情を歪める。顎に手を添え、しばらく考え込んだ。
「泣き声?」
「ああ。オレだけじゃなくて、桃華も聞いてるから聞き間違いなんかじゃない。二人で調べてみたけど、よく分からなくて……」
フィルは困ったように眉を下げた。
自分一人だけが聞いた声なら、疲れや勘違いで片づけられたかもしれない。だが桃華も同じ声を聞いている。
それに、あの夜の出来事は単なる聞き間違いだと考えるには不可解な点が多すぎた。
「なるほどな。わざわざこんなところまで来て何の話かと思ったら……」
「急にこんな話をしてごめん。力を借りるなら、話すのはなるべく早い方がいいかと思ってさ」
フィルは申し訳なさそうに言った。シオンは組んでいた腕を解き、両手を下ろす。
「確かに、それはお前たちだけじゃ無理かもしれないな」
「……シオンは聞いてないのか?泣き声?」
「聞いていたら話の途中で言っている。おそらく、その声はお前と桃華にしか聞こえない声なんだろう」
「え?」
「そんな、家中に響き渡るような声だったのなら俺やターナさんらが気づかないはずがない」
「…………」
シオンは迷いなく答えた。
フィルは口を閉ざす。
言われてみれば、そのとおりだった。あの声は決して小さなものではなかった。少なくともフィルにも桃華にもははっきりと聞こえていた。
あんなに大きな声だったらシオンたちが聞いていてもおかしくはない。それなのにシオンたちは何も聞いていなくて、ルーンにも聞こえていない。
つまり、あの声は誰にでも聞こえるものではなかった。
「……そういえば、そうだな」
フィルは眉をひそめ、自分の右手を見つめる。
やはりあの泣き声はフィルと桃華、刻印を持つ者にしか聞こえないものなのだろうか。
「でも、それが本当ならブルーテイルは?あいつもオレたちと同じで泣き声が聞こえてたけど?」
しかし、ブルーテイルもまたあの声を認識していた。
それが事実である以上、刻印を持つ者にしか聞こえないという仮説にはまだ疑問が残る。
「それは単に、お前に接触していたからだろう」
「ん?」
「刻印の力の影響範囲にたまたまブルーテイルが入っていた。だから聞こえた。それだけだ」
シオンはあっさりと答えた。
あまりにも淡々とした口調。
まるで、それ以外の可能性など考える必要もないとでもいうように。
「……な、るほど」
それを聞いてフィルは納得したような、しきれないような顔で頷く。
『フィル』
「ん?」
その時、頭の中に刻印の声が響いた。
『まだ確証を得たわけではないが、こいつの話を聞いて分かった気がする』
「分かったって……何が?」
フィルは右手を見つめる。
掌の刻印が、ふるふると小さく震えた。
『……また今夜も聞こえてくるかは不明だが』
刻印は、そこで一度言葉を切った。
『……今度は、おそらく見つけられるかもしれん』
「……え?」
フィルは目を丸くした。
先ほどまで正体の分からない泣き声について話していたというのに、刻印は突然、何かを掴んだかのような口ぶりで告げる。しかも、その声にはどこか楽しげな響きさえあった。
いったい、何が分かったというのだろう。フィルの頭上には、いくつもの疑問符が浮かんでいた。
「…………」
シオンは黙ってフィルを見つめる。彼の右手に刻まれた刻印。それは彼の目にもはっきりと見えていた。そして声も、かすかではあるが聞こえてきている。
その事実はフィルに伝えるつもりはない。今、それを告げたところで無意味だからだ。
「…………」
彼の瞳に映るのは、目の前に立つフィルの姿。その背後。そこには、白と黒の影がうっすらと揺らめいていた。
影はフィルの右手の掌から蛇のように伸び、彼の全身を螺旋状に覆っている。それはまるで、フィルの体に絡みついているかのようだった。
白と黒。
二つの色が混じり合うことなく互いの輪郭を揺らめかせている。
シオンはこれまで何度も注意深くそれを観察していたが、その影からは今までに明確な害意は感じられていなかった。
「(……今は、害はないのかもしれないが)」
シオンは内心で呟く。
刻印について彼はまだ多くを知らない。たとえ今は何の害もなくとも、いつかフィルに危険が及ぶ可能性は否定できなかった。
「…………」
刻印は呪いから生まれている。
呪いから生まれている以上は刻印はシオンにとって敵であり、祓わなければいけない対象だ。
フィルの体にまとわりつく白と黒の影が、いったい何を意味しているのか確かな答えはない。分からないものを無条件に信じるわけにはいかなかった。
「………、」
シオンは眉をひそめ、静かに息を吐く。
その視線の先で白と黒の影がゆらりと揺れた。まるで、フィルの言葉に反応しているかのように。




