誰の泣き声?
東の大陸。サクラ村。清龍の家。
時は少し遡り深夜。村全体がすっかり眠りに落ちていた頃。
「うえぇぇぇぇん!」
静まり返った家の中に子供の泣き声が響いた。
「…………」
フィルは、暗闇の中ぼんやりと天井を見ていた。
案の定、今夜は寝付けなかった。
布団の中で何度も寝返りを打ったものの、結局眠れないまま時間だけが過ぎる。
そして今──
「うえぇぇぇん!」
また泣き声。
フィルはゆっくりと上半身を起こした。
「……何だ?」
耳を澄ます。確かに聞こえている。どこからだろう。外から聞こえてきているのだろうか?
そう思ったフィルは布団から出ると窓へ向かう。暗闇の中、足元に気をつけながら歩いて窓を開けた。
夜の冷たい空気が部屋へ流れ込んでくる。フィルは顔を外へ出すようにして周囲を見渡した。
「…………」
しかし、外から聞こえてくるのは虫の声だけ。
静かな夜の音。泣き声は聞こえない。
「……?」
フィルは首を傾げて、窓を閉める。
ならば、この声は家の中から聞こえているのか。
「うえぇぇぇん!」
「……!」
今度ははっきりと聞こえる。
フィルは周囲を見渡した。
その時、ふと気づく。
「……?」
部屋の中にブルーテイルがなかった。
布団に潜っているのかと思い、毛布をめくるが姿はない。布団に入る時は確かに一緒だった。
「……何処行ったんだ?」
フィルは立ち上がり、部屋の外へ。襖を開けると廊下は真っ暗だった。
窓から差し込む月明かりが床の一部をぼんやりと照らしている。それ以外は、闇。
「………っ」
フィルは、ごくりと唾を飲み込んだ。さすがに、この暗さの中を何も考えずに歩くのは怖い。
彼は壁へ手を伸ばす。指先が壁に触れ、そのまま壁伝いにゆっくりと歩き始めた。
子供の声は、未だ続いている。
「うえぇぇぇん……!」
その声に、フィルの足は止まりそうになる。
「……」
怖い。凄く怖い。
深夜の暗い廊下。時折響く床の軋む音。
そして、何処から聞こえているのか分からない子供の泣き声。
「……ゆ、幽霊……とかじゃない、よな?」
口にした瞬間。フィル自身の想像力が余計な仕事を始めた。
暗闇の向こう。誰もいない廊下。
そして、泣いている何か。
「…………」
フィルの顔が引きつる。
「いやいやいや……そんなわけないから」
小さく首を振る。
そう自分に言い聞かせる。
だが──。
「うえぇぇぇん!」
「っ!?」
声が響いた。
フィルの肩がびくっと跳ねる。
反射的に一歩後退した。
「…………」
やっぱり怖い。
もし、本当に幽霊だったら。
フィルの口元が限界まで引きつる。
もう部屋へ戻ろうかと、そう思う。
戻ればいい。戻って布団に潜り込んで忘れて朝まで寝よう。
ブルーテイルなら、きっと大丈夫。朝になれば、いつの間にか戻っているかもしれない。
「……」
しかし。
ひとりで戻って、こんな気持ちのまま部屋でひとりで過ごすのは嫌だ。
「………んんっ」
戻るか。捜すか。
フィルはその場で葛藤を始めた。
頭の中で、二つの考えがぐるぐると回る。
戻れ。いや、捜せ。怖い。でも心配だ。戻れ。捜せ。戻れ。戻れ。
「……〜〜〜っ」
フィルは頭を抱えた。
そして。長い長い葛藤の末。
ゆっくりと顔を上げる。
「ブルーテイルを見つけて……さっさと部屋に戻る。うん、そうしよう」
小さく呟き、自分に言い聞かせるように頷く。
大丈夫。自分ならやれる。頑張れ。幽霊よりダリアンさんの方が怖い。そう思いながら、フィルは再び歩き始めた。
壁に手をつき、慎重に足を進める。
「うえぇぇぇん!」
声が、少しずつ大きくなっていく。
「…………」
フィルは顔をしかめた。
近い。どうやら、この先にいるらしい。
さらに進む。そして。
「…………」
フィルの足が止まった。
声の聞こえる方へ顔を向ける。
そこにあったのは、一枚の襖。
「……ここは」
フィルは息を呑んだ。
そこは、ルーンの部屋だった。
「うえぇぇぇぇん!」
「……!」
声は、この部屋の中から聞こえている。
フィルの目が見開かれた。
「え、…まさか」
ここはルーンの部屋。
ならば、この声は彼女のものなのか。
「(……でも)」
フィルは首を傾げる。
ルーンの声にしてはあまりにも幼い。この声は、まるでまだ小さな子供のようだった。
「…………」
確かめようとフィルは恐る恐る襖へ手を伸ばす。指先が取手へ近づいた、その瞬間。
「っ!?」
右手の掌に浮かぶ刻印が激しく痛み出した。慌てて手を引っ込める。
ずきずきと、掌の奥から刻印が脈打つような痛みを発している。
「………」
フィルは眉をひそめ、刻印を見つめた。
その時──。
「きゅう!」
「わああ!?」
すぐそばから声がした。
フィルは反射的に悲鳴を上げ、肩を大きく跳ねさせる。心臓が飛び出しそうになった。
慌てて振り向くと、そこにいたのは一匹の小さな獣。ブルーテイルだった。
「ブ、ブルーテイル……!」
「きゅう!」
足元にちょこんと座り、ブルーテイルは彼を見上げて再び鳴き声をあげる。
フィルは胸に手を当て、ほっと息を吐いた。どきどきと心臓の鼓動が掌へ伝わってくる。
「はぁ。すっごい驚いた…。……あ!」
そこで、フィルははっとして口元をおさえる。
今の悲鳴。かなり大きかった。
もしかしたら、ルーンに聞かれたかもしれない。
フィルは恐る恐る襖へ視線を向ける。先ほどまで聞こえていた声は、いつの間にか止まっていた。
「…………」
フィルは固まる。
襖は開かない。
しばらく待つも何も起こらない。
「……はぁ」
どうやら大丈夫なようだ。
フィルは胸を撫で下ろして小さく呟き、その場にしゃがみ込む。
「心臓止まるかと思った……」
右手の刻印は、まだ痛んでいた。
だが今は気にしないことにしてブルーテイルへ手を伸ばし、その頭へそっと乗せる。
「お前、何処行ってたんだ?」
「きゅうっ」
「……ん?」
わしゃわしゃと撫でていると、そこでブルーテイルが何かを咥えているのに気づいた。
「何だ、それ?」
フィルは手を伸ばす。
ブルーテイルの口から受け取ると、それは一枚の写真だった。
「写真……?」
フィルは目を細める。
暗すぎて何が写っているのか分からない。
「…………」
写真を少し傾けてみる。
月明かりに照らしてみる。
色んな方法で何が写っているのか見ようとしたが、どう頑張ってもよく見えなかった。
「あぁ……そういえば。タキシードが入った紙袋…客間に置きっぱなしだったな」
ふと思い出し、ぽつりと呟く。
その瞬間、ガラリと襖が開いた。
暗かった廊下へ、部屋の明かりが一気に広がる。
「……貴方たち、何してるの?」
声を聞いて、顔を向ける。
そこに立っていたのはルーンだった。




