酒
自室を離れたフィルは、桃華とブルーテイルと一緒に客間へ向かう。
昨夜の泣き声について話し合ったことで、彼の気持ちは少し落ち着いていた。だが、今夜もまた聞こえてくるかもしれないと思うと不安が消えたわけではない。
隣を歩く桃華も、時折、左手の甲に浮かぶ刻印を見つめていた。刻印は今のところ、いつも通りに小刻みに震えているだけ。
「桃華。今夜のことだけど、無理はするなよ」
「大丈夫。フィルさんこそね」
「オレは大丈夫だよ」
そんな会話を交わしながら、二人は客間へ到着する。
「よー!おはよう!」
「!」
襖を開けた瞬間、フィルの足が止まった。妙な匂いが鼻を掠めたからだ。これは酒の匂いだろうか。客間全体にその匂いが充満している。
テーブルの向こうにはジェイクが座っていて、その前には一升瓶と酒の入ったコップが置かれていた。彼の顔は赤く、呂律も怪しい。
「ジェイクさん、おはようございます……」
フィルが恐る恐る近づくとブルーテイルが足元から離れ、テーブルへ飛び乗った。一升瓶をくんくん嗅ぎ、鼻先でコツンと触れる。
「……えと、何ですか、それ?」
「あん?見てわかんねぇか?酒だよ、酒」
「………朝から飲んでるんですか」
「あっ。それ、いつも清が飲んでるやつ!」
フィルの背後で様子を見ていた桃華が一升瓶を見て目を丸くした。
「おー。酒が飲みてぇっつったら出してくれてよぉ。初めて見る酒だったけど、飲んでみたらまー美味ェのなんの!」
ジェイクは空のコップへ酒を注ぎ、一気に飲み干す。
「ぷっは。うっま!」
今、彼は至福のひとときなのだろう。
フィルと桃華が呆れていると、ジェイクは再び一升瓶へ手を伸ばす。それを見た桃華は慌てて瓶を奪い取った。
「あっ!おい!」
「朝からお酒なんて駄目です!体に悪いですよ!」
「んだよ。ちょっとくれぇ、いーじゃねぇか!」
「駄目です。これは没収します!」
「はあ!?」
桃華は一升瓶を抱えたまま、踵を返す。
「おい!清龍は許してくれたぞ?」
「そりゃ、清は許しますよ!清も隙あらば朝から飲もうとしますから!」
「だったらいいじゃねぇか!」
「よくないです!」
「まだ飲み足りねぇんだけど!これからどうすりゃいいんだよ!?」
「飲むものなら他にもありますから、それを飲んでください!」
「おい、待て!」
桃華は一升瓶を抱えたままフィルの横を通り過ぎて客間を出ていく。
立ち上がろうとしたジェイクだったが、ふらりとよろめき尻もちをついた。
「うおっ……」
その間に、パタンと襖が閉じられる。
「……くそぉ…俺の酒ぇぇ……」
ひっく。と喉を鳴らしながらジェイクは呆然と呟き、テーブルへ突っ伏した。
ゴツン!と、テーブルに額をぶつける。
「ぐぅっ」
「きゅう?」
ブルーテイルが心配そうに近づくが、
「きゅっ…!?」
漂ってきた酒の匂いに驚いて飛び上がり、フィルの腕の中へ逃げ戻った。
「きゅう……!」
前足で鼻を擦り続け、酒の匂いを取ろうと必死にもがく。
「おはよう」
そこで、入口からルーンの声がした。
フィルは振り向く。
「あ、ルーン。おはよう」
ルーンはフィルの隣まで歩いてくると、テーブルに突っ伏すジェイクを見つけた。
「……ジェイク、何してるの?」
「朝からお酒を飲んでて、桃華に一升瓶を没収されて嘆いてる」
「俺の酒えぇぇ……っ!!」
「……ダメ人間ね」
呆れた表情を浮かべて、ルーンは言った。
フィルが苦笑したところで再び襖が開き、桃華がコップを手に戻ってくる。
「ただいま。あ、ルーンさん、おはよう」
「ええ。おはよう」
ルーンへの挨拶もそこそこに、桃華はジェイクの前に水を置いた。
「はい。ジェイクさん。水を飲んでください」
「水より酒を戻せ」
顔を動かし、ジェイクは桃華を睨み付ける。
「嫌です」
「ぐぅ…っ」
「お酒は飲んでも呑まれるな、ですよ。適度に楽しむ分にはいいですけど、飲み過ぎは体に毒です」
「それでも俺は酒を飲みてぇんだよ!酒がねぇと駄目なんだよ!生きる活力なんだよ、酒が!ガキには分かんねぇだろうけどな!この気持ちは!!」
ジェイクはテーブルを叩く。
バンッという大きな音と揺れでコップが倒れ、中の水がこぼれた。
「ダメ人間ね」
ルーンは、またも呆れた表情で言った。
「きゅう……」
ブルーテイルは未だに鼻を擦っていて、フィルはブルーテイルの頭を撫でる。
その後もしばらく、ジェイクの懇願と桃華の拒絶が続いた。
「だから駄目ですって!」
「少しくらいいいだろ!」
「駄目です!」
「一杯だけ!」
「駄目です!」
「じゃあ、半分!」
「諦めてください!」
そこで襖が開き、シオンが入ってくる。彼の背後には清龍の姿もあった。
「……何の騒ぎだ?」
「あ、シオン」
フィルが二人に気づく。
彼らの目に映ったのは、テーブルに突っ伏すジェイクと眉間に皺を寄せて彼を見つめる桃華。そのすぐそばで眉尻を下げるフィル。呆れたような表情を浮かべたルーン。そして、フィルの腕の中で悲しそうに鳴くブルーテイルの姿だった。
「……何だ、これ?」
眉をひそめてシオンが呟く。
フィルは答えに困り、ただ苦笑するしかなかった。
「なら、…3センチ!それならいいだろ!?」
「駄目です!どうしてそんなに飲みたいんですか!?」
朝の客間は、まだしばらく騒がしさが収まりそうにない。




