呪念石を、ただ見たい
「………んっ」
薄暗い意識の底から、エーはゆっくりと浮かび上がった。
「あ、気がつかれましたか?」
すぐそばで、人の声がする。
「……?」
エーは重い瞼を開いた。どれほど気を失っていたのだろう。
木々の隙間から覗く空は、すでに夕方の色へと染まり始めている。赤みを帯びた光が葉の間から差し込み、森の中へ細長い影を落としていた。
「っ……」
エーはゆっくりと上体を起こす。
体が重い。けれど、先ほど倒れた時ほどではなかった。
周囲を見渡すと、そこには見慣れた湖がある。
「……湖?」
そこで、額に何かが乗っていることに気づいて手を伸ばして触れる。手に取ると、それは濡れたハンカチだった。
「突然意識がなくなって驚きましたよ。そばにいたのが僕で良かったですね」
声の方を見る。
そこには、あの黒髪の男性…ダリアンが座っていた。彼は穏やかな笑顔を浮かべ、エーを見つめている。
「……」
エーはゆっくりと起き上がった。
胸の奥にはまだ嫌な気持ち悪さが残っていたが、先ほどよりは随分と楽になっている。
エーは何度か深呼吸をし、それからダリアンへ顔を向けた。
「あの、私……どのくらい?」
「そうですね……」
ダリアンは少し考える。
「いち……」
指を一本立て。
「二時間くらいでしょうか」
二本立てる。
「に、二時間……?」
エーの目が丸くなった。
「私、戻らないと……っ!」
それを聞いて、慌てて立ち上がろうと手に力を込めて足にも力を入れる。だが思うように力が入らず、体がふらついた。
「……っ」
「あぁ、まだ動いてはいけません」
倒れそうになったエーの体を、ダリアンが支える。
「あと数分の間は大人しくしていてください」
「でも、帰らないと……」
「急ぐ理由があるのはお察ししますが。貴女は先ほど倒れたのですよ。戻っている途中でまた倒れたりしたら、どうするおつもりですか?」
ダリアンはエーを支えたまま、穏やかに言った。
「わたしは、もう平気……」
エーは言い返そうとする。
しかし。
「………ごほっ」
小さく咳き込んだ。
それを見たダリアンはにこりと笑う。
「……あまり平気そうには見えませんよ。もう少し、ここで安静にするべきです。僕もいますから」
「…………」
笑顔。声も穏やか。
けれど、その口調には逆らわせない強さがあった。
エーはしばらく黙っていたが、やがて眉尻を下げる。
「……はい」
そして、小さく頷いた。
「素直な女性は好きですよ。あ、そのハンカチは差し上げます。気分が楽になる魔法が掛けてありますので。持っているだけでも効果がありますよ」
「……ありがとうございます。……えと、その……ごめんなさい。迷惑掛けて」
「いえ、お気になさらず。僕は清掃員ですからね。目の前に病人や怪我をした人を見ると、放ってはおけないんです」
「清掃員……?」
エーは首を傾げる。
頭の上に疑問符が浮かんだ。
「清掃員って、南の大陸の?」
「ええ」
「そんな人が、どうしてここに?清掃員って、確か……世界各地で起こった災害や魔獣によって被害にあった所を直しに行く人たちですよね?……でも、この森にはそんなところなかったはずですけど」
エーは顎に手を添えて、周囲を見る。
この精霊の森には清掃員が必要となるような場所はほとんどない。
この森には世界樹が存在しているから、多少の災害や自然による損傷があったとしても、世界樹の自己修復によって森は瞬く間に元の状態へ戻る。
それに、森の周囲には強力な結界が張られている。魔獣による大きな被害が起こることは考えにくいし、災害も完全にゼロというわけではないが、それでも、他の土地と比べれば圧倒的に少ない。
「僕がここにいるのは、仕事のためではありませんよ」
「? じゃあ、何で……?」
「僕は、ここに探し物に来たんです」
「探し物?」
「はい。呪念石という宝石を探しているのです」
「!」
ダリアンは笑った。
その言葉を聞いた瞬間、エーの表情が強張る。
「…………」
胸の奥がどくりと鳴り、ダリアンはその僅かな変化を見逃さなかった。
「ご存知であれば、教えてほしいのですが……」
「あ、……ええと」
エーは視線を逸らす。
「ごめんなさい……。ちょっと、わからないです」
「そうですか」
「その……呪念石ですか?……どうして探してるんですか?…それを見つけて、どうするんですか?」
「どうもしませんよ。僕は、ただ見てみたいだけです。宝石マニアとしてね」
恐る恐る聞くと、ダリアンはあっさりと答えた。
「…………」
エーは黙り込む。
嘘ではない。少なくとも、今の言葉に偽りは感じられなかった。
呪念石を手に入れて何かをしようとしているわけではない。本当に、ただ見てみたい。珍しい宝石だから。その程度の理由なのだろう。
「……」
エーは眉尻を下げ、咳をひとつ。
やはり彼は、ヴィーの言っていた「もう一人」で間違いなかった。
「ですが、そうですか。ご存知ありませんか。残念です。この森にあると聞いてきたのですが……」
ダリアンは少し残念そうに言い、湖の向こうへ視線を向ける。
「仕方ありません。自力で探すしかありませんね」
そして、そう言って立ち上がり、服についた埃や草を軽く払い落とした。
「では、僕は行きますね。…あ、そうそう貴女の名前を聞いていませんでした」
「え?」
「あの時はそれどころではありませんでしたから」
「あ……」
聞かれて、エーは少し考える。
彼に名前を教えても良いものかとも思ったが、一応恩人だ。教えても問題はないだろう。
「私は、エーといいます」
「エーさんですか。では、エーさん。僕はこれで。また、ご縁があればお会いしましょう」
ダリアンは微笑む。
そして、彼はそう言って歩き出した。
「…………」
エーは、その背中を見つめる。
理由が何であれ、彼は呪念石を探している。放っておくわけにはいかなかった。
「ごほっ……」
小さく咳をして胸に手を添える。
その手には未だ濡れたハンカチが握られていた。
「……ヴィーに知らせないと……」
エーはゆっくりと立ち上がる。
まだ体は重い。足取りも決して軽くはないが、先ほどのように倒れそうになるほどではなかった。
「ごほ、……ごほっ、」
赤く染まり始めた木々の間を、エーはひとり歩き出す。
一秒でも早くヴィーのもとへ。
その思いを胸に、時々転びそうになりながらもエーは必死に歩き続けた。




