記憶
夜中。
静まり返った室内で、ルーンはふと目を覚ました。
「…………」
暗い天井を見上げる。
眠気の残る瞳をゆっくりと動かした。
「…………」
──また、いる。
ベッドの傍ら。暗闇の向こうから、あの少女が顔を覗かせていた。紫色の瞳が、じっとルーンを見つめている。
夢なのか、それとも現実なのか。もはやルーンには判別がつかなかった。
「……さがして、お姉ちゃん」
少女が、小さな声で言った。
「ほうせき。くろいほうせき」
「………どうして、私に言うの?」
純粋無垢な表情を浮かべる少女へ、ルーンは問いかける。
少女はしばらく黙っていた。
そして、にっこりと笑う。
「あのくろいほうせきは、お姉ちゃんのものだから」
「私の?」
「うん」
少女は嬉しそうに頷いた。
「お姉ちゃんとわたしのくろいほうせき。誰のものでもない。お兄ちゃんのでも、ぱぱのでも、あの人のものでもない」
幼い指が、ぎゅっと握られる。
「わたしとお姉ちゃんのほうせき。お姉ちゃんだけのほうせき」
「…………」
胸の奥がざわついた。
その言葉を聞いた瞬間、脳裏にあの日記帳が浮かぶ。
そこに記されていた家族。
父親。母親。二人の子供。
仲睦まじく暮らしていた家族を引き裂いた、黒い宝石。
そして、日記の中に何度も登場していた「娘」。あの娘とは、いったい誰だったのか。ずっと疑問に思っていた。
「…………」
けれど。もう、その答えは目の前にいる。この少女だ。
そして、あの日記を書いた人物は──。
「……あの日記」
ルーンは呟いた。
少女は何も答えずに、ただ笑っている。
ルーンは布団から体を起こした。今日はブルーテイルがフィルの部屋で眠っている。そのため、この部屋にはルーンと少女しかいない。
「どうして貴女のものが私のものになるの?」
問いかける。
「お姉ちゃんはわたしだから」
少女は、当然のことのように答えた。
「え?」
ルーンは首を傾げる。
意味が分からない。
少女は布団の上に跨るようにして座ると、ルーンと目線を合わせた。
「あの日記を見て、何も思わなかったの?」
「…………」
「……思い出してみて。ゆっくり」
少女の声は穏やかだった。
「ひとつひとつの言葉を順番に追っていけば、きっとすぐに思い出せるよ」
その笑顔はどこか寂しげにも見え、ルーンは眉をひそめる。
記憶を探る。日記に書かれていた家族。
父。母。兄。そして、妹。
笑い声の絶えない家。
それを壊した黒い宝石。
家族の間に生まれた疑念。
兄妹の間で交わされた言葉。
父親が残した記録。
ページを一枚ずつ思い返すたび、頭の奥が重くなっていく。
「…………」
その家族は。
自分の記憶にある家族と、あまりにもよく似ていた。
父がいた。母がいた。兄がいた。
そして、自分がいた。
「……ッ」
突然、頭の奥に鋭い痛みが走る。
「……あ……」
ルーンは額を押さえた。
何かが引っかかっている。
思い出せそうで、思い出せない。
その感覚が、ひどく苦しい。
「ぱぱが忘れなさいって言ったの」
少女が静かに言った。
「だからわたしは、お姉ちゃんは忘れたの」
「…………っ」
「だからまた、わたしはお兄ちゃんと仲良くなれた」
痛みが強くなる。
ルーンは頭を押さえながら、体を丸めた。
「な、……に……」
何かが崩れていく。
頭の中に積み重なっていた霧が、少しずつ晴れていった。
「………!」
そして──蘇る。
幼い頃の封じられた記憶。
幼い自分。父親の姿。母親の笑顔。隣にいた兄。家族で過ごした日々。何気ない会話。一緒に笑った時間。
自分は、確かにそこにいた。
けれど、その記憶には決定的に欠けているものがある。
黒い宝石。
その存在だけが、まるで最初から切り取られていたかのように消えている。
「……これは、……私の記憶……、だけど……っ」
思い出さなくても家族のことははっきりと覚えている。
父親の顔も、母親の顔も。一緒に笑い合ったことも。あの頃の記憶はルーンにとって大切なものだ。
なら、この記憶は何。自分の知らない自分と家族の記憶。
「っ、」
ルーンは荒い息を吐き、首を振った。
「思い出した?」
少女は微笑む。
「……そう。それがお姉ちゃんの記憶」
少女は自分の胸元へ小さな手を置いた。
「同時に、わたしの記憶でもあるの」
「…………」
「ぱぱは、わたしとお姉ちゃんの宝石を奪い取って、どこかに隠してしまったの」
少女の声が、ほんのわずかに遠のく。
「だから……──」
そこで、言葉が途切れた。
ルーンは続きの言葉を待ったが、しかし少女はそれ以上何も語らない。ただ静かに、ルーンを見つめている。
ルーンは息を整えながら、蘇った記憶を一つずつ整理していった。
「はぁ……」
日記に記されていた娘。
それは、自分。
ならば。日記に記されていた家族は──。
「……私の家族……」
呟いた瞬間、背筋が凍る。
日記を書いた人物。それは自分の父親だ。
そして、黒い宝石を巡って対立していた兄というのは…。
「っ……」
ルーンは息を呑んだ。
さらに別の記憶が押し寄せてくる。
両親が命を落としたあの日。
刻印を持つ男たちが暴走し、集落中を駆け回っていたあの日。
危険を避けるため、ルーンとリースレッドは地下室へ避難させられた。
そこにいろ。外へ出るな。
そう言われていた。
けれど。
幼いルーンは外へ出た。
リースレッドの隙をついて。
「…………?」
──いや、違う。
隙をついたのではない。
兄は──わざと、自分を外へ出したのだ。
その事実を思い出した瞬間、記憶の景色が鮮明になる。
外へ飛び出した自分。
両親を探して走り回り、そして──。
「ルーン、来ちゃ駄目!」
母親の声。
顔を向けた先に、両親がいた。
父親が自分を庇った。
そして父親は、その場に崩れ落ちた。
幼い自分は、ただ呆然と見ているしかなかった。
感じたのは悲しみか。恐怖か。あるいは後悔か。
「…………」
違う。そのどれでもない。
あの時、自分の中にあったのは。
"無"だった。何もなかった。
あの時、ルーンは何も感じなかった。
その後、リースレッドが現れ、幼いルーンを抱き上げて逃げた。
安全な場所へ連れて行くために兄は自分を連れて逃げた。刻印の男たちから守るために、自分を殺されないように。そう思っていた。
その時の兄の表情が、記憶の中で鮮明に蘇る。
「…………!」
ルーンの瞳が大きく見開かれた。
あの時、自分はリースレッドを見ていた。
その顔を。幼い自分は見ていた。
──あの時、兄は笑っていた。
「…………っ」
ルーンの喉から、かすかな息が漏れる。
蘇った記憶の中の兄は、両親を失った直後であるにもかかわらず。妹を抱えながら確かに笑っていた。嬉しそうに。満足げに。
そして、その兄に抱えられている自分も…。
「っ!」
ルーンの体が震える。
目の前の少女は何も言わなず、ただ静かにルーンを見つめていた。その瞳は、自分と同じ紫の瞳。
そしてルーンは、ようやく理解する。
この少女は、見知らぬ存在などではなかった。
「だから……さがして。お姉ちゃんの、くろいほうせき」
少女は言う。
そしてその姿は、夜の闇へ溶けるように消えていった。
「……………」
あとには、震えるルーンだけが残される。
胸の奥で何かが大きく崩れ落ちる音がし、ルーンは唇を噛み締めた。




