押し入れに何が?
勢いよく開け放たれた襖の向こうには、明かりの灯った部屋。そこには当然だがルーンがいる。
彼女は布団の上に座り、眠る準備をしていた。手にした毛布を整えようとしていたが、突然の物音に肩を跳ねさせ、ゆっくりとフィルたちを振り返る。
「え?」
目を丸くしたルーンは毛布から手を離してフィルと桃華を見つめ、困惑したように眉を寄せた。
「フィル?……それに桃華も?どうしたの?」
「…………」
フィルは答えず、ルーンのそばへ歩み寄る。
窓、障子、棚、壁際の小物、畳に敷かれた布団。視線を巡らせても部屋はいつもと変わらない。怪しいものは見当たらず、先ほどまで聞こえていた泣き声も今はぴたりと止んでいた。
「……ごめんね、ルーンさん。寝るところだった?」
桃華が申し訳なさそうに尋ねる。
「……ええ」
ルーンは短く頷いた。
「突然押しかけちゃって、ごめんね」
「別にいいけど……」
ルーンは二人を交互に見る。夜中に訪ねてきた理由が分からず戸惑っている様子だった。
その時、フィルの頭の中に刻印の声が響く。
『フィル。やはり、この部屋は妙だ』
「え?」
フィルは眉をひそめた。
思わず声が漏れ、ルーンが怪訝そうに顔を向ける。
『そこの女とお前たち以外に、かすかな気配がある』
刻印は続けた。
「気配……?」
『もう一度、周囲を確認しろ』
言われるがまま、フィルは黙って部屋を見回す。窓、襖、棚、そして押し入れ。隅々まで確認しても変わった様子はない。
だが、とある地点に視線を向けた瞬間、刻印の震えが止まった。
『……あそこだ』
「あそこって、…押し入れ?」
視線の先には押し入れがあった。
そういえば。と、フィルはふと思い出す。そういえば昨日、ブルーテイルがあの押し入れの前で鳴いていた。
「…………」
フィルは腕の中のブルーテイルを見下ろす。
「きゅう?」
あの押し入れに何かあるのだろうか。
「…………」
背後では、桃華がルーンに事情を説明しようとしていた。
「それで、二人とも何かあったの?」
「えっと、それは……」
桃華が言葉に詰まる中、フィルは押し入れへ歩み寄る。
「きゅう……」
押し入れの前に立てばブルーテイルが小さく鳴き、呼応するように右手の刻印が大きく震えた。
「…この中に何かあるのか?」
『開けてみれば分かる。……怖がりなお前に、その勇気があればだが』
「……相手が幽霊じゃなければ、別に怖くないよ」
フィルはそう言いながら、取手に手を伸ばす。ルーンが、ふとこちらに視線を向けた。
唾を飲み込み、取手に手をかける。フィルは息を整え、襖をゆっくり開けた。
「っ、」
細い隙間から部屋の明かりが差し込む。暗がりを覗き込みながら、慎重に襖を動かした。
木の擦れる音が静かな部屋に響く。襖が開ききった瞬間、フィルは身構えた。何かが飛び出すかもしれない。反射的に手を離し、一歩下がる。
「………?」
しかし何も起きなかった。
不気味な音も、飛び出してくる影もない。
押し入れの上段には座布団と衣服用の箪笥、下段にはガムテープで封をされた段ボール箱が二つあるだけだった。
「…………」
人の気配はない。幽霊もいない。
ただの普通の押し入れだ。
「……何もないけど?」
「きゅう?」
ブルーテイルも不思議そうに中を覗く。
『…………』
刻印は沈黙した。
「フィル」
「うわっ!?」
その時、突然背後から声をかけられてフィルの肩が跳ねる。振り返ると、ルーンがじっとこちらを見ていた。
「……何してるの?」
「い、いや、その……」
「勝手に開けないで。プライバシーの侵害よ」
「ご、ごめん!物音が聞こえた気がして……でも、気のせいだったみたいだ」
フィルは慌てて頭を下げ、そう言って襖を閉める。閉じた瞬間、刻印が激しく震えた。
「……昨日も言ったけど、そこには何もないわ。あったとしても、使っていないものばかりよ」
ルーンは押し入れを見ながら淡々と続ける。ブルーテイルの頭を優しく撫で、表情をわずかに和らげた。
撫でられ、ブルーテイルは嬉しそうに目を細める。
「……何をしに来たのかは分からないけど」
ルーンはブルーテイルから手を離し、フィルと桃華、二人を見た。
「今、何時だと思っているの?もう眠りたいから、出ていってくれる?桃華もね」
「う、うん。ごめんね、ルーンさん」
桃華が頭を下げる。
「……ああ」
フィルも頷いた。これ以上、ここに居座るわけにはいかない。
そして二人は部屋を出た。背後からルーンの視線を感じながら、フィルは襖の前で振り返る。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ、ルーンさん」
桃華が挨拶を返す。
フィルと桃華が廊下に出たのを確認すると、ルーンはピシャリと襖を閉じた。
「…………」
「…………」
静まり返った廊下の中、二人はしばらく無言で顔を見合わせる。
「……部屋の中には何もなかったね。泣き声も、いつの間にか聞こえなくなっていたし」
桃華が頬に人差し指を添えて呟く。
「……もしかして、本当に幽霊……?」
言い終える前に、ぶるっと桃華は体を震わせる。
「……いや。幽霊なんかじゃない」
「?」
フィルは右手を持ち上げ、掌の刻印を見る。
『確かに気配はあった。だが、襖を開けた途端に消えた。そして……』
「閉めた途端、また現れた」
『その通りだ』
その言葉にフィルは目を細めた。
刻印が嘘をついていないなら押し入れには何かがいる。正確には"いた"はずだ。
襖を開けたら消え、閉めたら現れた。けれど、中には誰もいなかった。上手く隠れたってことなんだろうか。あの押し入れには、いったい何が潜んでいるのか。
ルーンはそれを知らないのか。それとも、知っていて隠しているのか。
「…………」
顎に手を添えて、フィルは眉をひそめる。
「…フィルさん。これからどうするの?」
桃華が不安そうに声をかけた。
フィルはすぐには答えられなかった。このまま二人で調べるべきか、それとも誰かに相談するべきか。
『フィル』
刻印の声が響く。
『これは、私たちだけで調べるには大きすぎる。お前の相棒にも協力を頼め』
「……シオンにも?」
『ああ。もしかしたら、あの女……とんでもないものを隠しているかもしれんからな』
「…………」
刻印の声はどこか楽しげだった。これから始まる出来事を待ち望んでいるように聞こえる。
フィルは右手を握りしめ、ゆっくりと振り返った。視線の先には先ほど出てきた襖。その向こうには眠る準備を再開したルーンがいる。
「…………ルーン」
フィルは小さく呟いた。
彼女は本当に何かを隠しているのか。押し入れに現れた気配の正体は何なのか。そして、あの子供の泣き声は。疑問は増えるばかりだ。
「…………」
フィルはしばらく、閉じられた襖を見つめ続けていた。




