幻と気配
真ん中の大陸。
その深い森の中には、人の手がほとんど入らない場所がいくつも存在していた。
木々は高く、枝葉を重ねるようにして空を覆っている。昼間であっても森の奥まで陽の光が届くことは少なく、風が吹けば葉と葉が擦れ合い、さざめくような音を響かせていた。
そこは、精霊の森。
数多の精霊と妖精が暮らすこの森のさらに奥地に、一つの小さな湖があった。周囲を木々に囲まれた、静かな湖。
その水は驚くほど澄んでいて、底に沈む小石の一つ一つまで見ることができる。
エーは、その湖の中にいた。
腰ほどまで水に浸かり、両手で掬った水を顔へとかける。
「……」
冷たい。けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。火照った体を静かに冷ましていくような感覚。
濡れた髪に指を通す。髪先から落ちた雫が、ぽたりぽたりと湖へ落ちた。小さな波紋が広がり、静かな水面を揺らしていく。
「にゃあ」
背後から聞こえた声に、エーは振り返った。湖のほとりにある岩場。そこでは小さな猫が岩を登っていた。エーの飼い猫である子猫のルミーだ。
「にゃっ」
小さな体を懸命に動かして岩を一つ登る。そして、少しだけ足を滑らせながらもまた次の岩へ。
「ふふ……」
その姿を見つめ、エーの口元が緩む。
ぴょんと跳ねるルミー。
それを追うようにエーの視線も動く。
胸の奥が、とくりと小さく音を立てた。
穏やかな時間だった。
風が吹き抜ける。頬を撫でる柔らかな風に、エーは目を細めた。
そして、彼女はルミーから視線を外す。
「…………」
湖の向こうに視線を持っていく。
見ると、木々の間には一人の男性が立っていた。
銀色の髪。こちらを見つめる瞳。そして、優しく微笑む顔。
「………」
エーは黙って、その姿を見つめた。ここへ来ると必ず彼が現れる。
初めてこの湖を訪れた時は本物なのかと思った。けれど、すぐに気づいた。違う。これは、この湖が見せている幻なのだ。
「…………」
この湖には不思議な力がある。
訪れた者の記憶の一部を視界に映し出す。
その人にとって、一番大切な記憶。一番大切な人。湖はそれを形にする。
だから。エーの前に彼が現れている。
「……どうして、貴方はいつも現れるの?」
小さな声で問いかける。
当然、返事はない。
彼はただ、いつものように微笑んでいる。
「………」
エーは湖の中を歩き出した。
足を動かすたび、水面が静かに揺れる。
一歩。また一歩。少しずつ彼との距離を縮めていく。やがて目の前まで辿り着き、エーはゆっくりと手を伸ばした。指先が彼の体に触れる。
「……」
幻覚なのに。触れられる。
そのまま腕を回して抱きつくと、彼もまたエーを抱きしめる。
まるで本当にそこにいるようだった。
「(でも……)」
けれど。体温はない。
胸の鼓動もない。
それでも。
「………」
エーは目を閉じた。
耳元で、微かな息遣いが聞こえる。
それは記憶の中に残るものなのか。それとも湖が生み出しているのなのか。エーには分からない。
ただ、その腕の中にいる間だけは何も考えずにいられた。
胸元で、金色の指輪がきらりと光る。
水面から差し込んだ光を受けて、一瞬だけ眩しく輝いた。
「…………」
エーはしばらく動かなかった。
ただ静かに、満足するまで彼を抱きしめていた。
+
湖を離れたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
森の中にある小屋へ戻ってきたエーは、扉を開ける。
「ただいまー」
「にゃっ」
扉が開くと同時に足元にいたルミーが先に小屋の中へ駆け込んでいく。その直後。「おかえり」と、中から声が返ってきた。
顔を上げると、そこには椅子に座ってオムライスを食べているヴィーがいた。
「ヴィー、それ私の……」
「ん?」
ヴィーは口の中のものを飲み込むと、スプーンの先をエーへ向ける。
「食べかけを残したまま出掛けんじゃねぇよ。勿体ねぇだろうが」
「帰ってきたら食べるつもりだったの。勝手に食べないでよ」
「だったら食えよ。ほら」
「……もういいよ。ヴィーが食べて」
エーは小さくため息を吐く。
そのままキッチンへ向かい、コップに水を注いだ。ごくごく、と喉を鳴らして水を飲む。
森の中を歩いてきた体に冷たい水が染み渡った。
「……また、あそこに行ってたのか?」
背後からヴィーの声がする。
移動してエーはテーブルの上にコップを置くと、彼の向かい側にある椅子へ腰を下ろした。
「ええ。……なんかちょっと、今日は体の調子が少し変だったから」
少し間を置いてから続ける。
そう言って、胸元へ手を添えた。
「……一時的に魂と器が合わさってなかったからな。まだしばらくは調子悪いだろうよ」
「…うん」
エーは自分の手を見つめた。
魂と器。普段なら意識することもないもの。
けれど、ほんの少し噛み合わなくなるだけで体には妙な違和感が残る。
エーは小さく息を吐いた。
「……オムライス美味しい?」
「不味かったら食わねぇ」
カチカチ、とスプーンが皿に触れる音がする。ヴィーは最後の一口を頬張ると、しばらく咀嚼し、それを飲み込んだ。
そして「ごちそうさん」と、両手を合わせる。
「そういえば、エイルさんには会いに行ったの?」
エーは空になった皿を持ち、キッチンへ向かいながら尋ねた。
「ああ。でもなんか忙しそうだったから、さっさと用件済ませて帰ってきた」
「そう」
シンクに皿を置く。
蛇口を捻り、流れ落ちる水の音。
カチャカチャと皿を洗う音。
そんな、いつもと変わらない時間だった。
ヴィーはテーブルの上に置かれたコップを手に取る。そして、水を一気に飲み干した。
「…………?」
そこで、ふとヴィーの動きが止まった。何かを感じ取ったように窓の方へ顔を向ける。
窓は開いていた。森の風がカーテンをゆっくり揺らしている。
けれど。その向こうから感じる気配は、いつもの森のものではなかった。
「……エー」
「なに?」
「水を止めろ」
「え?」
突然の言葉にエーは振り返る。
見ると、ヴィーの表情は変わっていた。先ほどまでの気の抜けた様子はない。
「水を止めろ」
「……うん」
再び言われ、エーは蛇口を閉めた。
静寂が包み、ヴィーは椅子から立ち上がると窓へ近づいて目を細める。
「……どうしたの?」
エーも彼のそばへ歩いていく。
ヴィーはしばらく森の奥を見つめた。
「……誰かが、この森に入ってきた」
「え?」
エーの表情が曇る。
精霊の森は普通の人間が簡単に入り込める場所ではない。森の存在を知っている誰かが入ってきたのだろうか。
しかしこの森の存在を知っているのはエーもヴィーも知っている人物だ。もし知っている誰かならば、ヴィーはこんなにも警戒はしないだろう。
「誰かな?」
「さあな。知らない気配だ」
ヴィーは短く答え、周囲を見回す。
掌に魔法陣を展開させ、刀を召喚した。
「……様子を見てくる。お前はここにいろ」
「うん。……気をつけてね」
ヴィーは扉へ向かう。
エーが頷くと、その足元から小さな影が飛び出した。
「にゃあ」
ヴィーの足元を駆けると、そのまま彼の体をよじ登っていく。
肩に乗ったのはルミーだった。
「…お前も来るのか?」
「にゃ」
「……用心棒にしちゃ心許ないが、いないよりマシか」
そして、ルミーを乗せたままヴィーは小屋を出て、森の入口方面へと走り出す。
木々の間を抜け、あっという間にその姿が遠ざかっていった。
「…………」
エーはその場に立ったまま、彼の背中を見つめる。
胸の奥に不安が残る。
風が吹き、森の木々がざわざわと揺れた。
「……エイルさんに知らせないと」
呟き、急いで小屋の中へと戻る。
扉を閉めて、扉そばの棚に置いてあった端末を手に取ると、彼女は小屋の奥にある部屋まで走っていった。




