何かが変わる
東の大陸、サクラ村。
清龍の家の玄関前で、シオンはひとり空を眺めていた。
本日は生憎の雨。ザアザアと音を立てて降り続ける雨が、庭の草木を濡らしていく。軒先からは雨水が絶え間なく滴り落ち、地面にはいくつもの水たまりができていた。
「…………」
シオンは、その様子を黙って見つめる。特に何かを考えているわけではない。ただ、空を眺めていた。
「あ、こんな所にいた!」
ガラリ、と玄関の扉が開く。
中から顔を出したのはフィラーラだった。シオンは一瞬だけ彼女に視線を向けると、再び空へと戻す。
「何してるの?」
「……別に」
「ふーん?」
フィラーラは不思議そうに首を傾げたが、特に気にする様子もなくシオンの隣に立った。そして、彼と同じように空を見上げる。
灰色の雲が空一面を覆っていた。雨は止む気配がなく、しばらくは降り続きそうだ。
「今日は雨だね。私、今日は外に出られないや」
フィラーラは眉尻を下げて笑った。今、彼女が立っているのは玄関のすぐ内側にある屋根の下。ここから一歩でも外へ出てしまえば、彼女の体は人魚の姿へと戻ってしまう。そうなれば、自力で移動することは難しい。
雨の日は、フィラーラにとって少しばかり退屈な日だった。
「……そうだな」
シオンは低い声で答えた。
表情は変わらない。
フィラーラはそんな彼の横顔を、ちらりと見つめた。
「………何か考えてる?」
「……いや。何も」
「本当に?」
「ああ」
淡々とした返事だった。
フィラーラは、ふうん、と小さく呟く。
シオンがこうして空を眺めている姿を見るのは、これが初めてではなかった。最近になって彼は理由もなく空を眺めていることが多くなっていた。
暇だからというわけでもない。何かを待っているようにも見えない。ただ、何もせず空を眺めている。
そんなシオンを見つけると、フィラーラも隣に立って一緒に空を眺めた。そうしているうちに、いつの間にかこれが二人のお決まりになった。
今日もいつもと同じように、しばらくの間、二人で空を眺める。やがて、フィラーラがぽつりと呟いた。
「……でも、今日はいつもの雨と違うね」
「……わかるのか?」
「うん。なんだろ。……空気が違うのかな?」
フィラーラは目を細め、雨の降る庭を見つめる。
「こういう日はね、世界のどこかで微妙に何かが変化してるんだって。この前、ルーンが見せてくれた本に書いてあったの」
「……世界のどこかで」
「うん」
シオンは、再び空を見上げた。
確かに、今日はいつもと違っていた。
周囲を漂う空気。雨の香り。時折、頬を撫でるように吹いてくる風。どれも、ほんのわずかな違いだった。
気のせいかもしれない。そう思って、シオンはあまり気にしないようにしていた。しかし、フィラーラも同じことを感じていた。
ならば、気のせいではないのかもしれない。
「…………」
シオンはゆっくりと空から視線を外した。そして、屋根の下から一歩踏み出す。
「……シオン?」
大量の雨粒が彼の体に降り注ぎ、ほんの一瞬でシオンの服はずぶ濡れになった。
「シオン……!風邪引いちゃうよ!」
フィラーラが慌てて声を上げる。
シオンは少し歩いたところで立ち止まり、雨に打たれながら静かに目を閉じる。
「……………」
深く息を吐き、意識を集中させる。
すると、シオンの足元に淡い光が浮かび上がった。それは、魔法陣のような形をしていた。
「……えっ?」
フィラーラは目を見開く。
シオンの足元で、光がゆっくりと広がっていく。幾何学的な模様が地面に浮かび上がり、雨に濡れた石畳を淡く照らした。
「シオン、魔法使えるの?」
「いや。使えない」
シオンは目を閉じたまま答えた。
「……これは、カケラの札を介して出現させているだけだ。……俺にも、問題なく感知できるようにな」
「……???」
フィラーラは首を傾げる。
説明を聞いても、いまひとつ理解できなかったらしい。
シオンはそれ以上何も言わず、再び意識を集中させた。
しばらくすると、足元の魔法陣がさらに強く輝き始める。淡い光が雨の中へと広がる。
やがて、魔法陣の中心からいくつもの光の粒が浮かび上がった。光の粒はふわふわと宙を漂い、シオンの周囲をゆっくりと巡る。
雨に打たれながらも、それらは消えることなく、淡い輝きを放ち続けていた。
「…………」
そして、シオンはゆっくりと目を開ける。視線を空へと戻す。
灰色の雲。降り続ける雨。
世界を覆う、どこか違和感のある空気。
――こういう日は、世界のどこかで微妙に何かが変化している。
先ほどのフィラーラの言葉が、頭の中で繰り返された。
「…………」
シオンは眉をひそめ、踵を返す。
玄関の扉を開け、彼は家の中へと入っていった。フィラーラも慌てて後を追う。
濡れた足跡が玄関の床にいくつも残された。シオンは廊下を進み、客間の前で足を止める。
「アラタ!」
「……ん?」
襖を開けた客間の中では、アラタがテーブルのそばで畳の上に寝転がっていた。
名前を呼ばれたアラタは、きょとんとした顔でシオンを見上げる。
「? どうかしたのか?」
「仕事だ。行くぞ」
「は?」
あまりにも唐突な言葉。
アラタは目を丸くしたが、しかしシオンはそれ以上説明することなく、すぐに踵を返す。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
アラタは慌てて起き上がり、シオンの後を追いかけた。
「おい!仕事って何だよ!どこに行くんだ!?」
シオンは答えない。
ただ、玄関へ向かって歩き続ける。
「シオン!」
フィラーラもまた、わけがわからないまま彼の後を追っていた。
玄関にたどり着いたシオンが扉に手を掛ける。その瞬間、フィラーラは彼の腕を掴んだ。
「シオン!待って!」
シオンが振り返る。
「……どこか行くの?」
フィラーラは眉尻を下げて尋ねた。
シオンは彼女の顔を見つめ、静かに答える。
「少し出掛ける。帰ってきたらルーンとフィルにもそう伝えておいてくれ」
「…………」
そう言って、シオンは優しくフィラーラの手をどかした。
玄関の扉を開ければ、再び雨音が家の中へと流れ込んでくる。
「……行ってくる」
シオンは外へ出ていった。
「……おい、待てって!」
アラタも慌てて靴を履くと、シオンの後を追いかける。
「………」
フィラーラは、玄関の前に立ち尽くした。雨の中、少しずつ遠ざかっていく二人の背中。シオンは一度も振り返らなかった。
アラタが何かを尋ねているようだったが、シオンは相変わらず淡々と歩き続けている。やがて、二人の姿は雨の向こうへと小さくなっていった。
「…………」
シオンが出掛けると寂しい。
フィラーラは胸に手を当て、そっと目を伏せる。
「きゅう?」
その時、足元から小さな鳴き声が聞こえた。
顔を向けると、ブルーテイルを乗せたグリーンが近づいてきていた。グリーンはフィラーラのそばまで来ると、そっと体を擦り寄せる。
「……また、シオンは出掛けたか」
「うん……」
「なに。今度もすぐに戻ってくる」
「………うん」
「きゅうっ」
ブルーテイルはフィラーラを元気付けるように小さく鳴く。フィラーラは二匹を見下ろし、これ以上心配させないように微笑んだ。
「……大丈夫だよ」
そう言いながらも、彼女の表情には寂しさが残っていた。グリーンはもう一度フィラーラの足に体を擦り寄せる。ブルーテイルもまた彼女の顔を見上げた。
フィラーラはゆっくりとしゃがみ込み、二匹を優しく撫でる。
「……早く帰ってきてね、シオン」
その小さな声は、雨音に溶けて消えていった。




