気まぐれ
どこかの大陸。某所。
「…………」
少女は、いつの間にか知らない場所に立っていた。視界は薄暗い。石造りの壁には篝火が設置され、揺らめく炎が部屋を照らしている。
見覚えのない場所だった。なぜ自分がここにいるのかも分からない。
「……ここ、……どこ?」
不安そうな声が響く。
足元を見ると、複雑な模様の魔法陣が淡い光を放っていた。だが、その輝きは次第に薄れ、やがて完全に消える。
気がつけば、姿も元に戻っていた。
「…………」
体に異常はなく、変わったのは周囲の景色だけ。
「!」
その時、ガチャリと音が聞こえてくる。
少女は肩を震わせ、音の方を向いた。そこには扉があり、ゆっくりと開かれる。
「よかった。無事に転送は成功したようですね」
現れたのは、茶色の髪を揺らすメイド服の女性だった。少女は警戒し、いつでも動けるよう身構える。
「…………だれ?」
「安心してください。私たちは貴女の味方です」
女性は穏やかに微笑む。その直後、扉の向こうからまたも足音が聞こえた。現れたのは、黒いコートに身を包んだ男。
「……っ」
どくりと胸が跳ねる。
見覚えのある姿。忘れようとしても忘れられない人物。
「かふ……」
名を口にしようとしただけで、体が強張った。
男…カフルエルは女性の隣まで歩み寄り、少女を冷たく見据える。
「危なかったな。あと少し遅ければ、貴様はやられていた」
「…………」
「……何か言ったらどうなんだ。せっかく助けてやったのだぞ?」
「…………」
少女はスカートを握りしめ、震えを堪えながら顔を上げた。答えられず、ただ彼を見つめる。
カフルエルはしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。
「……まぁいい。転送には成功した。今はそれを喜ぼう。……後は任せる」
「かしこまりました」
女性が頭を下げるとカフルエルは踵を返し、部屋を出ていく。パタンと扉を閉めたその音を聞いた瞬間、少女はほっと息を吐いた。
「……はぁ」
張り詰めていた体から力が抜け、握りしめていた手も緩む。
「ごめんなさい。怖かったですよね」
「…………」
「彼、普段からあの顔だから誤解されてしまうんです」
女性は困ったように微笑んだ。
「………あなた、は……」
少女は、ようやく声を出す。
女性は姿勢を正し、スカートの裾を軽く持ち上げた。
「……はじめまして。私はシエルと申します。以後、お見知りおきを」
丁寧に頭を下げる。
少女は女性…シエルを見つめた。
彼女から嫌な気配は感じない。カフルエルとは違い、声も表情も穏やかだった。まだ信用しきれないが、それでも警戒心は少し和らぐ。
「……ここはどこ?」
「それは別の部屋でお話しいたします。とりあえず、ここから出ましょう。魔法陣を使用したことがバレたらいけませんので」
「……?」
その言葉に少女は首を傾げた。
シエルはそれ以上説明せず、少女へ手を差し伸べる。
「さあ、こちらへ」
少女は少し迷ったが、その手を取って部屋を出る。最初に視界映ったのは長い廊下だった。
「……わぁ」
思わず、声が漏れる。
壁には風景や人物の絵画が飾られ、床には等間隔に並べられた台座や花瓶、足元には繊細な模様の絨毯が敷かれ、壁の燭台が高い天井まで明るく照らしていた。窓には厚手のカーテンが掛かり、外の様子は見えない。
少女はきょろきょろと周囲を見渡しながら、シエルについていく。やがて、シエルは白い扉の前で足を止めた。
「ここです」
変わった形のドアノブを捻り、扉を開く。
「どうぞ」
「………」
中へ入ると、そこも豪華な部屋だった。広い室内には装飾が施され、中央にテーブルと椅子、奥には大きなベッドが置かれている。
「ふぅ……ここまで来れば一安心ですね」
シエルは扉を閉め、カチャリと鍵を掛けた。
「では、ご質問の回答をいたします。どうぞ、お掛けください」
「……うん」
少女はベッドの端に腰を下ろす。
少しするとシエルも少女の隣に腰を下ろした。
「ここは、とある方が所有する城の中です」
「……お城?」
「はい。私はこの城で働くメイドです。先ほどの男性…カフルエル様は、城で働く傭兵でいらっしゃいます」
「……どうして、わたしを助けてくれたの?」
「カフルエル様のいつもの気まぐれ、でしょうか。それと、転送魔法陣が正常に機能するかどうかのテストも兼ねていました。本当のことを言うと、相手は誰でもよかったのです」
「…………」
少し考えるように顎に手を添えてシエルは言うと、少女は言葉を失う。
誰でもよかった。ならば自分は転送魔法陣の実験に利用された。ということだ。だが、少なくともあの場所からは助け出された。理由はどうあれ感謝するべきなのだろう。
「……かふ、…あの人は、どこにいるの?」
「カフルエル様ですか?彼はまだ体調が芳しくなく、自室でお休み中かと」
「……そう」
少女は俯いた。できることなら、もうあの男とは会いたくない。
「……わたし、これからどうなるの?」
「貴女はどうしたいですか?」
「……え?」
「貴女の意見を尊重します。帰りたいと仰っしゃればご協力いたしますし、ここにいたいのなら専用のお部屋を用意いたします」
シエルは穏やかに微笑む。
聞かれて、少女は手を握りしめた。
ここに残る。それも、一つの選択肢なのかもしれない。だけど。少女にはやることがある。
「……わたし、……」
少女は顔を上げた。
脳裏に浮かぶのは、もうひとりの自分の姿。
「……わたし、お姉ちゃんのところに戻りたい」
ぽつりと呟く。
しかし、呪念石は手に入らなかった。手ぶらで帰ってしまっても許してくれるだろうか。
それでも、少女の気持ちは変わらない。帰りたい。帰らなきゃいけない。もうひとりの自分、ルーンのところへ。
「わかりました。では、こちらを」
少女の答えを聞いたシエルは頷き、立ち上がって少女の前にしゃがみ込む。エプロンのポケットから赤い宝石を取り出し、それを彼女に渡した。
「これは?」
「これは転送石というものです。この宝石に願えば、ここから彼女のもとへ戻れます」
「……!」
「ですが、そのためには城の外へ行かなければなりません。生憎と私はついていけませんが、問題なく辿り着けることでしょう」
「…………」
渡された宝石を少女は見つめる。
「そして、これが地図です」
言いながら、シエルは反対のポケットから一枚の紙を取り出す。その紙には城の外へ出るための道が簡単に書き記されていた。
「こちらを参考にしてください」
「……ありがとう」
「では、ここからはご自由に」
シエルは立ち上がり、目を閉じて静かに祈りを捧げる。
「……貴女に世界樹の加護を。どうか、お気をつけて」
「……うん」
そして彼女は踵を返し、部屋を出ていった。パタンと扉が閉まり、少女は宝石と地図を大事に握りしめる。
「…………」
呪念石は手に入らなかった。
けれど、悔やんでいる暇はない。
この城を出る。今はそれだけを考えなければ。
「っ、」
少女は宝石と地図を握りしめ、ベッドから降りる。怖くないわけではない。見知らぬ城を一人で出るのは不安だった。
それでも──。
「……お姉ちゃんのところに、帰るっ」
それでも、ルーンのところに戻る。何としても帰る。
決意を確かめるように呟き、少女は扉へと向かう。
カチャリと扉を開き、地図と宝石を握りしめた彼女は迷いのない一歩を踏み出した。




