傍観者ではいられない
とある大陸。某所。
豪奢な城の廊下を、一人の男が歩いていた。カツカツと規則正しく響く足音。
男の身を包んでいるのは漆黒の鎧。背中には深紅のマントが翻り、歩みを進めるたびにその裾がゆらりと揺れる。短く刈り込まれた黒髪。鋭い赤い瞳。
彼…カフルエルの現在の姿は、まさしく戦場を渡り歩く騎士そのものだった。しかし、その肉体には常人とは異なるものが巣食っている。
"呪い"
かつて彼の体を蝕み、同居していたそれは、長い時間をかけて変化を続けた。そして今、ついにそれは進化を遂げ、完全なものとなった。
もはや、呪いは彼の体を侵すだけの存在ではない。カフルエルという人間の一部として、完全に馴染んでいた。
「…………」
カフルエルは廊下の奥へと歩き続ける。彼が向かっているのは、城の最奥に位置する玉座の間だった。
やがて巨大な扉が視界に入り、カフルエルはその前で足を止める。扉には複雑な魔法陣が刻まれていた。侵入者を拒むためのものなのか、それとも特定の人物だけを通すためのものなのか。
いずれにせよ、それは今のカフルエルにとっては無意味だった。魔法陣が彼の存在を感知した瞬間、赤黒い光を放つ。次いで、重厚な扉がひとりでに開かれた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうには、広々とした空間が広がる。
床には鮮やかな赤い絨毯が敷かれ、左右には豪華な柱が立ち並んでいた。壁面には精緻な装飾が施され、天井から吊るされた照明が室内を明るく照らしている。
そして、その奥。幾段もの階段の先に、ひとつの玉座が鎮座していた。
「……………」
そこに、一人の男が腰を下ろしている。男は頬杖をつき、退屈そうに室内を眺めていた。
だが、カフルエルの姿を認めると、その目に獲物を見つけたような愉悦が浮かぶ。
「……来たか、カフルエル。待ちくたびれていたぞ」
男は頬杖をついていた手を下ろし、玉座へ続く絨毯の上を歩いてくるカフルエルを玩具でも眺めるように見据えた。
カフルエルは玉座から少し離れた場所で足を止め、鋭く光る赤い瞳を男へ向ける。
「どうだ?呪いが完全なる成長を遂げ、元の姿に戻った感想は?」
「……感想などない」
カフルエルは淡々と答えた。
男は一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、愉快そうに笑い出す。
「はっ。お前らしい答えだな。シエルはもう少し可愛げのある返答をしたぞ」
「…………」
カフルエルは答えなかった。
男はそんな彼の反応を面白がるように口元を歪める。冷たい沈黙さえ、彼にとっては楽しみの一部だ。
「……まぁいい。それより、お前にも伝えておかなければならないことがある。呼んだのはそのためだ」
カフルエルは黙って続きを促した。男は背もたれに体を預け、わざとらしくひとつ息を吐く。
「……“あれ”が、記憶を取り戻した」
その言葉にカフルエルの表情は変わらなかった。ただ、赤い瞳がわずかに細められる。
「あの村に住み着いているのだから、遅かれ早かれこうなることは予想していた。さほど驚きはしない」
男はそう言うと、懐へ手を伸ばした。取り出したのは、一冊の日記帳。使い込まれた表紙には長い年月を経たような風合いがある。
「これは、ある男が残した日記のコピーだ。表紙も中身も、寸分の狂いなくそのまま複製されている」
男は日記帳を軽く持ち上げ、カフルエルへ見せた。そして、何のためらいもなくそれを足元へ放り投げた。
パサッと日記帳が絨毯の上に落ちる。カフルエルは男を一瞥し、足元の日記帳を拾い上げた。表紙を確かめ、何も言わずに見つめる。
「……これを読めば、事情が分かるということか」
「そういうことだ。せいぜい退屈しのぎに読め。…俺も、いよいよ動く時が来たようだ」
男は玉座から立ち上がった。
その声には先ほどまでの退屈さが消えていた。代わりに、戦いを前にした子供のような昂揚が滲んでいる。
男はゆっくりと階段を下り、カフルエルの横を通り過ぎる。そして、扉の前で足を止めた。
「……やれやれ。いつまでも傍観者ではいられないな」
男は肩をすくめ、振り返った。
「そう思うだろう、カフルエル?また血が流れる。そう考えるだけで胸が躍らないか?」
「……よく喋るな」
振り返らず、カフルエルは日記帳を手にしたまま冷ややかに答える。
「ああ。今、凄く楽しい気分なんだよ。……また“あれ”と殺り合いができると考えると心が躍る。あいつが何を思い出し、どんな顔で俺を殺そうとするのか……想像するだけでたまらない」
男は愉快そうに笑った。
「この結果は、お前があれの体に種を植え付けたことも功を奏しているのかもしれんな。実験だか何だか知らぬが、その点は感謝している」
カフルエルは答えなかった。
男の言う「種」が何を意味するのか。それは彼自身がよく理解していた。しかし、説明するつもりはない。必要のない言葉を費やす趣味など彼にはなかった。
男はカフルエルの反応を気に留めることもなく、むしろその沈黙を楽しむように笑みを深める。そして男は玉座の間の扉を開き、その向こうへと姿を消した。
扉が閉じられ、再び静寂が訪れる。
「…………」
カフルエルは手にした日記帳を見つめた。しばらくして彼は表紙を開く。そこには簡素な文章が綴られていた。
何月何日。
今日は天気が良かった。
何月何日。
村で知人と会った。
何月何日。
いつもと変わらない一日だった。
どこにでもあるような日常の記録。特別なことは何も書かれていない。少なくとも最初のうちは。
カフルエルはページをめくり続けた。日付が進むにつれて、文章の内容に少しずつ変化が現れる。
何気ない日常の記録にあるものについての記述が増えていく。やがてその記述は日記の大半を占めるようになっていた。そして、文章の端々から滲み出るものもあった。
執着。
それも、常軌を逸した執着だった。
「…………」
カフルエルはページをめくる手を止める。日記に繰り返し記されているもの。
それは、ひとつの宝石だった。
呪念石。
かつて世界には"呪い"という概念が存在していた。人々を蝕み、土地を汚染し、生き物の運命さえ歪める力。
だが、今の世界において呪いは一般的な災厄として存在していない。
その理由こそが呪念石だった。
世界に存在するすべての呪いを封じ込めた宝石。それがあることで、世界そのものから呪いを遠ざけている。
しかし、その宝石がいつ、誰によって生み出されたのか。確かな記録は残っていない。ただ、ひとつの説が存在する。
呪念石は世界樹が生み出したものではないか。世界の根幹に関わる存在である世界樹ならば、あるいは可能なのかもしれない。もっとも、それを証明できる者はいないのだが。
けれど、呪念石に秘められた力を完全に扱える人間などこの世に存在するはずがない。
あらゆる呪いを凝縮した宝石。
それを制御するということは、この世界に存在するすべての呪いを制御することに等しく、人間一人の身に余るどころか、世界の理そのものに触れる行為だった。
「…………」
カフルエルは日記帳を閉じる。
パタン、と乾いた音が玉座の間に響いた。しばらく表紙を見つめた後、彼は踵を返す。
もう、ここに留まる理由はない。
深紅のマントを翻し、カフルエルは玉座の間を後にした。
+
自室へ戻ると、扉の前に一人の女性が立っていた。茶色の髪を揺らし、静かに佇む女性。
シエルだった。彼女は廊下を歩いてくるカフルエルの足音と鎧が擦れる音に気づくと、顔を上げる。
「カフルエル様。おかえりなさいませ」
「……ああ」
カフルエルは短く返事をした。
シエルは胸に手を添え、彼を見上げる。その瞳には主人の帰還を喜ぶ忠誠と、彼のためなら何もかも捨てられる危うさが同居していた。
「……私にできることはありますか?」
その問いかけは、まるで玉座の間で交わされた会話を聞いていたかのようだった。
カフルエルは答えず、自室の扉を開く。室内は整然としていた。余計な装飾はなく、必要な家具だけが置かれている。シエルも黙って後に続いた。
「そうだな……」
カフルエルは手にしていた日記帳を近くの棚の上へ置き、少し考えるように間を置く。
「お前は、まだ何もしなくていい。しばらくは様子見だ」
「……かしこまりました」
シエルは素直に頭を下げた。
そして静かに歩み寄り、カフルエルの背中へ腕を回す。そっと抱きつくと冷たい鎧に彼女の体が触れた。
カフルエルは動かない。シエルは目を閉じ、彼の背中に頬を寄せる。
「……“すべてのダークエルフを葬り、世界を壊す”という貴方の計画は、順調に進んでいますわ」
「……」
「実験も成功いたしました。あとは、運命の日を待つだけです」
彼女の声は穏やかだった。
まるで、これから起こることが決められた未来であるかのように。
その腕には、抱きしめるというより決して逃がさないという意志が込められていた。
「……その“運命の日”までに、残りのダークエルフどもが相討ちとなってくれればいいのだがな」
カフルエルは小さく息を吐く。
「問題ありませんよ」
シエルは迷いなく答えた。
「あの宝石の力は、私たちが考えているよりもずっと強力です。きっと、貴方が手を下さなくとも……」
言葉を途中で切り、彼女は静かに微笑んだ。
「その時、私は貴方のお側におります。世界が燃え尽きても、貴方だけはお守りしますわ。たとえ貴方がそれを望まなくても、私は決して離れません」
その先に何が待っているのか。シエルにはすでに見えているのかもしれなかった。
あるいは、見えているのではなくカフルエルと共に破滅する未来だけを望んでいるのかもしれない。
「……そうだな」
カフルエルは頷いた。
そして背中に回されたシエルの手へ自分の手を重ねる。窓の外では夜の闇が城を包み込んでいた。
二人はしばらく、そのまま動かなかった。




