危険云々より
「うえぇぇん!!」
その日の深夜。
静まり返った家の中に子供の泣き声が響き渡った。
「……っ!」
フィルは布団から飛び起きる。
聞き間違えるはずがない。この声は昨夜も耳にした、あの泣き声だった。
右手の掌が痛みを発する。見下ろすと、刻印が小刻みに震えていた。
「ブルーテイル」
「……きゅう?」
隣で眠っていたブルーテイルを優しく起こして、フィルは立ち上がる。
部屋を出ると廊下は暗く、月明かりだけが床をぼんやりと照らしていた。
「うえぇぇぇぇん!」
「きゅう……」
廊下の奥から泣き声が聞こえ、腕の中でブルーテイルが怯えたように震える。
「……大丈夫だ。オレがいるから」
そう言い聞かせながら、フィルは壁に手を添えて歩き出した。
正体の分からない泣き声が、暗い廊下に響き続ける。怖くないはずがない。しかし、引き返すわけにはいかなかった。
「……フィルさん」
しばらく進んだところで、曲がり角の向こうから桃華の声が聞こえる。
顔を向けると、彼女は半袖のシャツに短パンという寝間着姿だった。髪も乱れていることから急いで部屋を出てきたのだろう。
「……聞こえた?」
「ああ。桃華も?」
「うん……」
二人は顔を見合わせる。
「うえぇぇん!!」
「ひゃっ……!」
その瞬間、泣き声が突然大きくなり、桃華の肩が跳ねた。彼女は身を縮め、フィルへ寄る。
「きゅう……!」
ブルーテイルも腕の中で丸くなった。怖がる二人を見て、フィルも喉を鳴らす。
今すぐ部屋へ戻りたい。声の正体は本当に幽霊なのではないか。そんなわけはないと信じていても、一度浮かんだ考えはそう簡単には消えない。
「……い、行こう」
フィルは、自分に言い聞かせるように呟く。
「う、うん……」
桃華も声を震わせながらも頷いた。
二人は再び歩き始める。
声に近づくほど、刻印が強く反応していた。じんじんとした痛みが増し、フィルは右手を握りしめる。
「うえぇぇぇぇん!!」
「……っ、痛……」
桃華が顔を歪める。
彼女の左手の甲に浮かぶ刻印も熱を帯びて激しく反応していた。額に汗を浮かべながら、彼女は左手を胸元で握りしめている。
「桃華、大丈夫か?」
「う、うん……。大丈夫……」
声に余裕はない。
それでも二人は足を止めなかった。
「うえぇぇぇぇん!!」
泣き声が、さらに大きくなる。
フィルは足を止めた。
声の先には、一枚の襖。
桃華も立ち止まり、襖を見つめる。
「え?あれ、ここ……ルーンさんの部屋?」
その瞬間、また泣き声が響く。
「うえぇぇぇん!!」
間違いない。
声は、ルーンの部屋から聞こえていた。
『フィル』
「!?」
その時、頭の中に突然声が響く。
フィルは体を跳ねさせ、右手の刻印を見つめた。刻印はこれまで以上に激しく震えていて、彼はじとっとそれを見つめる。
「……いきなり話しかけてくるなよ!」
『人間というのは、だいたい突然話しかけるだろう。文句を言うな』
刻印は言う。
学び舎での一件以来、刻印は時折こうしてフィルに話しかけてくるようになっていた。頭の中で何の前触れもなく声をかけられる。驚くなというのは無理すぎる。
『それより、この泣き声は何だ?凄く不愉快なんだが』
「オレにもよく分からない。だから、今から調べるんだよ」
『調べる?こんな夜に?怖がりなお前が?はっ。ご苦労なことだ』
「……うるさいな。…それより、お前は分からないのか?この泣き声が何なのか」
『さあな。私にもさっぱりだ。だが、この声は危険だ』
「危険……?」
『ああ。これ以上進むのはオススメしないレベルでな』
「フィルさん……さっきから誰と話してるの?」
皮肉めいた口調だったが、その言葉には妙な重みがあった。この泣き声は危険。どういうことだろう。
考えていると、桃華に声をかけられた。その声にフィルははっとして顔を向ける。刻印の声は彼の頭の中にしか聞こえない。不思議そうに首を傾げている桃華を見て、フィルは眉尻を下げた。
「大丈夫?」
「え、あ、いや……うん。大丈夫。ちょっと……怖さで幻聴が聞こえちゃって……」
「えっ」
言うと、桃華が目を見開く。
幻聴が聞こえている。という言葉が果たして適切だったのか。しかし咄嗟に出てしまった言葉の撤回は出来ず、フィルは困ったように笑うしかなかった。
「うえぇぇぇぇん!!!」
そこで、また泣き声が聞こえる。
二人の刻印に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
「ぐっ……!」
掌と手の甲が焼けるように熱くなり、フィルと桃華は耐えきれずしゃがみ込む。
「桃華……!」
フィルは桃華の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か…っ?」
「っ、痛……い……!」
「きゅう…」
ブルーテイルがフィルの腕から桃華の肩へ飛び移り、小さな鼻先を彼女の頬へ寄せる。心配しているようだ。
『……この気配はマズイな』
刻印の声から、軽薄さが消える。
『フィル。その女の刻印に私を重ねろ』
「……え?」
『早くしろ!』
「っ、あ……ああ…!」
言われた通りフィルは桃華の左手を取り、その甲へ自分の掌を重ねた。刻印同士が触れ合う。
次の瞬間、ビリッと周囲の空気が震えた。二つの刻印が激しく震え、耳鳴りのような音が頭の中へ突き刺さる。
「っ、あ……!」
「なん……だ……っ?」
キィィィィンという高く鋭い響きに、二人は顔を歪めた。ブルーテイルも桃華の肩へしがみつく。
音はしばらく続き、やがて小さくなって聞こえなくなった。
「…………」
フィルは右手を見下ろす。
刻印は静まり、痛みも熱も嘘のように消えていた。
「あれ…?」
桃華も左手を見つめ、ゆっくりと顔を上げる。
「……フィルさん」
「桃華……大丈夫?」
「うん……。もう、痛くない」
「そっか。……よかった」
フィルは息を吐いた。
何が起きたのかは分からない。だが、今は桃華が無事であることに安堵した。
『一応、なんとかなったな』
「……何をしたんだ?」
刻印に問いかける。
しかし、刻印は答えなかった。
代わりに一度だけ震える。
「うえぇぇぇぇん!」
その時、泣き声が再び響いた。
フィルは立ち上がり、目の前の襖を見つめる。声は、間違いなくその向こうから聞こえていた。
フィルは息を呑み、恐る恐る襖の取手に手を伸ばす。
『これ以上進むのはオススメしないと言っただろう』
刻印が再び告げた。
「……ああ。言われた」
『ならば、なぜ進む?』
「……気になるからだよ」
『ほう?』
「それに……」
フィルは黙る。
『……危険云々よりも、女の心配が勝るか?』
「……!」
刻印の言葉に、フィルは表情を強張らせた。
『この泣き声の主は、その女の“身内”のものかもしれんぞ?』
「……どういう意味だ?」
首を傾げる。
しかしそれもまた、刻印は答えてはくれなかった。
『……お前がその気なら止めはしない。それも、お前の選んだ道だ』
「…………」
『だが、よく思い出しておけ。お前の行く道は、お前の選ぶ道は、…常に“茨”なんだと』
「っ、」
からかいも皮肉もない、ただ静かで重い声だった。フィルは再び息を呑む。
このまま進めば、何かを知ることになる。その先には望まないものが待っているかもしれない。それでも。
「………」
フィルは振り向く。
背後では桃華が黙って彼の判断を待ち、腕の中のブルーテイルもじっとフィルを見上げていた。
「…………」
フィルは襖へ向き直る。
恐怖は消えていない。不安はむしろ大きくなっていた。それでも、ここで立ち止まることはできない。
フィルは取手に手をかける。
そして意を決し、彼は襖を勢いよく開け放った。




