ひとりいた!
翌日。
学び舎での授業を終えたルーンは、ひとり温泉小屋へと足を運んでいた。
露天風呂に体を沈めると、ルーンは深く息を吐く。
「……ふぅ」
湯気の向こう。見上げた夜空には薄い雲がかかっている。星々の光はぼんやりと滲み、どこか頼りなく見えた。
「んーっ」
ルーンは両腕をいっぱいに伸ばす。肩から力を抜き、ゆっくりと体を沈めた。
しばらくの間、何も考えずに湯を楽しむ。指先で湯をすくってみたり。手を動かして小さな波を作ってみたり。ぱしゃぱしゃ、と静かな水音が響く。
けれど、そんな時間は長くは続かず、やがてルーンは体を深く沈め、顎のあたりまで湯に浸かった。
「…………」
瞳から、ゆっくりと光が消える。
頭の中に浮かぶのは、ひとつ。黒い宝石のこと。
昨夜。再び自分のもとに現れた黒いワンピースの少女。少女というよりも、過去の自分。あの存在との会話によってルーンは今まで忘れていた幼少期の記憶を取り戻した。
しかし、あれは本当に自分の記憶だったのか。もしかしたらあの記憶は少女によって新たに与えられたものかもしれないが、確かなことは何も分からない。
「……でも、…たぶん蘇った……でいいのよね」
小さく呟く。
ルーンは目を閉じ、幼い頃の記憶をもう一度呼び起こす。
父。母。兄。そして自分。
家族で過ごした日々。笑い声。温かな食事。兄と遊んだ記憶。
その中で少女は黒い宝石を持っていたと言っていた。
「…………」
ルーンは眉を寄せる。
言われてみれば。確かに自分が幼い頃に何か宝石のようなものを持っていた時期があったような気がする。
けれど、それが黒かったのかどうかは分からない。そもそも。どんな形だったのかさえ、はっきりと思い出せないのだ。
「黒い宝石を探せって言われても……。それがどういうものか分からない以上は、探しようがないわ」
ルーンは目を開けた。
湯気の向こうへ視線を向ける。
今のところ、手掛かりと呼べるものはひとつ。あの日記帳だけだ。
日記の中に描かれていた絵。そこには幼い頃の自分と共に楕円形をした黒い宝石が描かれていた。
そして。
あの絵の中には見知らぬ男性の姿も描かれていた。
「……あの人は誰なのかしら」
記憶を探ってみる。
でも知らない。分からない。少なくとも、今のルーンには覚えがない。
彼は誰なのか。なぜ父親の日記に、その男性と宝石が描かれていたのか。
そこまで考えたところで、ルーンは小さく息を吐いた。
「闇雲に探しに出ても、時間を無駄にするだけよね……」
どうすればいい。誰かに相談するべきか。
真っ先に思い浮かんだのはシオンたち。彼らに頼んで、一緒に黒い宝石を探してもらうか。けれど。と、ルーンはすぐにその考えを打ち消す。
今、シオンたちが最も優先しているのはカフルエルの行方だ。それに昨日、日記帳はカフルエルとは関係ないとシオンからはっきりと言われている。お願いしたところで断られる可能性が高いだろう。
「……仕方ないわよね」
ルーンは呟いた。
彼らには彼らの目的がある。
そこへ自分の問題を持ち込むわけにはいかない。
ならば。自分ひとりで探すのか。
「…………」
答えはノーだ。
そもそも黒い宝石がどこにあるのかすら分からない。どんなものなのかも完全には分からない。
手掛かりは、古い日記と曖昧な記憶だけ。ひとりで探し始めたところで途方に暮れるのは目に見えている。
「じゃあ、どうするのよ……」
ルーンは湯の中で腕を組んだ。
頭の中で、問いと答えがぐるぐると回る。
誰かに頼む。でも、誰に?
シオンたちは駄目。
学び舎の知り合いに頼むというのも違う。そもそも、こんな話を信じてもらえるかどうかすら怪しい。
「…………」
考えているうちに体が妙に熱くなってきた。
さすがに、そろそろ出たほうがいいかもしれない。
「他に誰かに頼むとしたら……」
しばらく考える。
「……やっぱりギルドかしら」
冒険者や探求者。
そういう人間が集まる場所なら、宝石探しを頼むこともできるかもしれない。
「……でも、このサクラ村にギルドはないわ」
言いながら、ルーンは眉をひそめる。
ギルドで誰かに依頼するなら、もっと大きな街まで行かなければ。
しかし、今のルーンは学び舎に通う生徒。無闇に遠出するわけにはいかない。
休学願いを提出すれば長期間休むこと自体はできるが、
「そこまでするものでもないし……」
黒い宝石を探すためだけに、学び舎を長期間休む。
さすがに現実的ではなかった。
「………悩ましいわね」
本当に悩ましい。
ルーンは頭のてっぺんまで湯に沈んだ。
ぶくぶくと泡が水面へ浮かんでいく。
誰か、自分の代わりに探してくれる人がいればいいのに。
そんな都合のいい人間が――。
「…………ん?」
そこでルーンは、ぱちりと水中で目を開く。
そして、ザパンッ!と勢いよく顔を湯から出した。
「自分の代わりに、探してくれる人……?」
ルーンは瞬きをした。
顎に手を添えて、条件を考えてみる。
ルーンのことを知っていて、今の状況を知らなくて、できれば、自由に世界を動き回れる人。
そして。何かを探すことを生業にしているような人物。
「…………」
ひとり。いた。
「いるじゃない。ひとり……!」
ルーンの脳裏に、ひとりの男性の姿が浮かび上がる。
青い髪で酒をよく飲んでいた。かつて自分たちと行動を共にしていた仲間。「ちょっと休みたい」という理由で南の大陸へ帰っていった男。
「………っ」
そうだ。彼なら。
今の自分たちの事情を知らなくて、そして探求者だから世界を自由に動き回れる。
何より。かつての仲間である自分の頼みなら、話くらいは聞いてくれるかもしれない。
黒い宝石のこと。日記帳のこと。
すべてを話せば、もしかすると彼なら何かを見つけてくれるかもしれない。
「…………あ」
しかし。そこで問題に気づく。
南の大陸にいる彼へ。
どうやって連絡する?
「………うーん…」
ルーンは眉をひそめて考える。
考える。考える。考える。
しかし、なかなか良い方法は思い浮かばなかった。
その時、ガラリと突然温泉小屋の扉が勢いよく開かれる。
「お客さん!もうだいぶ入ってますけど、大丈夫ですか!?」
「え?」
音に驚き、ルーンは振り向く。
そこには灰色のエプロンを身につけた従業員の女性が立っていた。慌てた様子でこちらへ歩いてきて、忙しなく手を動かしながら彼女は心配そうにルーンを見つめる。
「あ、あの……!なかなか出てこないので、もしかしたら逆上せてるんじゃないかとか、溺れてるんじゃないかと思って…!」
その様子を見て、一瞬だけぽかんとしたルーンだったが、すぐに口元をほんの少し緩ませた。
「大丈夫よ。心配ないわ」
「……そ、そうですか?ならいいですけど……。お客さん、なかなか出てこないから、本当に心配しました」
「もう出るから、安心して」
「はい」
その言葉に従業員は胸を撫で下ろし、深く頭を下げると扉の向こうへ戻っていった。
ガラリと扉が閉じて、静寂が戻る。
「…………」
ルーンは夜空を見上げた。
そしてゆっくりと湯から上がり、脱衣場へ戻って体を拭く。
「………いい方法を考えないと」
どうにかして。何としてでも。
彼に連絡を取らなければならない。
彼に協力してもらうこと。それが今の自分にできる、唯一の道なのだから。
「……………」
ルーンは服の袖に腕を通す。
黒い宝石とは何なのか。
一体どこにあるのか。
答えはまだ、何ひとつ分からない。
だからこそ。
「……探さなきゃ」
ルーンは静かに呟く。
その瞳には、先ほどまでの迷いとは違う光が宿っていた。




